長尾三郎 マッキンリーに死す   ——植村直己の栄光と修羅 目 次  プロローグ  第一章 栄光の彼方に見たもの  第二章 冒険家の原点  第三章 「ジャパニ・エスキモー」極北を駆ける  第四章 「現代の叙事詩」北極点大遠征  第五章 修羅と敗北  第六章 見果てぬ夢を残して  エピローグ  引用・参考文献  文庫版あとがき [#改ページ]   プロローグ 「いやあ、とうとう来た」  白一色の酷寒の地に足を踏み入れた植村直己は、感概深そうにカヒルトナ氷河の感触をかみしめた。吹雪《ふぶ》いてはいないが、カヒルトナ頂上のほうにかすかにガスが流れ、その奥に厳しい白い稜線が天空に向けて連なっている。  一九八四年(昭和五十九年)一月二十六日、植村は、地元のエア・タクシー、ダグ・ギーティングの操縦する雪上飛行機で、十四年ぶりに、北米の最高峰マッキンリー(六一九一メートル)のカヒルトナ氷河に降り立った。素早《すばや》く装備類を雪の上に放り投げる。再び離陸する飛行機を見送った植村は、ゆっくりと雪の中を歩き回った。 「それにしても雪が深いなあ」  新雪が深いうえに、風が異常に冷たい。毛皮のついた防寒用の帽子をすっぽりかぶっている植村の顔が、寒さにゆがんだ。  マッキンリーは、植村にとって三度目の挑戦である。最初は、まだ無名時代、世界中を放浪していた植村が一九六八年(昭和四十三年)、二十七歳のとき。そのときは「四名以下の登山は禁止する」という国立公園の規則に阻《はば》まれてあきらめている。  二度目は、一九七〇年(昭和四十五年)、日本人として初めて世界最高峰エベレスト(八八四八メートル)の頂上に立った植村は、その余勢をかって、このマッキンリーの単独登頂を果たした。そして彼は、すでに一九六六年に登っていたヨーロッパ最高峰モンブラン(四八〇七メートル)、アフリカ最高峰キリマンジャロ(五八九五メートル)、六八年の南米最高峰のアコンカグア(六九六〇メートル)と合わせ、世界で最初の「五大陸最高峰登頂者」の名誉に輝いたのだった。植村が二十九歳のときである。  その後、植村は「垂直から水平へ」と冒険の座標軸を変え、一九七八年(昭和五十三年)、犬橇《いぬぞり》で世界初の北極点単独行、続いてグリーンランド縦断の二大冒険をなしとげ、世界を驚嘆させる。二十三歳で日本を飛び出した放浪青年は今や「世界のウエムラ」に変貌していた。  だが、栄光のあとに厳しい試錬が訪れる。一九八一年、冬期エベレスト登頂失敗、一九八三年には植村の「最後の夢」だった南極大陸横断と同大陸最高峰ビンソン・マシフ(五一四〇メートル)登頂計画が、フォークランド紛争のためにあえなく挫折した。いわば二連敗である。  そして今、四十三歳の植村直己は「再起」を賭けて、三度《みたび》このマッキンリーに挑戦、厳冬の単独登頂の栄光を狙《ねら》おうとしていた。  かといって、植村が異様に緊張していたわけではない。植村には「ベースキャンプ(BC)まで」という約束で、テレビ朝日ディレクターの大谷映芳が同行取材をしていた。植村が大谷の取材を受け入れたのは、大谷がテレビ関係者であると同時に、日本を代表する現役の優秀なクライマーだったからだろう。  大谷映芳は七歳下の三十六歳。早大理工学部卒で山岳部出身。一九八一年八月七日、早稲田隊が挑んだ世界第二の高峰K2(八六一一メートル)の西稜から登頂に成功。これはバリエーション・ルートによる世界初の完登となった。  一月三十日、カヒルトナ氷河の二二〇〇メートルに設営されたBCで、一六二センチ、六五キロ、「リトル・ジャイアント」と呼ばれる植村と一八〇センチの長身クライマー・大谷は、こんな話を交《か》わした。 「今回のマッキンリーの目的はなんですか」 「まあ冬の単独登頂をやりたいという気持ちはいちおうあるけれども、それよりも、やっぱり南極に行きたいという気持ちがまだ完全に抜き切っていないんですよね。だから極地の冬の山を試しに登ってみて、なにか南極の糸口が見つかればいいなと思っているんです」 「チームで登るのも冬のマッキンリーというのは大変なんですけど、一人っていうのはまた大変でしょうね」  大谷映芳が心配すると、植村が人なつこく笑った。 「どうです。これ、見てくださいよ。おれのやり方のルーズなのは、もう……。テントなんかも持っていくのはやめたとかね。いちおう、雪洞《せつどう》に寝てみてね、まあ、これだったらやれるっていうものができたし、あとはシュラフ(寝袋)を持っていくか持っていかないかで、今まだ迷っているんだけれども、やっぱりシュラフを持っていったほうが安全な感じもするしね。ところがシュラフを持っていくっていうのは重量がかさむからね。その分、食料入れたほうが、天気悪くなっても粘れるし、そのほうがいいんじゃないかと思ったり、まだ踏ん切りがつかないんですけどね」 「食料もだいぶ考えられてんですか」 「いや、食料ったって、今その中にカリブー(北米産トナカイ)の肉を切ったの、詰めてあるだけ。あとは鯨《くじら》の脂があるだけですよ」 「何日分用意するわけですか」 「いちおう、十日分はね。一日一キロ弱ぐらいですね。十日分から、まあ食い延ばしすれば二週間は、という気持ちで……。おれのやり方はいつもこんな感じで、まあ、途中はどうあっても、目的さえちゃんと達せればそれでいいっていうようなとこがあるんですよ」  植村はそういってまた笑ったが、その笑顔には余裕があり、不敵な笑みにも見えた。これまで数々の冒険を乗り越えてきた男の自信なのか、それとも他人を意識した笑い声だったのだろうか。寒暖計は氷点下三五度を示していた。 「植村さんはよく人から探検家、冒険家と、こう呼ばれますね、あと登山家。その中でどれが自分にいちばんピタッときますか」 「いやあ、一時は気になったことがあったんですけどね、今はなんと呼ばれても、全然もう、それは人が勝手にいうことであって、自分は自分のやり方でやっているんだから、それはいいんだ、という気持ち。人を意識している中で登ったり行動したりしてると、どうしても無理が生じるんですよね」  植村はふだんは寡黙《かもく》だが、心を開いたときには饒舌《じようぜつ》となる。植村はよくしゃべった。 「おれは探検家なんていう気持ちを持って登っていることは、あるいはやっているということは、まず考えたこともない。じゃ冒険家かっていえば、確かに危険にさし迫りながら切り抜けてやってきているから、まあ冒険家といえるかもしれない。でもね、危険を冒しているとは自分で思わないんですよね。だいたい、冒険なんていう意味からして、危険を冒してやるという感じでしょう。まあ、冒険心なくしてはものができないということはありますがね。おれ自身の中に、今までやってなくて、知らなくて、そしてなにかをやりたいという気持ちがあって、これに自分がいちばん幸せを感じたとき、あえてできるという自信が、経験の中から自信が出たときには、やっぱり決行します。それから登山家はね、もう過去のことであって、この二月十二日には四十三歳の誕生日を迎えるんですけどね、こういう齢《とし》になってきて、自分のやれる範囲の中での登山ができれば、それでいいんだという考えですね。おれなんか技術もない、ただ極地のほうでずーっと十年少々やってきたんで、こういうものが生かせる登山ができればいいと思っているんです」  植村はそこで言葉を切って、自分の言葉を深くかみしめるように、こう強調した。 「ただ自分勝手になんでもやればいいなんていうのは間違いであって、絶対に生きて還らなくちゃいけないっていうのが、山でも、冒険でも、探検でも、大きな鉄則の一つだと思います」  二月一日、植村直己は青いカシミヤパイルのジャンパー、それにゴアテックスの赤いヤッケ上下で防寒し、ザックをプラスチック製の橇《そり》に乗せて、午前十時三十分にBCを出発した。天候はくもり、のち雪。気温は氷点下三〇度。  植村は、体に妻の公子《きみこ》が送ってきた五メートルの竹竿《たけざお》を二本、武士の刀のように胴の両脇に差し、足には細長いスノーシューズをつけ、左肩から橇を引く紐《ひも》をかけて、上へ行動を開始した。午前中は少し青空がのぞいていたが、正午すぎからガスが一面をおおって視界をふさぐ。ヒドンクレバス(雪に隠れたクレバス)を避けて、ただ一心に新雪の中をのろのろと歩む。全山白一色の世界にのみこまれるように次第に小さくなっていく植村の姿。その姿がひどく孤独に見えた。やがて赤い点はケシ粒ほどの黒い点と化し、大自然の荒涼とした白銀の中に消えた。 [#改ページ]   第一章 栄光の彼方に見たもの   1 エベレストへの道 「エベレストに登頂したという経験は、その人間を幸福にするか不幸にするか(文献1)」  植村直己がマッキンリーに消えたあと、二ヵ月後の四月末、私はエベレストへ向かっていた。「世界のウエムラ」への道はエベレストから始まっている。私はカトマンズを飛び立った双発機ツインオッターの後方の座席で揺《ゆ》られながら、植村が自らに問いかけたこの言葉を反芻《はんすう》していた。 「間もなく前方にエベレストが見えますよ」  スチュワーデスの声に、機内から身を乗り出すようにして左窓を見ると、やがて世界の最高峰エベレストがかすかに見えだした。右にローツェ(八五一一メートル)を従え、前方にヌプツェ(七八七九メートル)の稜線《りようせん》が連なった奥に、エベレストは三角形の頂上を一人超然と天に突き刺していた。マカルー(八四八一メートル)、カンチェンジュンガ(八五九八メートル)の山群も、次々と姿を現わす。それは巨大なヒマラヤの一大パノラマだった。  私はエベレストに目を吸い寄せられた。あの頂上を目指してマロリーとアービンの悲劇をはじめ、人類の幾多の攻防が展開されてきた。加藤保男も、厳冬期の氷雪に消えた。植村直己はこのエベレストに都合《つごう》五回もアタックしたのだ。  双発機はやがて機首を下げて下降を開始した。谷越えに小さな平坦地が迫ってくる。双発機はその一角に突入していった。コンクリートで舗装された滑走路もなにもない。窓すれすれに山腹をかすめ抜けた双発機は、まるで曲芸着陸のようにバウンドし、坂道を登るようにして、やがて止まった。そこがルクラ飛行場だった。無事に着陸した瞬間、機内にいっせいに喚声と拍手がわいた。ホッと一息ついて機外へ出ると、飛行場の一角に、着陸に失敗して破損した飛行機の残骸《ざんがい》が二つ風雪にさらされていた。 「あの残骸の一つは、植村さんたちが第二次|偵察《ていさつ》にきたときのやつですよ。幸い死傷者はありませんでしたけどね」  それを聞いて、私は身震《みぶる》いがした。  ルクラ飛行場は標高約二九〇〇メートルの高さにある。私は、十五年前の一九六九年に植村が第一次偵察隊として初めてエベレストに向かった道と同じ�エベレスト街道�を歩き始めた。  荷物を運んでくれるのはシェルパ族の男たちだが、中には子供や娘もいる。彼らは日本人と同じ体型で顔だちも似ており、親近感がわく。ただ服装は質素というより貧しく、はだしでガレ場のような道を歩いている子もいた。  私が道中いちばん怖《おそ》れていたのは蛭《ひる》の襲来だった。一九七六年にアメリカの日曜登山家十二名がエベレストに挑んだときのことだ。 〈わたしは朝の排便のために足をとめた——踏路をはずれ、高く茂った雑草をかきわけ、いくつか岩をよじ登って、しゃがみこむと、片脚に蛭が三、四匹吸いついているのが目にとまる。打ち、叩き、はさみつぶして、結局、全身に小便をひっかけるはめになる。ことがすんで、ズボンのチャックをしめるために立ち上がると、なんとペニスに蛭がたかっている——すぐ目の前でせっせとわが一物に取り組んでいるのだ(文献2)〉  この記録を読んでいたから、私は恐怖にかられ、キジ(野糞)もうてず、とうとう便秘になって苦しい腹をかかえて歩くことになってしまった。もっとも高山病にかかって、下痢の連続よりはよかったかもしれない。なにしろエベレスト街道は細い一本道だから、下痢の人はどこかに駆けこむのに大変だった。ヒマラヤはテント生活をしながら、いくつもの山を登っては下り、下ってはまた登り、徐々に距離を伸ばしていく。一日平均して六時間から八時間は山を登り下りするが、標高差にして五〇〇メートルくらいにしかすぎない。それ以上急激に急ぐと高度順化ができないからだ。それだけヒマラヤは奥ゆきが深い。  ラマ教寺院の総本山にあたるゴンパ(僧院)のあるタンボチェに私が着いたのは、ルクラを出発して四日目だった。極彩色の曼陀羅《まんだら》が天井に描かれたカンニ(仏塔門《ぶつとうもん》)をくぐると広大な台地になっている。標高三八六七メートル。すでに富士山より高い。左手に壮麗なゴンパがあり、ラマ僧たちが出入りしていた。カウベルをつけた牛がゆったりと草を食《は》む。僧院を配して見るアマ・ダブラム(六八五六メートル)は絶景だった。アマ・ダブラムは「母の首飾り」という優雅な名前を持つ。しかし高い峰の頂上近くに浮かぶ雪景が、ごつい人間のようで、なぜかベートーベンの石膏のデスマスクを連想させた。毎年何人もの登山家がヒマラヤで死ぬ。その霊がデスマスクの形となって刻みこまれているような気がした。  私は前方のイムジャ・コーラ峠のほうに目を向けた。雲が激しく動いている。雲の切れ間に不意にエベレストが顔を出した。突然だった。ヌプツェの稜線の上に、エベレストが三角の上部を鋭く天に突き刺していた。間近に見るエベレストは神々《こうごう》しいまでに壮厳《そうごん》で美しかった。鳥肌《とりはだ》がたつような戦慄《せんりつ》が体中を突き抜けた。魂をゆさぶられるような、言葉では形容できない感動というものがある。植村がエベレストを見た瞬間、 「おお、エベレストだ」  と一声叫んだ気持ちが初めて実感できた。  朝四時、タンボチェはまだ乳白色の霧の中に沈んで眠っていた。遠くでラマ教の経文《きようもん》を唱える声がする。手前の茶褐色の岩壁の山はまだガスっている。そのうち霧が一瞬にしてはけた。神々の座が峻険な頂上と稜線をくっきり浮かび上がらせた。エベレストの偉容が黎明《れいめい》のくる一瞬前の青黒い空を突き刺している。四方をとり囲む六〇〇〇〜七〇〇〇メートルの山々が白く輝きだす。一瞬にしてまた霧が流れて神々の座が消えた。刻々と変化するヒマラヤの山。とらえがたい一瞬の美。幻想的な夜明けのドラマ。私は黎明の中に立ちつくして身動きができなかった。  私のなかでワグナーの曲が幻聴のように聞こえてきた。壮厳な天地の神秘さと、静寂《せいじやく》な悠久の大自然の中で『さまよえるオランダ人』を耳の奥に聴きながら、エベレストに対面していた。  私は植村直己の生涯のことをずっと考えていた。あとの章で登場してくるが、極北のリゾリュートに住む植村の理解者ベーゼル・ジェスダーセンは、植村のことを「漂流者」といった。  悪魔に呪《のろ》われたオランダ人の船長は、彼のために生涯の愛をささげる女性を見つけるまで海をさまよわなければならない。七年ごとに一度だけ陸に上がることを許されるが、永遠の漂流者だ。しかし、ついにゼンタという美しい娘とめぐりあう。それも束《つか》の間《ま》、現実の人間関係の醜さに失望して、船長はまた海にさまよい出していく……。  冒険という名の�悪魔�に魅入《みい》られた植村の姿が、私のなかで、さまよえるオランダ人船長の孤独な姿とオーバーラップした。ワグナーの壮大なシンフォニーが、黎明の白き神々の世界に鳴りわたっていた。  エベレストは北緯二七度五九分一六秒、東経八六度五五分四〇秒。ネパールとチベット(中国)にまたがり、中国名は珠穆朗瑪《チヨモランマ》峰といい、「山の母神」を意味する。ネパールではサガルマータと呼ばれているが、タンボチェから見える八八四八メートルの世界の最高峰は、雪煙を吹き上げて天空高く屹立《きつりつ》していた。十五年前、いまだ前人未踏の南壁に植村たちは挑戦した。   2 男たちの争い 「日本隊は世界最高のエクスペディション(遠征隊)であると私は断言できる。なぜなら四十名に近い隊員が六十名のシェルパと千百名のポーターたちと人間的な信頼関係に結ばれて、これまで協力してやってきたからだ。これはネパールと日本の友好のためにも望ましい。私は日本隊が必ずやエベレスト登頂に成功するであろうことを確信する」  連絡将校《リエゾン・オフイサー》が、サントリーのウイスキーを片手に上機嫌でこう挨拶した。  遠征隊には必ず現地の連絡将校がつく規則になっている。全隊員から大きな拍手がわいた。植村もニコニコ顔である。  一九七〇年(昭和四十五年)三月、「日本山岳会エベレスト登山隊」が、ここタンボチェに集結していた。日本が初めてエベレストに挑むこの隊は、�国家的事業�ともいえる期待のもとに、総隊長に財界の重鎮《じゆうちん》で山岳界の長老・松方三郎(71歳)が就任。大塚博美|登攀《とうはん》隊長(45歳)以下三十名の隊員、報道関係者も加えると総勢三十九名の一大エクスペディションであった。隊員は各大学から選抜されていたが、大学別で見ると、大塚登攀隊長の母校、明大がいちばん多く、第一次偵察隊長の藤田佳宏(37歳)、土肥正毅(31歳)、平野真市(31歳)、植村ら六名。早大は松浦輝夫(35歳)、慶大は成田潔思(28歳)の各一名。社会人クライマーからは小西政継(31歳)、吉川昭(27歳)、伊藤礼造(23歳)の三名。紅一点として、パキスタンのロックピーク(七二〇〇メートル)に登り、日本女性の最高到達記録を持つ渡部節子(31歳)が参加していた。  大塚登攀隊長ら本隊二十五名は、二月十六日にカトマンズ入りした。前年の第一次、第二次偵察隊に参加、その後、クムジュンで越冬していた植村は、準備万端を整えて待機し、大塚らと再会。二十日、ラムサンゴからキャラバンを開始した本隊は、三月六日、タンボチェに到着。大塚は「高度順化のため、ここで十日間滞在する。各自が休養をとり、小旅行などして高度順化をはかるように」と指示した。  後楽園球場の二倍以上の広さを持つ寺院の境内《けいだい》に、十張りのテントが張られた。設営班は植村をはじめ、松浦、成田、神崎忠男(日大・29歳)、錦織英夫(学習院大・29歳)の五名。シェルパと生活した経験を持つ植村は、シェルパたちがサーダー(シェルパ頭)に対して絶対的な服従をすることを知っていたので、サーダーと相談して、てきぱきと処理して隊の信頼を集めた。第二次偵察隊のときのサーダー、ミンマ・ノルブとも、一九六五年の明大山岳部のゴジュンバ・カン遠征隊のとき一緒で、ともにザイルを結んだ仲であった。ゴジュンバ・カン遠征での活躍がなかったら、今回の植村のエベレスト参加はなかったかもしれない。  一九六五年(昭和四十年)四月、高橋進を登山隊長とする「明治大学ネパール、ヒマラヤ学術調査隊」が、未踏峰のゴジュンバ・カン(七六四六メートル)を目指した。メンバーは藤田佳宏(32歳)、平野真市(26歳)、小林正尚(23歳)らを含む八名で、いずれもヒマラヤは初めてという男ばかりである。植村もこの隊に参加していた。  当時、植村はフランスのシャモニー近くの片田舎、ジャン・ビュアルネの経営するスキー場にやっと職を得たばかりだが、明大隊がゴジュンバ・カンに遠征するというニュースを知って、いいようのない焦燥感にかられた。眠れない日もあった。思いあまった植村は明大隊へ手紙を送った(文献3)。 「どうせ僕などはフランスにいるのだから隊員にはなれないかもしれないが、シェルパでも、ポーターの代わりでも、なんでもするからヒマラヤへ連れて行ってもらいたい……」  折り返し、手紙がきた。 「日本を出発するまでは正式な隊員と認めるわけにはゆかないが、君がカトマンズまで来てしまえば、なんらかの形式で隊に一緒に加わるようにしてやる。実質的にはむろん隊員として扱うが、ネパール政府が隊員一人の追加を認めるかどうかが問題だから……」  こうして植村は二月十九日、フランスより空路カトマンズ入りし、隊に合流した。小林正尚は明大山岳部の同期生で、四年のときは小林がリーダー、植村がサブリーダーをつとめた。小林らに見送られて横浜を出港してから、約一年ぶりの再会だった。  ゴジュンバ・カンは、エベレストの北西三五キロ、チョー・オユー(八一五三メートル)の隣りにあって、チョー・オユー㈼峰と呼ばれている。この登山で植村は栄光への糸口をつかむことになるのだ。  四月二十二日、第一次アタック隊の小林たちは頂上を目指したが、上部に横たわるクレバスや壁に阻まれ、時間切れとなって断腸の思いで敗退した。植村に信じられないようなチャンスがめぐってきた。第二次アタック隊としてペンバ・テンジンと頂上にトライすることを命じられたのだ。  C2から高橋が双眼鏡で見ながら、トランシーバーを使ってルートを指示する。 「バカ野郎! お前は右と左の違いがわからないのか? 下から見て右側というのはギヤチュン・カン寄りだぞ!」 「はい、わかりました。すいません」 「勝手に歩かないで、面倒がらずにトランシーバーで、ルートを聞かなけりゃダメじゃないか」 「はい、そうします」  切迫する時間の中で焦った高橋の怒号がつい大きくなる。  上では植村とペンバが苦闘していた。ペンバがさかんに「インポッセブル(不可能だ)」という。ロープやピトンもすっかり使い果たした。これ以上の登攀はもう無理だ。壁にへばりついたまま、植村はトランシーバーに話かけた。「もう引き返せ」といってもらうためだった。しかし、また高橋の声が飛びこんできた。 「もうあと二〇メートルくらいで壁は終わるぞ。がんばれ!」  最後の死力を尽くす。突然、ペンバが叫んだ。 「トップ、トップ、ノーモア・ゴーイング・アップ、プリーズ・ウエムラ・サーブ」  五時五分、ついに頂上を踏んだ。植村は高橋を呼び、夢中でなにかをしゃべった。涙がとめどなくあふれた。ペンバも泣いている。植村は思いもかけないめぐり合わせから、未踏峰ゴジュンバ・カンの最初の栄光のサミッターとなったのだ。  黄昏《たそがれ》の薄もやの中に、ギヤチュン・カンの後方にはエベレストの黒い岩壁が、植村をさらに招き寄せるように聳《そび》え立っていた。トンビがアブラアゲをさらったようなゴジュンバ・カンの栄光が、やがて植村の心を苦しめる。 「自分はなんの準備をしたわけでも、金を出したわけでもないのに申しわけない」  植村は心底《しんそこ》そう思った。そこに謙虚すぎるほど他人に気配りする彼の人柄がうかがわれる。 「お前は隊員でただ一人の登頂者だから、一緒に日本に帰れ」  という高橋隊長の�命令�を振り切って、植村はそのままフランスに戻った。彼の頑固《がんこ》さも同時に顔をのぞかせている。  そして五年後の今、植村はゴジュンバ・カンの実績を買われて、日本隊が初めて挑むエベレストの南壁に挑戦するメンバーに選ばれた。あのとき眼前に見た夕映《ゆうば》えのエベレストが、植村の心に焼きつき、彼の闘志を激しくかきたてていた。  明大隊がゴジュンバ・カンに挑戦した同じ時期、早大隊もローツェ・シャール(八三八三メートル)に挑戦していた。  ローツェ・シャールは、エベレストの南東四キロ、世界の屋根の一角に君臨する未踏峰で、ローツェ(八五一一メートル)の衛星峰ともいえるピークである。一九六五年二月、吉川尚郎を隊長とする早大の十一名のメンバー、浜野吉生らがこの未踏峰にアタックした。  松浦輝夫は吉川と早大の同級生で、当時三十歳。副隊長格。なにごとにつけ「よっしゃ、やったろ!」といって面倒見のいい男で、歯切れのいい吉川の東京弁と、やわらか味のある松浦の大阪弁は、絶妙のコンビといえた。  早大隊は三月十四日、五三五〇メートル地点にベースキャンプ(BC)を設営。隊は高山病とインフルエンザに苦しむが、五八五〇メートルにC1、六三五〇メートルにC2、そして四月八日、西南稜の核心部ともいえる六六〇〇メートル付近にC3を作る。  そして、ついに七〇五〇メートルに最前進キャンプ(C4)を設営することに成功。頂上アタックが目前に迫った。BCの特別放送局から各キャンプに、いろいろな情報がもたらされる。明大隊がクレバス地帯を歩行中、ブロックが崩壊して隊員一名とシェルパ四名が横倒しになり、隊員が肋骨二本を折り、後頭部を強打して負傷したというニュースも飛びこんできた。早大隊もいっそう注意しようと警戒しあった。その矢先に悲劇は起きた。 「成川が、墜ちた!」  四月十八日、吉川がアイゼンをつけたままC4テントに飛びこんできた。C4には村井葵がいた。吉川は睫《まつげ》にへばりついていた氷をはらおうともせず、一気に遭難の様子を告げた。 「成川は生きている。しかしかなりの深傷《ふかで》だ。右目がつぶれている。腰と右足の骨が折れているかもしれない。雪崩《なだれ》に足をとられて墜ちたのだ。すぐ現場までおりてみた。意識はなく、手袋をはめてもすぐもぎとってしまう。凍傷が心配だ。現場まで一五〇メートルはあるだろう。ザイルにぶらさがって止まっている。岩にハーケンを打ってどうにか身体は動かないように固定してきた。一刻も猶予《ゆうよ》はできない(文献4)」  すぐ救助隊が組織され、村井たちは苦労して現場へ急行した。雪崩が絶え間なく落ちてくる岩溝。そこにたどり着くだけでも大変な緊張と技術を要する。  成川隆顕は顔を雪に押しつけ、素手のまま手首まで雪の中に突っこんでいた。死んだように身動きしない。血と雪の混じりあった、なんともいえない匂《にお》いが漂っている。  成川は新聞記者だったが、「ヒマラヤに行けるチャンスなんてそう滅多《めつた》にあるもんじゃない」と、さっさと辞表を提出し、隊に参加した岩登りのベテランだった。救助隊は、シェラフに入れてザイルでグルグル巻きにした成川を吊り上げようとする。わずか二メートル、三メートルを吊り上げるのに、絶望的な時間が過ぎていく。成川はかすかな息の下から、 「殺してくれ!」  と苦しそうに叫んでいた。あまりの耐えがたい苦痛に無意識にあげた絶叫だった。  不幸がさらに隊を見舞った。救助作業に極度の神経を使い、体力の限界を越えたのか、今度は村井が突如、原因不明の昏睡状態に陥り、そのまま五日間全く意識不明になってしまったのだ。夢幻状態の中で脈絡《みやくらく》のないことを口走る村井。 「ヒマラヤでは力を出し切るっていうことは本当に危険なことだ。小さな身体で、ひとなみ以上に頑張って、体力の限界を越えてしまった」  宮本ドクターがぽつりと漏らした。  成川は奇蹟的に「冷凍人間」から命だけは甦《よみがえ》った。死の淵から生還はしてきたが、しかし、両手と両足指は凍傷で干《ほ》しバナナのように黒く変色していた。加えて村井の異常。早大隊は絶体絶命のピンチに追いやられた。凍傷の成川はなんとかC3まで下ろした。村井は酸素が平地の五分の二しかない六三五〇メートルのC2で、意識不明のままヒマラヤの病魔と闘っている。松浦は登頂どころではないと思った。まず病人を完全なBCに下ろすのが先決だ。  吉川も隊長として苦悩していた。このまま撤退すべきか、登山活動を再開すべきか。C3では吉川と松浦を中心に、宮本ドクターと意識を回復した成川を加えて、苦悩に満ちた最終協議が行なわれた。状況はあまりに絶望的すぎた。 「ヨッちゃん、とにかく成川をBCまで下ろそう。成川の指一本でも、たとえ一ミリでも長く残してやるのがおれたちの責任だ。もし凍傷がこれ以上悪化するようなら、下山も考えるべきだ」  松浦は病人優先主義を強く主張した。 「ということは、あれほど苦労して頑張ってきたローツェ・シャールの登頂を今日かぎりで放棄するということか。それでもいいんだな」  吉川は、非情なことをいわなければならない自分の立場がつらかった。 「成川の凍傷がもしこれ以上悪化しないという見通しがつけば、すぐに登頂を再開すべきじゃないだろうか。おれたちはローツェ・シャールを登るためにきたんだ。あと食糧は二週間しかない。成川はもう少しマシな手当ができるC2まで下ろす。松浦、お前は登ってくれ!」  吉川の血の吐くような言葉だった。  黙って聞いていた成川が、たまらず口をはさんだ。 「僕のために申しわけない。僕の手足の指は死ぬべきところは死んで、もうこれ以上悪くなりません。今ならまだ頂上を狙えます。……どうか、松浦さん、頂上をアタックしてください」 「バカ、お前を犠牲にして、おれが登ることができると思うのか」  松浦の声が震えていた。 「いや、僕は犠牲になんかなっていません。凍傷はこれ以上悪くはなりませんから」  成川も必死だった。これ以上、絶対に隊に迷惑はかけられない。吉川がうめいた。 「松浦、今から登ることを考えようじゃないか、頂上に立ってくれッ」  松浦は、成川の顔を見た。包帯に包まれた痛々しい手足を見た。この手足指が切断されるのだ。 「成川、ほんとにいいのか。お前、後悔することになるんだぞ。指はお前のものだ。切断したら、お前が一生ひとりで苦しむことになるんだぞ。わかっているのか」  松浦の断腸の声に、成川が黙ってうなずいた。男たちはみな泣いていた。早稲田の名誉にかけて登頂を誓った山男たちの苛酷な運命だった。 「大学の山岳部の基本はチームワークです。私は病人を下ろすのがまず先決と思ったのですが、吉川や成川の気持ちも痛いほどわかった。これ以上|拒《こば》めばかえってお互いが傷つくことになる。結局私が折れる形で、五月一日に登山を再開したわけです」  五月五日、松浦、井口昌彦とシェルパの三名がC4に入った。四月二十二日にテントを放棄して以来、二週間ぶりの再建だった。そこで明大隊がゴジュンバ・カンの登頂に成功したことを知った。強い衝撃を受けた。再び早大隊の苦闘が始まる。十五日、いよいよ頂上アタックの日。八一〇〇メートル地点で突然、先頭を歩いていたシェルパのピンジュが立ち止まった。井口と松浦がなにごとかと思って近づく。斜面がそこでパックリと切れていた。目の前で大きなギャップが彼らを拒絶していた。急な岩壁が一〇〇メートルも落ちこみ、向かい側には氷の張った急峻な岩壁が二〇〇メートルもそそり立っている。これを渡ることのできる登攀用具は持ち合わせていなかった。成功の予感は一挙に暗転した。万事休す。松浦は心を鬼にして隊の安全のために撤退を決断した。頂上まであとわずか三〇〇メートル。無念の敗退だった。下山する頃、白い喪章《もしよう》のように、深い霧と雪が松浦たちをつつみこんでいた。  松浦の心にちらりとよぎるものがある。 「�勇気ある撤退�と褒《ほ》められましたが、下山したあと、�あのとき本当に最善の努力をしたのか�と、ふと迷いが出てきたんですね。確かに岩壁の下に下りるのにはロープが不足し、ハーケン類もたりなかった。けど一方では、�あの苦しさに負けてしまったのではないか�という悔しさがわいてきた。それだけどうしても無念だった。その思いがエベレスト、のちのK2へとずっと続いてきたんです」  松浦輝夫は、ローツェ・シャール敗退の無念さを秘めて、このエベレストに参加していたのである。そして同じ隊に、ゴジュンバ・カンに初登頂した明大隊の植村がいる。一九六五年には明暗を分けた植村と松浦のドラマがこれから展開していくのだ。  松浦輝夫は現在、大阪で「キシモクプレカット工業」の代表取締役をしているが、当時のことを克明に記憶している。 「私はあのとき正直いって、植村くんを非常に意識していました。ゴジュンバ・カンの登頂者だし、新聞で、越冬中の植村が標高四〇〇〇メートルのクムジュンで毎日激しいトレーニングをしている、という記事を読んで、�これは凄《すご》いやつがいるんだな�と思った。で、隊のメンバーとして正式にカトマンズで会ったところ、想像していたのとは全く違って、小柄だし、すごく謙虚だし、この男が……と意外に思ったのを今も鮮やかに覚えています」  日本は当初、一九六六年に登山隊を送る計画だったが、運悪く中印国境紛争が勃発《ぼつぱつ》し、ネパールが登山を禁止したため延期する破目になった。そしてこの年、ようやくネパールが再び解禁し、日本は解禁第一号の登山隊として認められた。四年の間に日本の社会は激しく変動している。  一九六六年はビートルズが来日した年であり、エレキブームが最高潮で、テレビでは『巨人の星』が大ヒットした。一方で、全日空ボーイング727が羽田沖に墜落して百三十三名が全員死亡したのを皮切りにカナダ航空DC8が羽田で衝突炎上(死者六十四名)、全日空YS11が松山空港沖で墜落(五十名全員死亡)、BOACボーイング707が富士山で乱気流のため空中分解し、死者百二十四名と、相次いで空の大事故が続発し、騒然となった年でもある。  そして六八年になると、東大医学部紛争が始まり、日大紛争や各大学の学園紛争が燎原《りようげん》の火のように燃え上がり、全共闘スタイルが流行した。その一方で、日本は六九年にGNP世界第二位を達成、高度成長時代に入っていた。私は六〇年安保世代だが、七〇年安保はすんなり自動延長し、「シラケル」という言葉が流行語になった。赤軍派が「よど号」をハイジャックしたり、三島由紀夫と楯の会会員が市ケ谷の自衛隊に乱入してクーデター未遂を起こしたり、ベ平連が結成されたりしたが、政治的・社会的事象に無関心な層も広がり、時代は大きく二極分化していた。 「日本山岳会エベレスト登山隊」は、まさしくそういう時代背景の中で送り出された。  エベレストそのものは、戦前のマロリーの時代から国家的威信をかけて執念を燃やしてきたイギリス隊が、一九五三年(昭和二十八年)五月二十九日、現エリザベス女王の戴冠式の直前に劇的な登頂に成功している。ジョン・ハント隊長のもとに、�第三の極点�エベレストの人類最初のサミッターになったのはニュージーランド人のヒラリーとシェルパのテンジンだった。  エベレストの栄光と死者の歴史については、拙著『エベレストに死す』(講談社刊)に詳しく書いたのでここでは繰り返さないが、イギリス隊のあと、スイス、中国、アメリカ、インドの各隊が次々と登頂に成功し、未踏のルートは南壁(南西壁)だけである。各国に後れをとった日本隊はこの未踏の南壁に挑むことで、�世界初�の名誉を狙おうとした。  大塚登攀隊長の計画はこうである。 〈計画の骨子は、七〇年の春に南壁を登攀し頂上に立つ。これをサポートするため東南からサポート隊が頂上に向かい、そこでランデブーする、というものであり、簡潔であるが、大胆で力強く、七〇年代の日本のバイタリティーを象徴するにふさわしいものであった(文献5)〉  それだけに隊員たちは、海外登山経験を持つ登山家たちを含め、百二十名の公募者の中から選ばれた一騎当千《いつきとうせん》の一流クライマーばかりだった。その中に小西政継がいた。当時三十一歳。小西は、峻険な岩登りで鳴る山学同志会の代表で、一九六七年、日本人として初めて冬のマッターホーン北壁を完登(冬期第三登)して名を馳《は》せた屈指のクライマーだ。第二次偵察隊にも選ばれていた。  第一次、第二次と通じてただ一人選ばれた植村は、明大先輩の大塚らのひきもあったが、この植村と小西をさらに強力に推挙したのが佐藤久一朗である。  佐藤久一朗は一九〇一年(明治三十四年)三月十一日生まれで、慶大山岳部OB。大正時代に北ア穂高岳|屏風《びようぶ》岩、前穂北尾根などの初登攀に成功した岩登りの先駆者で、キャラバン・シューズの生みの親としても有名だ。さらに�日本アルプスの父�といわれる英人宣教師、ウォルター・ウエストン(一八六一〜一九四〇年)を尊敬し、上高地の清冽《せいれつ》な梓川《あずさがわ》のほとりの自然石に、自ら彫刻したウエストンのレリーフを飾って、その業績を称えた。六月の第一日曜日に毎年開かれるウエストン祭は年々盛大になる一方だ。佐藤は日本山岳界の陰の功労者である。やがて植村は佐藤を慈父のように慕うようになる。  品のいい老夫人の孝子が話す。 「佐藤は皆さんから�久《きゆう》ちゃん�と呼ばれて親しまれておりましたが、手先が大変に器用な人で、リュックサックでも靴でもなんでも自分で作ってしまいます。キャラバン・シューズも実は、一九五六年のマナスル初登頂のとき槇(有恒)先生に頼まれまして精魂をこめて作り上げたものでございます。主人は若い登山家の方たちを大変可愛がっておりまして、とくに植村さんと小西さんは大のお気に入りでした。やはり並々ならぬ力を見抜いていたのでしょうか」  植村は�四人の父�を持つことになる。  一人はいうまでもなく、兵庫県|日高《ひだか》町に住む実父の植村藤治郎、もう一人は冒険、探検上の師ともいうべき西堀栄三郎(第一次南極隊越冬隊長)、さらにグリーンランド最北端の村、シオラパルクに住むエスキモーの養父イヌートソアそして植村のことを物心両面にわたって支援してきたこの佐藤久一朗である。佐藤夫妻と植村、小西の関係はのちに素晴らしいエピソードを生み出す。   3 友の屍を乗り越えて  三月二十四日、「日本エベレスト登山隊ベースキャンプ」と真新しい看板が掲げられたキャンプ村で、開村式が行なわれた。シェルパたちがラマ経の祈祷《きとう》をし、隊の無事と成功を祈願する。隊員たちの顔には、さあ、いよいよこれからだ、という緊張が漂っていた。  開村の儀式のあと、大塚登攀隊長が早速こう指示した。 「これからアイスフォールのルート工作に行ってもらう。メンバーは藤田、松浦、錦織、小西、植村の各隊員にお願いする」  最初のルート工作要員に選ばれることは、隊員にとって名誉なことである。どのルートをとって進めば頂上にたどり着けるか、それを発見し開拓する仕事だから、責任は重大だ。選ばれるということは、ある程度力量を認められていることを意味する。キャンプ作りなどで体は疲労しているが、植村はうれしかった。  しかし巨大なクレバスの迷路、崩れかかった不気味な氷塔、ちょっとした足音に今にも落下してきそうな丸ビルほどもある氷塊、そこをくぐり抜け、ルート工作をするのは命が縮む思いだった。一九五三年のイギリス隊は、このアイスフォールの難所に「原爆地帯」とか「地獄火横丁」などと名前をつけ、恐怖にかられながらなんとかくぐり抜けた。  日本隊も通過不能と思える氷塊の世界をなんとしてでも突破しなければならない。アイスフォールは、まるで大小さまざまな氷塔や氷塊が縦横に入り組んだジグソーパズルのようで、苦心して危険な難所を突破したかと思うと、それも束の間の喜びで、すぐに落胆《らくたん》に変わった。その前方には突破不能な巨大な氷壁が、日本隊を嘲笑《ちようしよう》するようにそそり立っていた。  それでも果敢なトライが続く。BCに入ってから高度順化がうまくできず、体調を崩す隊員たちが出てきた。タンボチェでは騎馬戦《きばせん》をやったりして、それまで「隊随一の強者《つわもの》」と見られてきた成田潔思が、BC入りと同時に高度障害で寝こみ、土肥、神崎、平野隊員らも頭痛を訴えた。  土肥正毅は明大山岳部で植村の三年先輩。京華商業高校で地理の教師をしているため、メールランナーが運んでくる手紙類の中でも、女子高校生たちから土肥にくる手紙が群を抜いて多く、他の隊員たちを羨しがらせた。土肥は植村にとってよき兄貴分のような存在だったが、この土肥が高山病の恐《こわ》さを話す。 「高度五〇〇〇メートルでは平地の酸素の三分の二になり、七五〇〇メートル以上では三分の一の希薄さになる。それに順応できないと頭痛、吐き気、食欲不振、下痢などのさまざまな症状を呈し、最悪の場合は酸素不足が目や脳に障害を与え、頭が完全にイカれることもある。極端な例ではそのまま死亡するケースさえあります」  ヒマラヤの登山がヨーロッパ・アルプスと決定的に異なるところはこの高度順化の問題だ。とくにジャイアンツ峰と呼ばれる八〇〇〇メートル以上の高峰登頂の第一の鍵は、まず高度順化が順調かどうかにかかっている。  植村も後頭部が重く、倦怠感《けんたいかん》にさいなまされたが、こんなことで医療室の世話になるようでは、一騎当千のクライマーたちが虎視眈々《こしたんたん》と頂上を狙っている隊で、自ら落伍者《らくごしや》になるようなものだ。少し我慢すればすぐに体が順化する自信があった。  三月二十八日、植村は三度目のルート工作員に選ばれ、越冬仲間だった井上治郎(京大・24歳)とザイルを結んだ。氷壁の最後の登攀口を発見するのが任務だった。二〇〜三〇メートルの氷壁が次々と二人をさえぎる。ルートの発見は至難をきわめた。「尺取り虫」のように遅々として登るしかない。しかし、先陣をきっていた植村は、ついに最後の氷壁を登り切ることに成功した。予定よりも二日早い。そこがウエスタン・クーム氷河だった。植村はトランシーバーで報告する。 「ただ今、アイスフォールを突破しました」 「よくやった、ご苦労さん」  BCからねぎらいの言葉が返ってきた。植村はまず一つの実績を作った。  C1までルートがつくと、あとは早い。ルートが完全なものに補強され、隊員とシェルパたちが機動力を駆使して荷上げをする。といっても、尨大《ぼうだい》な荷物の量だ。四月一日からシェルパ五十名が全員総出で荷上げにとりかかった。一週間で完了させなければならない。それには理由があった。  この年、一九七〇年は、大阪万博の年で、三浦雄一郎の「日本スキー探険隊」が「エベレストの頂上から大滑降する」という計画を発表、すでにネパール側の内諾も得ていた。一九六六年の登山が延期されているうちに、高度成長を遂げてきた日本は、同時期に二つの隊がエベレストに入ることになったのである。  それはGNP大国にのし上がってきた日本の、金に糸目をつけぬ驕《おご》りともいえよう。しかし現実問題として、日本の二つの隊が同時期にエベレストの頂上を目指して先陣争いをすることは、危険が倍加する。そこで日本山岳会とスキー隊の間で調整がはかられ、結局、�国家的大事業�を標榜《ひようぼう》する日本山岳会が勝利をおさめ、次のような妥協点が結ばれた。 「スキー隊は頂上アタックを目標としない」 「日本山岳会が工作したルートはスキー隊もこれを自由に使うことを認める」  このスキー隊の先遣隊《せんけんたい》がBCに到着した。そしてモレーンを一つ越えた五〇メートルの地点にBCを建設し始めたのである。  植村たちが荷上げしている最中に、もうスキー隊もアイスフォールのルートを通って、C1へ上がってきた。氷河上が混雑する。注意力が散漫になる。悲劇は当然起こるべくして発生した。しかも未曾有《みぞう》の大惨事が——。  四月五日、植村は、松浦、土肥、神山義明(27歳)と一緒に、難所のアイスフォールにかけた梯子《はしご》を上り下りして、荷上げを急ぐシェルパたちの安全確保に当たっていた。スキー隊のシェルパたちも列をなしてアイスフォールを通過していく。ドドドドーンと地底を揺《ゆる》がすような音がした。また雪崩だ、と植村は最初気にもとめなかった。  松浦はすぐ近くでBCと交信中だった。松浦の声が一瞬、異様な大きさで植村たちに叫んだ。 「大変だ! たった今、スキー隊のシェルパ六名が死んだそうだ。中継点の下の廊下で氷が崩壊した!」 「えーッ、廊下で氷が陥没した?」  植村たちはあわてて下をのぞいた。廊下というのは、西稜寄りにある地点で、二つの大きなクレバスにはさまれ、さながら細い廊下のように氷の回廊が続いているところだ。 「あそこだ! 人がいっぱい集まっている」  土肥が指さす下方をのぞくと、白い氷壁の上に黒い影が無数にうごめいていた。その近くなら仲間もいるはずだ。植村がおうむ返しに聞いた。 「わが隊はどうですか、異常ありませんか」  トランシーバーにしがみついていた松浦が顔を上げた。 「今のところ大丈夫らしい。三〇〇メートル手前に藤田さんら三人がいたが、どうやら無事だったようだ。とにかく我々も下に下りよう」  植村たちは遭難現場に急行した。シェルパ六名の遺体は引き揚げ中だった。植村は犠牲者の名前を聞いてびっくりした。隊のヘッド・サーダー、チョタレイの実兄でもある、あのミンマ・ノルブが含まれていたからだ。 「おれがもし死んだら、うちの女房はどうなっちゃうだろうなあ」  妻の和子との間に二人の男の子がいる愛妻家の松浦が、ふと夫の心情をにじませる。 「大丈夫ですよ、きっと奥さんが祈ってますから。僕んとこも女房と娘が毎日無事を祈っているそうです」  家庭のある土肥も、妻の晶子と娘の話をした。  植村は二人の話を聞きながら、おれには心配してくれる女房どころか、恋人さえいない、とわが身が寂《さび》しく、ああ、おれは結婚できるんだろうか、と思った。  遭難はスキー隊にとどまらなかった。五日後の九日、今度は登山隊のシェルパが悲劇に見舞われた。四十五名によるアイスフォール荷上げ最終便で、キック・ツエリンという男が、落下してきた氷塊に頭を直撃されて即死したのだ。  BCでスキー隊と日本山岳会隊との合同慰霊祭が執り行なわれたばかりなのに、その直後に起きたシェルパの遭難死。好きで山に登る植村たちと違って、彼らは生活のために重い荷物を運んで、山で死んでいく。アイスフォールを荷上げしているときは、どうしても危険な足元に全神経を集中させているから、頭上に落下してくる氷塊には気がつかないことが多いのだ。  四月十一日、総隊長の松方三郎が中島道郎ドクターとBCに到着して、これで全員がBCに集結したことになる。シェルパたちの屍《しかばね》を乗り越えて前進しなければならない。  十四日に登山を再開した隊は、前進キャンプ(ABC)を二つに分け、東南稜隊ABCは六四五〇メートル、南壁隊ABCは六六〇〇メートルに設営した。そして十七日の夜、植村が井上と二人でローツェ・フェースの基部六九三〇メートルにC3を建設し始めた十七日の夜、テントの中でラーメンを食べ終わったとき、定時の八時の交信で、大塚登攀隊長からメンバーの発表があった。 「南壁隊は小西政継をリーダーとして、隊員は藤田佳宏、田村宏明、加納厳、錦織英夫、嵯峨野宏……」  と名前が呼ばれていく。科学班として大森董雄。小西は実力を発揮し、大学出を押さえて南壁のリーダーになった。伊藤礼造、吉川昭の社会人クライマーも南壁だ。南壁隊の小西、吉川、中島寛の三名は、この日すでに蒼氷の急斜面を軍艦岩(七〇〇〇メートル)に到達していた。  植村は聞き耳をたてた。 「東南稜は松浦輝夫をリーダーとして、平林克敏、平野真市、土肥正毅、渡部節子、神崎忠男、植村直己、成田潔思、神山義明、鹿野勝彦、安藤千年……」  それに科学班として、中島道郎、広谷光一郎、河野長、長田正行、井上治郎の名前が告げられた。植村は、東南稜に選ばれてよかった、とホッとした。昨年秋の偵察では、雪があったから八〇〇〇メートルまで登れたが、今回の南壁は雪が消し飛び、巨大な岩壁そのものだ。正直いって自信がなかった。  結局、メンバーは本部が大塚博美登攀隊長、住吉仙也ドクター、松田雄一の三名、南壁十名、東南稜十六名の割りふりとなった。大塚登攀隊長は最後にこう強調した。 「頂上アタックは、南壁を優先するということではなく、平行して東南稜からも登頂する。両隊とも頑張ってほしい」  未踏の南壁は最大の難敵だが、すでに各国が登頂し、一般ルートと化している東南稜からもアタックするということは、それだけ登頂の確率が高い。これは一種の�保険�をかけたもの、と隊員たちには理解された。  東南稜隊には、ロブジェで休養し、復調してきた成田の名前もあった。成田潔思は慶大からただ一人参加しているクライマーだ。クラーク・ゲーブルばりの髭《ひげ》をたくわえ、豪快に笑う快男児で、キャラバンでは食欲旺盛でいちばん元気がよかった。植村は内心秘かに、最大のライバルは成田だ、と認めている。  四月二十一日夜、この成田に異変が起きた。高度順化がうまくいかず、体調を崩して、ロブジェで休養を余儀なくされた成田は、植村たちが元気で荷上げをしている姿に焦っていたのだろうか。  植村は休養のため二日間C1にいた。前日南壁から休養で下りてきた小西、吉川と同じテントで過ごしていると、そこへ成田が顔を出した。 「みんなに迷惑をかけたけど、やっと高度順化のため上へ上がってもいいという許可が出た。今日はとりあえずABCまで往復してみる。連れていってくれ」  植村は、まだ無理しないほうがいいんじゃないですか、といおうとしたがやめた。どの隊員だって頂上を目指して隊に参加しているのだ。そんなことをいえば、自分が登りたいばかりに仲間を蹴落《けお》とす行為に出ているととられかねない。それに自分の体のことは自分がいちばん知っているはずだ。本人が大丈夫というのだから、自分はなにもいうべきではないと思い返した。 「じゃ、ゆっくり行きますか。成田さん、けっして無理をしないでください」 「うん、大丈夫だ。君たちに心配はかけないから」  成田が笑った。いつも身綺麗《みぎれい》だった成田の顔は、鼻ヒゲも顎ヒゲも伸びっぱなしで、「どこかのおっさん」のようだった。  成田はシェルパのダワ・ノルブとザイルを結び、先を歩く。植村と井上が後に続く。 「荷物をなにも持たないで行くと、みんなに悪いからな」  成田は、背負子《しよいこ》に酸素マスク一つを入れ、手にはテルモスを一本持った。急な登りになると、ピッケルに寄りかかって立ち止まる。それでも元気そうに見えた。  C1を午前十一時に出発し、ABCには午後の二時に着いた。ABCはがらんとしていた。というのも、昨日、平林と神崎がローツェ・フェースのルート工作中に突如滑落、怪我《けが》をするという事故があって、隊員たちが救助に向かっていたからだ。  平林克敏は同志社大の出身で、一九六〇年に西ネパールのアピ、一九六三年にサイパルという二つの七〇〇〇メートル峰に登頂した経歴を持つ。ローツェ・フェースのルート工作をしていた平林と神崎は、七三五〇メートル地点で仕事を終わり、回れ右をした瞬間、平林が突然スリップし、ザイルでつながれていた神崎を巻きこんで滑落した。神崎が必死になってピッケルで止めたため、命が助かったが、そのまま滑落していたら、その先の垂直の氷壁から転落して惨死を遂げていただろう。まさに危機一髪だった。  成田はABCに一時間ほどいて、付き添い役のダワ・ノルブとまた下山していった。 「やっぱり上はいいな。明日は必ずABC入りしますが、今日はこれでC1に戻ります」  これが植村が成田を見た最後だった。  夜九時過ぎ、本部テントにいた松浦がABCに上がってきて、驚愕《きようがく》的な事実を告げた。 「みんなにいうことがある。成田がC1で心臓麻痺で死んだ。今C1の住吉ドクターから連絡があった」 「えッ、まさか、そんなあ……」  植村たちは最初信じられなかった。 「ついさっき、あんなに元気で下りていったのに! いつですか」 「二時間前ということだ」  松浦の顔もショックで暗然としていた。  ABCから下山した成田は、午後五時過ぎにC1に戻ってきた。この日、C1には住吉、錦織、長田、小西、吉川、伊藤ら大ぜいの隊員がいた。成田は住吉たちと同じテントだ。食事が始まった。成田はテントに背をもたせかけ、「手がしびれる」といって、生アクビをしたように見えた。次の瞬間、成田が「うーん」といって突然倒れた。  驚いた住吉ドクターが「成田、成田」と呼んだ。返事がない。あわてて脈をはかると心臓が鼓動していない。住吉はすぐに強心剤を打ち、酸素を吸わせようとした。成田はなんの反応も示さない。 「成田が倒れた!」  住吉の声に、C1にいた隊員全員が駆けこんできた。小西、伊藤らが、狭いテントの中央に横たわっている成田を取り囲む。 「人工呼吸だ!」  住吉が成田の体に馬乗りになり、胸をひらいて人工呼吸を始めた。カタズをのんで見守る隊員たち。自然に声が出ていた。「イーチ、ニイー、サーン」、住吉の手の動きに合わせて掛け声をかける。人工呼吸は二分もやると息が切れてくる。次の隊員が交替した。奇跡を祈る声が「イーチ、ニイー、サーン」と声を合わせる。隊員たちが順番に次々と交替し、必死で人工呼吸をほどこす。 「成田、どうした、ガンバレ」 「成田さん、ガンバッテください」  隊員たちはポロポロあふれる涙をぬぐおうともせず声をからして叫んでいた。伊藤も汗みどろになって成田の胸を押し続けた。隊員たちの人工呼吸で成田の胸がまるで生きているように温かい。 「くすぐってェ、やめろよ」  といって、今にも成田が起き上がってきそうな表情をしている。誰もが信じられず、ただひたすら人工呼吸を続ける。 「成田、ガンバレ! 早く起きろ」 「バカヤロウ、いつまで寝たふりしてんだ、成田、起きろ! 早く目をさましてくれェ」  隊員たちは泣きながら叫んだ。  だが、住吉ドクターはじめ隊員たちの懸命な努力も空《むな》しかった。成田が突然倒れたのが七時二十五分。八時五十分まで続けた人工呼吸にもかかわらず、ついに奇跡は起こらなかった。成田は死んだ。同行の相沢裕文記者はこう哀悼した。 〈仲間たちとの遅れを取戻そうと自分にムチ打って闘ってきた成田は�薄い空気�にやられたのだった。急性心臓マヒではあるが、運動量増加による酸素不足のショック死ともいうべきものだった〉  隊員たちは慟哭《どうこく》をかみしめながら、お湯をわかし、成田の体をきれいに拭いてやった。安置された成田の遺体は、彼が「早くこれを吸って登りてェ」といっていた酸素ボンベを枕にしても動かなかった。彼が愛用したピッケルやアイゼンが遺体の脇に悲しく添えられた。 「成田のために歌を歌ってやろうじゃないか」  誰いうともなく、全員が立ち上がり、遺体を中央に囲んで脱帽した。  ※[#歌記号]若き血に燃ゆる者   光輝充つる我ら   希望の明星仰ぎてここに  慶応ボーイの成田のために、みんな泣きながら�若き血�の応援歌が始まったが、涙があふれて先が続かない。 「成田ァ、聞いてるかァ」  こらえきれずに、遺体にすがりついて号泣する隊員もいた。「ケイオー、ケイオー、陸の王者、ケイオー」、山男たちの頬を滂沱《ぼうだ》として大粒の涙が伝わっていた。外はいつか雪がやみ、雲間から顔をのぞかせた満月が、荒涼とした氷壁を凄絶に月光で染めていた。  翌日、植村や松浦たちもC1に下山し、成田の遺体に最後の別れを告げた。人の死はなんとあっけなく不意に訪れてくるのだろう。植村はヒマラヤの厳しさを、改めて思い知らされた。十年後に植村はこの悲劇に再び直面するのだ。  悲痛な別れの時が過ぎた。涙をこらえて大塚登攀隊長が成田の遺体に誓った。 「いいか、成田の尊い犠牲に対して、我々が報《むく》いることはただ一つ、是が非でも万難を排して、頂上をきわめることだ。みんな、頑張ってくれ」  植村たち隊員は、大塚の言葉を肺腑《はいふ》をえぐられるような思いで聞き、必ず頂上を陥《おと》すぞ、成田の霊よ安かれ、と祈っていた。   4 栄光のサミッター 「ただ今から頂上アタックについての説明を行ないます」  五月三日、BCで夕食が終わったあと、大塚登攀隊長がこう切り出した。それまでざわついていた隊員たちが一瞬シーンとして、息をのんだ。植村の心臓が早鐘のように鳴り始めた。全身に血がかけめぐり、体がカーッと熱くなった。いいようのない不安と期待が交叉し、自分の激しい心臓の鼓動を隣りの隊員に聞かれたのではないかと怖れた。それはどの隊員も同じだった。みんな頂上を登りたいためにこれまで苦闘してきたのだ。 「頂上には松浦隊員と植村隊員に行ってもらいます」  植村は耳を疑った。体がガクンと揺れた。急に目がうるむのを必死でこらえた。 「サポート隊は平林隊員とシェルパのチョタレイに……」  隊員たちの明暗がここではっきり分かれた。植村は、力のある隊員たちがいっぱいいる中で、自分が選ばれたことがなかなか信じられなかった。松浦は、頂上に行けるのだ、夢にまで見てきた世界最高峰のエベレストの頂上に、と思った瞬間、体中が熱くなった。他の隊員たちが心中の悔しさはともかく、山男らしくさっぱりと「植村、おれたちの分も頑張ってくれよ」と肩を叩いた。植村は初めて、みんなのためにも登頂にはベストを尽くそう、と嬉《うれ》しさをかみしめることができた。 「目標は五月十日以後にまず第一回登頂を敢行する。東南稜隊のメンバーはそのつもりで全力を尽くすよう、以上」  大塚はそういってしめくくった。  隊の主目標だった南壁は、井上や錦織たちが次々と体調を崩し、成田の遺体をBCまで下ろす作業なども加わって、ルート工作が急激に遅れだしていた。東南稜隊がすでに四月二十八日、松浦、植村がシェルパ二名とサウス・コル(七九八五メートル)に達しているのに対し、南壁隊はC4(七五〇〇メートル)の建設もできていない。未踏の岩壁というルートの困難さもあったが、荷上げをサポートする人手が絶対的に不足し、キャンプを上に建設することができなかったからだ。  成田の急死のあと、全隊員の健康診断がいっせいに実施された。多くの隊員に異常が発見され、とくに南壁隊の隊員に赤信号が多かった。したがって、住吉ドクターなどは、健康上の理由から「南壁ルートは中止してはどうか」という意見さえ主張した。  植村は健康診断の結果、「異常なし」だったが、小西ら南壁隊員の心中を察すると、登頂メンバーに選ばれたからといって、無条件に喜んでばかりもいられない。それは松浦も同じだ。かえって東南稜隊へ隊の期待が移ってきたことに責任の重さをかみしめた。  心配なのは天候だ。エベレストを初めて征服したイギリス隊のジョン・ハント隊長は、「エベレストには、高度、地形、そして天候の三つの大きな問題がある」といった。アタックは天候に恵まれなければ、成功はおぼつかない。気象を担当している長田の観測はこうだった。 「現在ジェット・ストリームは、北緯二七度まで下がっているので、七五〇〇メートル付近の高度では強風が吹いている。しかし徐々に北へ移動しているので、五月十日、十一日は好天に恵まれるはずだ。即ち、この両日をおいて決行の日はない」  松浦も植村も、この予報が的中してくれることを祈った。  松浦は大塚登攀隊長のテントに行き、アタッカーに選ばれた者としての決意を披瀝《ひれき》した。 「植村くんと二人だったら絶対登れます。安心してまかせてください」 「うん、頼む。隊の名誉と期待は君たちの双肩にかかっている。ベストを尽くしてくれ」  大塚が東南稜に賭けていることがよくわかった。  その夜、BCで松浦は植村と同じテントだった。松浦には、ローツェ・シャールで頂上寸前で無念の敗退をした悔しさがある。 「植村、君はゴジュンバ・カン登頂の喜びを知っているが、おれは悔しさしかない。だから絶対にエベレストに登りたいんだ。とにかく這《は》ってでも頂上に行こう」 「松浦さん、大丈夫です。絶対登れます」  一九六五年にゴジュンバ・カンとローツェ・シャールで明暗を織りなした早明の両エースは、今度はエベレストのアタッカーとしてザイルを結ぶことになった。あと心配なのはどうしても天候だ。松浦はその夜、窮屈なシェラフの中で、手を合わせて神に祈った。 「どうか十一日、十二日の両日だけでも好天に恵まれますように!」  出発の朝がきた。二人はC1に一泊し、六日ABCに向かう。その間にも上部では、体調を回復した土肥が神山とともにシェルパ十六名を使い、ABCからC3へ荷上げをして、二人を迎え入れる準備をしている。日本隊のような大部隊では「極地法」といって、一種の人海作戦をとる。次々に上部にキャンプを設営して荷上げをし、最終的に選ばれたアタッカーが無事頂上を征服すれば、それが即ち隊の成功という考え方である。大学山岳部の考え方がまさしくそうであり、チームワークが最優先した。植村は、先輩の土肥たちが黙々と荷上げ作業をし、サポートしてくれる姿に頭が下がるばかりだった。  一方、社会人クライマーの場合は、個人の力量によって掌中にする栄光もまた異なる。南壁隊の小西と伊藤は苦闘を続け、四日にABCからC3へ前進、六日には小西が単独で七五〇〇メートルの急斜面にC4を設営することにとうとう成功した。大学出はもはや相手にならない。孤独で凄絶な闘いだった。  もう一人、エベレストで凄絶な闘いを挑んだ男がいた。プロスキーヤーの三浦雄一郎。このとき三十七歳。一九六四年(昭和三十九年)、イタリアの世界スピードスキー大会に日本人として初めて参加。時速一七二・〇八四キロの新記録を樹立。六六年、富士山直滑降、六七年、アラスカのマッキンリー滑降。そしてこの六日、三浦はサウス・コルの下から大滑降に挑戦した。  植村や松浦たちも、その様子を各キャンプで見ていた。ローツェ・フェースの固い蒼氷の上を完全に滑り降りるのは不可能に近い。「いよいよ滑るぞ」BCから双眼鏡で見ていた隊員がトランシーバーで連絡する。植村たちも一瞬緊張して目を吸い寄せられた。  三浦が斜滑降になってスタートした。二、三回ターンしたと思ったらパラシュートが開いた。「あ、こけた」誰かが叫んだ。三浦が転倒し、そのままズルズルと滑落していく。雪の台場で飛ばされ、さらに流されていく。クレバスの直前で奇跡的に止まった。三浦は、救助隊が駆け寄るまで、そのまま倒れていた。スキーで滑ったのはごくわずかの時間だった。あとで、「エベレスト大滑降に成功」と報じた新聞を見て、ある隊員は「あれで成功といえるのかなあ」と首をかしげた。  並行していたスキー隊の挑戦が終われば、いよいよ登山隊が頂点にアタックする番である。植村と松浦たちは九日、サウス・コルに六人用テントを二張り設営することになった。一つは植村たちのテント、もう一つはシェルパたちの泊まるテントだ。  サウス・コルはネパール側とチベット側にまたがっているため、�風のハイウェイ�といわれるほど強風が凄《すさ》まじい。それに寒気が人間を死に追いやる。かつてスイス隊は「サウス・コルは死のにおいがする」と怖れた。  一九五三年にイギリス隊が初登頂したのは五月二十九日だったが、サウス・コルでの一夜をヒラリーはこう記している。 〈恐ろしい風の唸《うな》りが聞える。サウス・コルの冷然たる荒野を、強力な無情の流れとなって吹き抜ける風の唸りだ。それに答えるように、われわれのテントは苦しさに耐えられず、狂ったようにはためき、縛りつけたものから身をもぎ離そうとする。……私は激しい恐怖と孤独感に襲われた。「一体こんなところにどんな意義があるというんだ。こんなことに我慢するなんて愚の骨頂だ! しかも何のためにだ!」寒さにふるえながら、こんな無益な考えを振り棄てようと努め、時間が少しでも早く経ってくれるように気を落付けた(文献6)〉  烈風が雪を吹き飛ばしてしまうため、サウス・コルは、まるで賽《さい》の河原のように石がゴロゴロしている。テントの下で石が背中にあたって寝苦しい。テントには松浦、植村、河野の三名が泊ったが、松浦たちはなかなか寝つかれない。植村だけが一人、早くもスースーと寝息をたてていた。その神経の図太さに松浦は舌を巻いた。 「アマゾンの川下りをしたり、アフリカのキリマンジャロを登ったり、世界を放浪して歩いただけあって、さすがどこでも寝られるんだなあ」  風が激しくテントを叩いていた。  翌朝、太陽の光が射した。長田の予報どおり快晴だ。風もやんだ。サポート役の河野が一時間前に起きて、氷を溶かし朝食の準備を整えてくれていた。リンゴジュース、紅茶、マシュマロ、チョコレート、果物の缶詰。植村たちは、朝八時十分にサウス・コルを出発、最終の第六キャンプ設営のために前進した。サウス・コルのガレ場を離れると、再び蒼氷の急峻となる。アイゼンの爪が全然突き刺さらないようなツルツルした蒼氷に全神経を集中して、植村たちは東南稜を登った。  全員毎分三リットルの酸素を吸っているせいか、体調は悪くない。思い切り高度をあげ、八五一三メートル地点に最終キャンプを設営することに成功した。インド隊と同じキャンプ地だ。そこに黄色いテントを一張り張った。ピラミッド型のマカルーの雄姿がテントの目の前に見えた。テントを張り終わると、サポートしてくれた河野とシェルパの四名が下山しなければならない。 「明日は必ず成功してください」  河野は握手して下りて行った。ここまできて下山するのはどんなに無念だろうか。植村は申しわけない気持ちで彼らを見送った。  松浦は先にテントに入ったが、植村は外でなにかゴソゴソしている。松浦が声をかけた。 「入ってこいよ」 「はい、すぐ入ります」  返事はするが、まだテントのまわりを動き回っている。やっと姿を見せた植村がいった。 「風でテントが飛ばされたら大変だから、ロープで岩にくくりつけておきました」  ここはクンブ氷河から時おりジェット機の轟音《ごうおん》のような凄まじい風を吹き上げてくる。植村は念には念を入れて、テントを補強していたのである。  それでいてテントに入ってくるなり、 「松浦さん、日本の春山を登っているようですね」  と植村がケロリとしていった。酸素が平地の三分の一以下しかない八五一三メートルの最終キャンプ、しかもジェット機が離着陸するときの轟音とともにテントを揺さぶる強風をまるで歯牙《しが》にもかけない植村の言葉に、松浦は高度障害でも出て頭がおかしくなったのかと思いギクリとした。その夜、さらに植村の底知れぬバイタリティに度肝《どぎも》を抜かれることになる。  午後二時の交信で、C5に平林隊員ら第二次アタック隊が入ったことを知らされた。もし第一次アタック隊のおれたちが万一失敗したら、彼らが先にエベレストの頂点を踏むことになるかもしれない。植村は、ゴジュンバ・カンのとき、急に自分に幸運が回ってきて初登頂の栄光をさらってしまったことを、今でも後ろめたく思うことがある。そんなことをふと思い出すと、酸素マスクを外して松浦が急に話しかけてきた。 「お前、ゴジュンバ・カンのアタックでは、テントに戻れずビバークしたんだっけ?」 「はい、あのときは七四〇〇メートルのところでシェルパと二人で抱き合って……。酸素なしだから寒くて寒くて……」 「おれもなあ、アタックのときはシェルパを連れて井口と三人で、朝の二時に出たのに、ギャップがあったり、酸素が空になったりしてとうとう駄目だった」  植村は、松浦さんも同じことを思い出していたんだな、こういうとき考えるのは同じだな、と思った。 「だから、明日は四時に起きて、どんなに遅くても六時には出発しよう」 「はい。必ず頂上に立ちましょう。そしてみんなに頂上の石を持って帰りましょう。最低五十個はいるかな。それから頂上に成田さんの写真を埋めてやりましょう。おれ、死んだ小林の写真を持ってきてるんです。一緒に埋めてやれば寂しくないでしょうから」  植村は、かつてライバル視したことのあった明大山岳部の同期、小林正尚の遺影を持ってきていた。小林はゴジュンバ・カンのあと、米子で交通事故にあって死亡してしまった。 「成田の遺髪はおれが持ってきた」  松浦も胸をつまらせた。 「さあ、明日は早いから寝よう」  静かな夜だった。酸素ボンベから、酸素の流れる音だけがする。あとは明日、頂上へのアタックあるのみだ。松浦はウトウトした。植村は眠れないのか、シェラフの中で体をしきりに動かしている。植村がテレたように声をかけてきた。 「あのう、テッシュないでしょうか」  その声に松浦はまた目がさめた。トイレでもいくのかな、と思った。 「あのう、松浦さん、とうとう我慢しきれなくなって出しちゃいました」  松浦はまだなんのことかよくわからない。酸素のことかな、と思い返して「そんなら無理しないで早く出して吸えよ」と答えた。 「違いますよ、あれですよ、あれ」 「あれってなんだい?」 「実はあのう、マスターベーションやってしまいました」  テレながら正直に告白した植村に、ゲエッと、それこそ松浦はびっくり仰天した。松浦が苦笑しながら明かす。 「いやあ、この高所でやるとはたいした奴だなあ、こいつとならどんなことがあっても絶対大丈夫だな、と妙に感心をし、安心もしたことを覚えています」  夜になると寒気が猛烈に襲ってきた。シェラフの中にうずくまっていても、三十分もしないうちに全身が冷たくなっていく。息苦しいので松浦が酸素マスクを外してみると、吐いた息がマスクの中で凍り、鼻の頭に軽い凍傷ができていた。テントの中の水気のものが全て凍り、冷蔵庫の中にいるようだった。とても眠るどころではない。小便がしたくなって松浦は目をさました。テントの外に出るのも面倒で、座ったまま溲瓶《しびん》代わりの水筒に用をした。そのうち植村も寒さに耐えきれずに目をさましてきた。 「寒いですねぇ」  植村は起き上がって、ブタンガスのコンロに火をつけ、氷を解かしてお湯をわかす。お茶を飲んで体を温ため、やっとウトウトと眠った。  翌十一日、明け方、松浦はハッとして目をさました。シェラフの中であわてて時計を見た。四時四十分を指している。 「しまった、寝過ごした。植村、おい起きろ、起きろ」  松浦が隣りのシェラフをつつくと、なんの反応もない。藻抜《もぬ》けの殻だった。入口のほうで炊事の仕度をしていた植村から、元気な声が返ってきた。 「松浦さん、ものすごい好天気ですよ。長田さんが予報したように快晴無風です」 「すまん、大事な日に寝過ごした」 「いえ、僕も少し寝過ごしました」  植村の声が明るい。テントの入口を開けると、奇跡的に晴れあがり、蒼空には雲一つない。朝の太陽の光が射しこんでいた。絶好のアタック日和《びより》だ。二人は天に感謝した。 「よし、この天気なら登れるぞ」 「絶対、頂上に立ちましょう」  改めて闘志をたぎらせながら、二人は紅茶とマシュマロ五、六個で簡単な朝食をすました。植村は、第二次隊の平林たちが上がってきて、すぐに使えるようにきちんと食後の後かたづけをする。大学山岳部は、上級生と下級生の差が厳しく、食事の仕度など雑用はすべて下級生がやる。大学は違っていても、植村は八つ先輩の松浦をたてて、黙々と仕事をやった。  松浦は、ウール肌着の上下を各二枚、その上から羽毛服を着こみ、足も凍傷にかからないようにして、高所靴をつけ、その上からオーバーシューズとアイゼンをつけた。手袋は二枚のカシミヤ手袋に厚手の毛糸手袋をはめ、帽子は羽毛入りの高所帽で防衛した。植村もそれに続く。  荷物が重い。背負子にフランス製の新しい酸素ボンベを二本と若干の食糧、予備の手袋、紅茶を入れたテルモス、それにカメラ類を取りつけた。さらにNHKから頼まれた十六ミリ撮影機とトランシーバーを持つ。  すっかり用意ができたところで、二人は立ち上がり、真っ赤な三〇メートルの九ミリザイルでしっかりとお互いの腰を結んだ。 「よし、出発しよう、植村、先に行け」  六時十分、松浦が声をかけた。大学山岳部では下級生が先に行く。それに万一、植村が滑落したとき、松浦は自分が止める絶対の自信があった。植村も松浦が後ろにいると思うと、なに一つ恐怖を感じなかった。  植村は、チベット側に切れ落ちる雪稜を一歩ずつ前進し始めた。雪が意外に深くて膝まである。  眼下に恐竜の背骨のような稜線が見えた。ヌプツェの稜線だ。真下は何千メートルの地獄の底だ。植村は、右手でピッケルを慎重に雪に刺し、左手を急斜面の雪面につけてよじ登る。二〇メートルほど進んだところで、こらえ切れずに立ち止まった。海老のように体を折り曲げ、ピッケルによりかかって休憩する。松浦も、心臓が破裂しそうに苦しい。酸素は毎分二リットルずつ吸っていたが、酸素の希薄なエベレストの頂上直下では息切れが激しい。ナイフがあったら胸を切り裂いて息をしたいという衝動にかられた。  トップを交代し、またゆっくりと前進を開始する。一〇〇メートルほど登ると、南峰から下がっている東南稜へ出た。ここは雪がなかった。少しスピードが上がる。やっと南峰のピークに出た。キャンプを出発してから約二時間かかっていた。ここでまたトップを入れ替わることにした。松浦が指示する。 「これでは頂上に立つ時間が遅くなる。植村、酸素ボンベ二本はもう必要ない。一本にしよう」  二人は今まで吸っていたほうの酸素ボンベを外して、帰りのために岩陰にデポし、新しいボンベに切り換えた。そこで偶然、足元付近にユニオンジャックのマークのついた酸素ボンベを発見した。 「あれ、これは英国のだ。とすると、十七年前にヒラリーかテンジンがおいていったものかもしれん。帰りにこれを持って帰ろう。いい記念になる」 「偶然ですねぇ、それにしても偶然ですねぇ」  植村もただびっくりした。一九五三年に世界で初めてエベレストを征服したイギリス隊の酸素ボンベを、日本で最初に頂上にアタックをかけているおれたちが発見した。なにか運命のようなものを感じた。ヒラリーは書いている。 〈私は南峰の頂上のすぐ下に、腰を下せる場所をピッケルで切りはじめた。テンジンもそうして、二人は酸素補給器をおろして坐った。……前途の困難を考えると、できる限り荷を軽くする必要がありそうなので、私は一杯はいっている筒だけを使うことに決めた。私はテンジンの空になった筒と、私の使い残しの分とをはずして雪中に置いた(文献6)〉  酸素ボンベを一本にすると、とたんに体が軽くなった。 「さあ、いよいよ頂上アタックだ! 植村、先に行け!」  松浦の掛け声に、植村も元気に応じた。 「いよいよ、最後のナイフ・リッジですね。じゃ、行かせてもらいます」  植村が先に立って、最後の難関に挑む。ヒラリー・チムニーといって、ヒラリーとテンジンが大苦戦した約一〇メートルの縦状の割れ目がある。しかし幸運なことに今回は雪がびっしりつまっていた。植村は、松浦の確保でそこを抜け出す。急いでは危ない。「百里の道は九十九里をもって半ばとする」という諺《ことわざ》が頭をかすめた。やがて頂上のような丸い頂が見えた。植村は慎重に一歩ずつ登りつめる。息が荒い。やっとたどりついた。その先に同じようなピークが続いていた。あれッ、頂上じゃない、一瞬裏切られたような気がしたが、世界最高峰がそう易々と征服されるはずがない、と心を引き締めた。そんなことが何度かくり返された。  とうとうノース・コルからの稜線が近づいてきた。今度こそ本物の頂上だ。頂点まであと一〇メートルあまり。そこで植村は立ち止まって、後ろを振り返った。 「松浦さん、もうすぐ頂上に着きます。どうぞ、先に登ってください」  植村はこのまま進めば、最初に頂上に立つことができたが、それをしなかった。松浦が、 「いや、おまえ、先に行け」  と合図しても動かない。そのまま松浦が近づくのを待っていた。 「じゃ、一緒に登ろう」  松浦と植村は肩を並べるようにして、ついに頂上に立った。松浦が第一歩をしるし、そのあとに植村が続いた。世界最高峰の頂上は二人がやっと立てるほどの空間で、一面の雪におおわれていた。  九時十分。松浦と植村は、日本人として初めてエベレストの頂上にしっかりと立った。天と地の境。三百六十度の眺望が雄大にひらけていた。植村は、 「松浦さんのお蔭で、頂上に立たせていただくことができました」  というなり、感きわまっていきなり松浦に抱きついた。涙がどっとあふれてきた。松浦も植村をしっかりと抱きしめ、二人は無言のまま息がつまるほどお互いの背中を叩き合った。言葉はなかった。ただただ全身をつらぬく感激と、これで責任を果たせたという解放感で、二人はなおも抱き合っていた。十七年前、ヒラリーとテンジンがそうしたように——。  頂上でやる�儀式�はたくさんある。すぐ松浦がトランシーバーで、前進キャンプの大塚登攀隊長に感激の第一報を入れた。 「エー、ただ今、皆さんのお蔭で頂上に登ることができましたァ」  松浦の声がかすれている。大塚の祝福と歓声がはね返ってきた。 「おめでとう、ご苦労さんでした。どうぞ、存分に頂上の景色を楽しんでください。それから下山はくれぐれも慎重にしてください」  風は五メートルと微風で、空にも足元にも一片の雲さえない。眼下にローツェ、ヌプツェ、マカルーなどが迫っている。ゴジュンバ・カンも彼方にちらりと遠望できた。植村が三百六十度の眺望をあますところなく撮る。松浦がテレビカメラを回す。すぐ下にローツェ・シャールの姿がある。松浦は感無量だった。  頂上での証拠写真の撮影が終わると、植村は、明大山岳部の亡き同僚、小林正尚の写真を一枚埋めて、冥福を祈った。松浦は、成田の遺髪と写真、お守り、それに大好きだったピース一箱にマッチを添え、頂上の雪の中に埋めた。その上に日の丸とネパール国旗をひろげた。 「成田、とうとうエベレストに登ったぞ。おまえも一緒に登ったんだぞ」  合掌する松浦が泣いていた。植村の頬にも再びこらえようのない涙があふれた。涙はサングラスにたちまち凍りついた。  翌十二日、平林克敏とチョタレイも頂上を踏んだ。そしてこの日、大塚登攀隊長は、表看板だった南壁断念を発表した。生死が一瞬にして逆転する風雪と岩と氷にまみれて十五年、成田の死にも涙を流さなかった「鉄の男」小西が、初めて無念の涙をにじませた。小西、吉川、伊藤らの苦闘と悲しみ、口惜しさと怒りを込めて、エベレスト南壁の全てが終わった。  エベレスト登攀史上、ルート的には新味のない東南稜からの登頂だったが、植村は松浦とともに「日本人サミッターの第一号」に輝き、栄光の男となった。世界の登山家としては十八、十九番目(シェルパを加えると二十五、二十六番目)にあたる。それまでの放浪青年が「日本の植村」になった。   5 史上初の五大陸最高峰登頂 「7/30 羽田を出て、同じ日にALASKAのアンカレジに着きました。アンカレジは夏といえど、日本の秋の11月頃の様に10℃前後の気温に、寒い寒い。焼けつく日本の夏と180度も違い、体がなかなか順応しません。俺の単独登山の許可はうまくとれました。心配していたが、国立公園長に会い、特別許可をとって、8月15日頃に入る予定。期間は9月上旬まで。その後ニューヨークに出て、数日滞在し、|8月《ママ》中葉までには帰って来ます。本当にいろいろ、出発前、田舎ではお世話になり有りがとうございました。直己 8/3」(原文のまま)  同じ年の八月、兵庫県|城崎《きのさき》郡日高町に住む実父・植村藤治郎のもとに白銀におおわれたアラスカのマッキンリー(六一九一メートル)を写した絵ハガキが送られてきた。  植村直己は、エベレストから帰国すると落ち着く暇もなく、七月三十日、羽田からパンアメリカン機で一人旅立ち、フェアバンクス経由でアンカレジに入った。  エベレスト登頂に成功し、隊員たちに祝福されてBCに凱旋する形になった植村は、報道陣から「次の目標は?」と質問されて、はにかみながらこう答えた。 「とりあえずマッキンリーに登りたいです。そしてできれば南極へもいつか行ってみたいと思っています」  植村には明らかに目的意識があった。すでにモンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアに登り、そしてついに世界の最高峰エベレストも登頂することができた。残るは世界の五大陸の最後の山、北米の最高峰マッキンリーだけだ。  マッキンリーは放浪時代に登ろうとして、単独登山を許可されなかったが、植村には彼なりの計算があった。植村は、湯川豊(文藝春秋勤務)にこう相談している。湯川は慶大文学部卒で三歳上、一九六八年(昭和四十三年)十一月、世界放浪の旅から帰ってきた植村を取材して以来の交友で、植村の良き相談相手でありアドバイザーでもあった。 「マッキンリーを登れば、世界の五大陸の頂上を全部きわめることになるから、是非ともやりたい。それには今がいちばんいいんです。単独登攀に要求されるのはスピードですけど、今ならエベレストでの高度順化がまだ体に残っているから、スピードの点では大丈夫だと思います」  それから……と植村が、恥ずかしそうに口ごもった。 「あのう、今ならエベレストに成功した直後ですから、少しは僕の名前も知ってもらえたと思うんです。だから、今度はマッキンリーの単独登山の許可もなんとかなりそうな気がするんですけど」  聞いてみると、確かに合理的だし、説得力があった。エベレストから帰ってきたばかりで疲れていると心配していた湯川は、植村の恐るべきエネルギーに圧倒される思いで、マッキンリーへ送り出したのだった。  当時アラスカには、ゴジュンバ・カンの隊長だった高橋進が仕事の関係で来ていた。高橋が植村に、山の好きなアメリカ人、ジン・ミラーを紹介する。このジン・ミラーがいろいろと尽力して、アラスカ国立公園長から許可をとる道をひらいてくれるのである。  最初、植村が登山許可の交渉に出かけたときは、やはり答はノーだった。 「残念だが、規則によって、危険な単独登山は許可することはできません」  取りつく島もない。絶望にうちひしがれた植村に、ジン・ミラーがアラスカ国立公園の最高責任者である公園長に引き合わせてくれた。そして自ら、植村がどんな人間か、を説明する。植村もつたない英語とジェスチャーをフル回転して、マッキンリーに賭けた自分の夢を訴えた。 「話はよくわかった」  大きな体つきの公園長が話をさえぎった。 「大統領であろうと誰であろうと、いかなる理由があろうと、単独登山を許可することはできない。なぜなら、自分はこの国立公園の最高責任者であり、例外を認めることはできない」  植村は、ああ、やっぱり駄目か、と体が崩れ落ちそうだった。 「しかし、八月中旬にアメリカの隊が入山予定だ。ミスター・ウエムラは、書類上は、そのアメリカ隊の一員となる。これでどうかね。君の単独登山の成功を祈る」  そういってニッコリ笑うと、公園長が植村に握手を求めてきた。まるで大岡裁断のような粋なはからいだった。植村は感謝して、公園長の手を握りしめ、ジン・ミラーにお礼をいって深々と頭を下げた。植村直己には、初めて会った人間でも、なにかしてあげたいと協力したくなるような、不思議に人を惹きつける魅力があった。それ以後の人生でも、植村は実に多くの内外の人たちに愛され、ピンチを切り抜けていく。  マッキンリーは北緯六三度、北極圏からわずか三五〇キロしか離れていない。亜北極性の気候は、五、六月の気温でも氷点下三五度前後だ。さらに風速一六〇キロメートル近い強風が吹き荒れる。冬は氷点下四〇〜五〇度と凄まじい風で自然の猛威をほしいままにしている山である。  もともと、トナカイを追って北西山麓まで狩りをしていた地元の住民たちは、この山をデナリと呼んでいた。インディアンの言葉で「偉大なる神」を意味する。マッキンリーと命名されたのは一八九八年で、アメリカのウイリアム・マッキンリー大統領の名前からつけられた。この年、ユーコン地方で金脈が発見され、金本位制の支持者だったマッキンリーがアメリカ合衆国大統領に当選したからであった。  マッキンリーは、一九一三年六月七日、ユーコン地方の英国国教会の副監督をしていたハドソン・スタックが率いる四名のパーティによって初めて征服された。最初に頂上を踏んだのはハーパーという男だった。それまでにも何回か頂上へのアタックが試みられ、極地探検家として知られるフレデリック・A・クックが、一九〇六年に「マッキンリーを征服した」と発表した。あとになってクックが登頂したのは北峰(五九三四メートル)であることが暴露される。マッキンリーの最高峰は、実は北峰から約五キロ離れたハーパー氷河をはさんで聳える南峰(六一九一メートル)なのである。  マッキンリー山群には二十一のピークがあり、いずれも三〇〇〇メートルを越え、五〇〇〇メートル峰が四つもある。そして最高峰が今植村が挑戦しようとしている南峰であった。マッキンリー山群の特徴は奥ゆきが非常に深いことで、世界最大級の氷河をいくつも抱えこんでいる点にある。その最大のものが、南峰の南西面下に広がる七四キロメートルのカヒルトナ氷河だ。植村が今アタックしようとしている西稜から三回登頂した経験を持つアメリカの高名な登山家、ブラドフォード・ウォッシュバーンはこう記録している。 〈マッキンリー山頂への最短ルートは、標高差一万八五〇〇フィートの登攀にくわえ、ジグザク登行を繰りかえすことを考慮にいれないでも、片道三六マイルもの歩行を必要とする(文献7)〉  マッキンリーに日本人のパーティが初めてトライしたのは一九六〇年、植村が明大農学部農産製造学科に入学して山岳部に入部した年、先輩の土肥正毅たちが参加した明大隊であった。  明大隊は、大学創立八十周年を期して、海外登山の第一歩をマッキンリーに試み、交野武一隊長のもとに高橋進が登攀隊長をつとめ、学生とOBで構成した十三名がやはり西稜から挑んだ。土肥は大学三年、二十一歳の最年少隊員として参加、みごとに頂上をきわめることに成功したが、その土肥が話す。 「僕がマッキンリーに登ったのは四月から五月にかけてで、季節的には初夏にあたる頃ですが、初夏とはいえ、そのときは気温がマイナス二五度から三〇度で、寒さもさることながら厳しい山でしたね。登頂まで四十五日かかりました」  植村は八月十七日、アンカレジの北三五〇キロにあるタルキートナという村から、六名乗りのセスナ機に乗って一時間飛び、カヒルトナ氷河に着陸した。ドン・シェルダンという陽気なパイロットが植村を下ろすと、 「君はマッキンリーにたった一人で挑戦する初めての男だ。成功して無事タルキートナに生還してくることを祈る」  と激励して、雲の中に消えていった。  植村は、標高二一三五メートルをベースキャンプと決め、赤い二人用のテントを黙々と張った。食糧や炊事用具、小型通信機、登山装備などを運び入れる。登山用具の中には、ドン・シェルダンが貸してくれたアラスカ特有のスノーシューズが加わった。  植村は一息ついた。寒々とした氷河の中に今こうしているのは自分だけだ。静寂そのもので、動物一匹いない。別に寂しいという気持ちはなかった。むしろやっと一人きりになれたという満足感と安堵感のほうが強い。エベレスト登山隊のような大世帯は、対人関係に神経ばかり使って、人間つき合いの下手な自分はどうも苦手だ。性に合わない、とあのときつくづく思い知らされた。  放浪時代もたった一人でやってきた。自分で計画し、自分の思うままに行動できる単独行のほうがおれには合っている、失敗したらそれは自分で責任をとればすむことだ。失敗しないためには細心の準備と慎重な行動がよりいっそう必要だった。ここには助けを求める人間は誰もいないのだ。  二日間、悪天候のため足止めをくった植村は、三日目の十九日朝、いよいよBCを出発した。ザックに二五キロ以上の荷物を詰め、クレバス落下防止のため腰に旗竿《はたざお》を差した。植村は、放浪時代にモンブランに最初にアタックしたとき、ヒドンクレバスに落ちて、あやうく命拾いをしたことがあった。そして、最初のマッキンリーに挑戦しようとして許可が得られず、やむなくアラスカの東部カナダ国境に近いサンフォード(四九三四メートル)という氷山に単独登頂したとき、旗竿を腰につけて登れば、万一クレバスに落ちても旗竿が命を救ってくれるのではないかという知恵を発見した。いわば植村が単独登山を重ねて得た工夫だった。「経験は最大の武器」という植村の行動哲学はここから生み出された。  植村は、カヒルトナ氷河を登り、カヒルトナ・パスに出て、そこから風が強いことからウインディ・コーナーと呼ばれているところを通り、最大の難関ウエスト・バットレスに挑む。そして鞍部にあるデナリ・パスに出て、ピークに達するコースを選んだ。この西側からのルートはすでに何パーティにも登られ、一般ルートとなっているが、早いパーティでも十日以上はゆうにかかる。それは明大隊の四十五日を見ても明らかだろう。  大阪で教師をしている西前四郎は、植村より五年前の一九六五年の夏、まず関西登高会のメンバーとマッキンリーに登り、さらに六七年の冬、今度はアンカレジの友人二名と一緒の国際メンバー隊で登頂に成功した。日本人として夏、冬のマッキンリーに最初に登頂した西前の話が、あとで大きな意味を持ってくる。 「植村さんがとったウエスト・バットレスのルートは、技術的には五二〇〇メートル前後の大斜面が最大の難関。大きな氷壁で、雪の固い斜面が広がっている。一〇〇〇メートルぐらいの氷の大斜面ですよ。ここに滑落してしまったらどうしようもない。滑落したらアウトです」  予想以上の雪の状態の悪さに難航し、さらに谷間からわき出したガスに視界を閉ざされた植村は、たちまちビバークを強いられた。雪洞の中に二日閉じこめられても、まだ雪は降りやまない。植村は前進を決意した。 〈ガスの中でたよりになるのは磁石だけだ。竹竿を杖のようにつき出し、雪の色でクレバスの落とし穴を読みながら進んだ。しかし、人間の方角感覚というのもいい加減なものだ。磁石の針で見当をつけて歩いていたつもりでも、時々ガスがサッと消えた瞬間に、自分はまるで正反対の方に歩いていたりするのだ(文献8)〉  マッキンリーは白い悪魔が囁《ささや》く山だ。しかし植村は、ウインディ・コーナーで強風と闘い、三五度もあるウエスト・バットレスの急斜面を腰まで雪に埋もれながらもラッセルして、頂上に勇敢に迫っていく。  そして二十六日の朝、最後のアタック開始。氷点下二三度。植村は、竹竿に日の丸と星条旗とアラスカの旗をセットし、カメラ、三脚、若干の食料、水筒などを持って出発した。北峰と南峰の鞍部デナリ・パスに十時半に到着。ここから頂上は近い。  エベレスト登頂の日と同じく、空には雲一つない。風もやんでいる。植村は、自分はなんて幸運な男だろう、と天に感謝した。雪の稜線を気持ちよく登りつめる。最後は意外に単調なコースが続く。午後三時十五分、ついに植村はマッキンリーの頂上に立った。カヒルトナのBCを出発してわずか七日目のスピード快挙だった。植村は一人、天に向かって叫んでいた。 「やったあ、おれはやったぞ」  おれはとうとう念願のマッキンリーを征服したぞ。これでモンブランを皮切りに、キリマンジャロ、アコンカグア、エベレスト、そしてこのマッキンリーと、世界五大陸の最高峰を全部登った。世界で初めてだ。しかもエベレストを除いては全部単独でやりとげたんだ。植村は深い深い満足感につつまれていた。信念さえあればなんでも必ずできるんだ。エベレストで得た自信が、さらに強いものになっていた。この快挙が植村に与えた自信は大きい。  南極のことが自然に頭に浮かんだ。エベレストの頂上でちらりと南極のことがかすめたが、あのときは漠然とした夢のまた夢でしかなかった。しかし今、五大陸の最高峰を全部きわめたことで、南極大陸への夢が急にふくらんできた。信念さえあれば必ず実現できるはずだ。  植村はマッキンリーの頂上に立ちながら、これまで自分の生き方を模索して放浪してきたが、自分の本当の人生はこれから始まるのだ、と新たな出発を心に誓っていた。 [#改ページ]   第二章 冒険家の原点   1 国内徒歩縦断三〇〇〇キロ  マッキンリーに登頂して、世界の五大陸最高峰に全て登った植村は、このあとエベレスト国際隊に参加する(後述)。国際隊から帰るとすぐ、植村は湯川豊に会った。湯川が尋ねた。 「これからなにして暮らすつもりなの?」  植村にはこれといった定職はない。五大陸最高峰に登ったからといって、それで飯が食えるわけではない。これから先の長い人生を考えれば、湯川ならずとも心配になる。植村は一瞬困った表情をしたが、彼にはすでに芽ばえている夢があった。植村がおずおずした声で口にした。 「あのう、エベレストの頂上で、これからは極地をやってみたいって、ぼんやりと考えたんですけどねえ」 「極地って?」 「南極にビンソン・マシフっていう五一四〇メートルの山があるんですけど、それに登って、できれば犬橇《いぬぞり》で南極を横断してみたいと思っているんです」 「そんなことできるの?」  湯川は、植村の夢があまりに途方もなく大きいので、思わず聞き返した。 「最初から南極というのは無理なので、アルバイトをして金を貯めて、まずグリーンランドへでも行って、犬橇のことなどを勉強したいですねえ」  植村は自分の夢をトツトツと、しかし必死でしゃべった。湯川が話す。 「北極点あたりから、植村の夢はスポンサーなどもついてかなり実現性のある夢に接近していったが、この当時はまだ夢想以外のなにものでもなかった。しかし登山のテクニックなども含めて、山は限界があると感じたのではないか。彼は極地のほうに可能性を見出そうとしていた。そして一度夢にとりつかれると、他に生きようがない人だから、それに夢中になった」  植村が夢を語り、湯川がその可能性をチェックするという関係になる。湯川が穴だらけの計画の不備を突くと、植村がすぐにどこかで調べてくる。湯川は植村のあまりの熱心さに、おざなりの応答ができなくなっていた。植村には人を誘いこむ不思議な魅力と生真面目さがある。  北海道の稚内《わつかない》から鹿児島まで歩いてみる、という計画はこうして生まれた。稚内から鹿児島まで約三〇〇〇キロある、ということを植村がどこからか調べてきた。 「南極の横断距離とちょうど同じなんです。実際に自分の足と体で確かめてみようと思うんです」  一九七一年(昭和四十六年)八月二十八日。植村は文春のカメラマン、安藤幹久と一緒に飛行機で札幌に飛んだ。安藤は大阪出身。早大文学部仏文科を卒業して、カメラマンとして文春に入社した。卒業した年が植村が明大を出たのと一緒で、年齢がほぼ同じこともあり、二人は話がよく合った。札幌から夜行で稚内に入り、植村は二十九日、日本列島の最北端の地に立った。稚内に「日本最北端の地」と記した記念碑がある。植村は三十日の朝六時十五分、そこから日本列島三〇〇〇キロ徒歩縦断の壮途についた。この日は快晴で、気温一四・五度。  植村のいでたちは上下のトレーナーに、セーター一枚を腰に巻き、腹巻にパンツ一枚、タオル、雨具のビニール各一枚と手帳、貯金通帳を突っこみ、所持金は三万五千円。洗面道具などは持たない。靴は白のジョギングシューズ。手に持つものといえば、なぜか英語単語帳。歩きながら単語でも覚えようとしたのだろうか。 「のんびりやりますよ。まあ不安と緊張がないというと嘘になるけど土の上を歩くだけですから」  植村はそういうと、いきなり駆けだしていった。毎日新聞社札幌支局からきたカメラマンが、その姿をおさめる。このカメラマンの名刺があとで思わぬ植村の急場を救う。安藤はレンタカーを借りて、しばらく伴走した。車も人も通らない北の果て、サロベツ原野を植村は三五キロぐらいまで快調に走った。初日は七五キロの距離をこなした。  しかし、最初から飛ばしすぎた無理がたたって左足の膝を痛め、二日目は足を引きずって歩けなくなってしまった。そのうち自分に腹をたて、「やめたあ」というなり、五キロだけでその日は中止した。牧場があったので水をもらうと、牧場の主人があれこれ話を聞いて同情したのか、「泊まっていけ」という。その夜は牧場主の好意に甘えた。 「こんな調子で三〇〇〇キロも歩けるのかなあ、こりゃ駄目じゃないのって思いましたね」  安藤は三日目、一度東京に戻った。一人きりになった植村は、足をかばいながら単独徒歩に入った。四日目あたりから、また少し調子が出てきて、二〇キロは歩けるようになった。一週間目、札幌の手前まで距離を伸ばして、日陰で休んでいると、突然パトカーがきた。植村は有無をいわさず強制的に車に乗せられ、署に連行された。  たまたま近くで泥棒騒ぎがあって、植村が浮浪者のような格好でいたため、「変な人がいる」と電話され、強制連行されたのだ。署で職務尋問されたが、自分を証明するものがない。警察が所持品を調べると、手帳の中から毎日新聞のカメラマンの名刺が一枚出てきた。名刺をもとに警察が連絡して、植村はやっと釈放された。このために札幌に入るのが一日遅れた。  函館で植村は再び安藤と合流。青函《せいかん》連絡船で本州に渡り、日本海側にルートをとる。秋田県|八郎潟《はちろうがた》を通ったのが九月十七日。農家の造りは立派だが、政府の減反政策のあおりをくらって水田の四分の一が遊休中だった。農家出身の植村はなにか割り切れなさを感じた。  植村は日本列島を歩くうちに、はからずも日本の隠された素顔を自分の目に焼きつけることになった。新潟県|刈羽《かりわ》村は、田んぼの中から石油が噴出して、一時ブームを呼んだ土地柄だが、今ではそのほとんどが廃坑と化して、雨の中にかすんでいた。  柏崎《かしわざき》、敦賀《つるが》を経て、十月三日に京都府に入った。宮津《みやづ》市から北へ四〇キロほど歩くと、小枕《こまくら》の廃村が目に映った。ここは冬になると四、五メートルの豪雪で埋まる陸の孤島で、藁《わら》ぶきの農家がどの家も立ち腐れになっていた。雑草はぼうぼうと植村の背丈以上も茂り、とても人間が住める状態ではない。十年前には三十戸百五十人が住んでいたというが、豪雪のため村を捨てる村人たちで過疎化が急激に進み、植村が村を通ったときはわずかに二世帯八人が住むだけの廃村のような村となっていた。植村は、過疎村のあまりの荒廃した姿にただ絶句した。 「これはひどいや」  植村の生家がある兵庫県城崎郡日高町も雪の深いところである。植村が生家に立ち寄ったのは、稚内を出発して三十七日目、十月五日の夜だった。前日、電話はしてあったが、出迎えた両親の藤治郎と梅は、風来坊《ふうらいぼう》のような姿で帰ってきた息子の姿にびっくりした。一年ぶりの帰宅である。 「そげな格好でなにしてるんじゃ」 「北海道の稚内というところから歩いて来たんじゃ。鹿児島まで歩くつもりじゃ」 「北海道から歩いてきたと……。歩いてどうするんじゃ」 「いうてもわからんじゃろな」  植村もそれ以上両親に詳しいことは話そうとしない。 「はえとこ嫁でももろうて、ちっとは落ち着いてくれんと……」 「おれにきてくれる嫁さんなんかおらんわ」  植村は母親の梅にそう笑いとばしながら、久しぶりに故郷にきてわが家の温かさにひたっていた。植村の人間形成にとって、「故郷」の持つ意味はきわめて大きく深いものがある。   2 牛飼いの少年  影絵のような山々の西の端に、今まさに沈もうとする残照が、円山《まるやま》川の川面《かわも》に金色にゆらめくさまが美しかった。静かな田園風景の夕暮れ。長兄の修に案内されて、私は晩秋の円山川の橋の上から、但馬《たじま》盆地に沈む落日を追っていた。  円山川に架《か》かる橋は、昔は木だったが、今はコンクリートの橋になっており、長さが約二〇〇メートル近くある。結構川の幅は広い。水流は四分の一ほどで、あとの流域は灌木や雑草が生え繁っている。植村は幼少時、この川で牛を飼い、魚を釣り、水遊びをして過ごしたのだ。  兵庫県城崎郡日高町|上郷《かみごう》。山陰地方のこの町は、豊岡《とよおか》市に隣接した盆地の中にある人口一万九千人の町で、東部を北流する円山川の流域に平坦地がひらけ、植村家は円山川にすぐ近い。  一九四一年(昭和十六年)二月十二日、植村はここで生まれた。父・藤治郎、母・梅。七人兄弟の末っ子、四男坊である。すぐ上の兄は早逝した。藤治郎は国府《こうふ》村(当時)役場に「植村直巳」と届け出たが、戸籍係が「巳」を「己」と誤って記入したため、戸籍名は「植村直己」となっている。  植村家は現在、長兄の修が継ぎ、畳製造販売業を手広くやり、妻の寿美恵が農業をやっているが、父親の藤治郎は八十五歳の今もかくしゃくとして、朝八時から夕方五時まで畳工場の仕事を手伝っている。藤治郎が直己出生を話す。 「死んだ子も入れれば七人ですけんな。またできた、もういらんけどなあ、と思うたけんど、生まれたら親は子が可愛いのは当たり前ですぅ。生まれてみれば子は可愛いもんですわ」  藤治郎は、まだ三つくらいの直己を飼っていた但馬牛の鞍《くら》にくくりつけて、山の奥にある田んぼによく連れて行った。この地方の言葉で「アダ培《ばい》」という言葉がある。畑に蒔いた種が風に吹き飛ばされたりして、どこか他の思いもかけないところで芽を出すことをいう。期待されていない余計者、半端者の意味に使われる皮肉っぽい言葉だ。長子相続の農家では、次男三男は家を出て、自分で生きる道を探さなければならない。藤治郎は実は入り婿である。 「わしはアダ培でのぉ。ここに婿に入ったんですぅ。わしの生まれたとこは隣りの出石《いずし》町っちゅうとこだけんど、兄貴の世話になってるのもいやだしのぉ、そこに婿の話があった。婿にきたら、嫁とる金もいらんし、隠居とる家もいらん思うてな、嫁の顔も見ないうちに返事しましたん」  藤治郎は笑いながら、ざっくばらんに話してくれた。婿にきた当時、植村家は自作農とはいえ、決して裕福な農家ではなく、田んぼもいちばん山の奥にあった。働き者の藤治郎は、才覚と努力で、田んぼを近くに買い換え、自宅も立派に作り、今では上郷でも有数の裕福な農家となった。  修が経営している畳工場も、身内を加えると十数名が働き、「年商一億」というから、いかに植村家の親子が粘り強く、コツコツと人の二倍も三倍も努力してきたかがわかる、直己はその血を受け継いでいる。そして植村も「アダ培」であったのかもしれない。  府中《ふちゆう》小学校に入ってから、直己の日課は学校から帰ると「ベー」という名前の雌の但馬牛を円山川に連れて行き、草を食《は》ませるのが大事な仕事となった。但馬牛は今でこそ松阪牛や神戸牛と並んで牛肉としての世評が高いが、その頃は使役《しえき》用としてこのあたりの家はせいぜい一軒で一頭飼っているぐらいのものだった。そしてどの家でも牛の世話は子供の仕事になっていた。  直己は広々とした円山川の草むらに牛を放し、自分はそこに集まってくる近所の子供たちと日が暮れるまで遊ぶ。修がそのひとこまを話す。 「わしと直己は十《とお》違って、親子みたいに年が離れてるもんでな、一緒に遊んでやったという印象が薄いんだわ。わしらの仕事は草刈りが多かった。直己は牛飼いといっても半分は遊びだわな。牛を放し飼いにしながら、自分たちは釣りをしてて、時どき途中でちゃんと牛がいるかどうかを見てはまた釣りに夢中になる。このあたりはグズ、フナ、ジャコとか、六月になるとアユとか、ようけ釣れますきに」  府中中学校(現・日高東中学校)でも、植村はどこにでもいる平凡な生徒の一人だった。小・中学校と一緒だった正木徹(現・日高町役場勤務)にも、後年の植村を彷彿《ほうふつ》とさせるような強烈な思い出はなにも残っていない。 「円山川の今の橋はコンクリートになっていますが、当時は橋桁《はしげた》も木で、腐りかけてあちこちに穴があいていた。学校へ行く途中、その穴をどんどん大きくして、人が通れないようにしたり、欄干《らんかん》の上を渡ったりして道草をしたものだけど、直己ちゃんは欄干渡るのも人がやったあと恐《こ》わ恐《ご》わという感じで、とてもワンパク小僧という感じはなかったですねえ。このあたりは田舎《いなか》で蛇がおるから、蛇をとってきて校庭で振り回し、女の子たちをキャアキャアいわせたこともあったけど、そんなこと誰でもするイタズラですからね」  しかし、高校に入学すると、明らかに植村直己の自意識が他の生徒たちとは変わった形で表現されるようになる。植村は一九五六年(昭和三十一年)、兵庫県立豊岡高等学校に入学。このあたりではいちばんの進学校で、中学の成績がクラスで五、六番以内でないと合格できないというから、植村の成績が悪かったわけではない。  植村は、中学時代はバレー部だったが、高校に入ると日高から豊岡まで汽車通学のため、クラブ活動はなにもしなかった。そのくせクラブ活動をしている連中が終わるまで、学校で遊んで一緒に帰った。高校時代からの親友、長岡義憲(喫茶店経営)が懐しむ。 「一クラス約五十人で九クラスあり、うち三クラスが進学組、六クラスが就職組に分かれていましたが、植村は三年まで就職コースでした。あの当時は商売全盛時代でしたから。進学組を尻目に、植村は徹底的に遊びの精神を貫きましたね。しかも型にはまったことが嫌いなタチでした」  毎年秋に校内マラソン大会がある。一年から三年まで男子全員六百名が一万メートルを走る。二年のとき、植村と長岡ら仲間は「四百番くらいで帰ってこようや」といって、禁止されている弁当を隠し持って出ていった。途中でのんびり弁当を食って帰ってきたときはすでに一時間以上も遅れてビリ。会場は取り払われていた。完走するとアメ玉をもらえる。叱られるのを承知で、植村たちはわざわざ職員室に報告にいった。 「いま帰ってきました。アメ玉ください」  先生たちはあきれて、叱るのも忘れた。  授業中、いちばん恐い先生のときに、スルッと部屋を抜け出して、逃げたぞ、とわざと手を振ってみたりする。植村はそういう意味での「人気者」だった。  校庭の池に六匹の鯉が泳いでいた。高校卒業も間際になった一月すぎ、植村と長岡の二人は �勇気の記念�に、「池の鯉を卒業までに全部食べよう」と誓い合う。先生の目を盗んでは一匹捕り、二匹捕りして、クラスのストーブで焼いて腹の中におさめた。最後の二匹まできて、とうとう先生に見つかりそうになった。長岡が続ける。 「二人でさっと植え込みに隠れましてね、いったん逃げて、あとでまた捕りにきた。そして六匹とうとう全部を平らげましたよ。あのときは二人で�やり切った�という満足感にひたりまして、それで卒業したんです(笑)」  旧制高校時代にはこのテの�蛮勇�が稚気愛すべきものとしていくつものエピソードを生んでいるが、今なら見つかれば処分ものだろう。植村はなぜ、こういう形で学校やクラスの人気者になろうとしたのか。長岡の話は、のちの植村の行動の原点を考えるうえで一つの示唆に富んでいる。 「植村は非常に他人を意識するタイプで、負けん気が強かった。他人を意識するといっても、勉強やスポーツにズバ抜けていて優秀だったわけではない。いわば自分をアピールする派手さ、特徴がないわけですよ。グループの中では頭を出しにくい。それで劣等感の裏返しのような形で、ああいう誰もやらない奇抜なことをやって、人目を引こうとしたところが多分にありますね」  しかし、まだこの時分、植村は、氷《ひよう》ノ山《せん》・後山《うしろやま》・那岐山《なぎさん》国定公園、恐れ滝、竜王滝といった�阿瀬五滝�の景勝を誇る但馬山岳県立自然公園などの恵まれた自然に囲まれながら、山らしい山に入ったのは、一年のときに同級生と登った、近くの蘇武《そぶ》岳(一〇七五メートル)だけであった。  高校を卒業した植村は、豊岡市に本社がある新日本運輸に就職した。就職決定の通知が届いたあと、就職と二股かけて受験した関西大学の合格通知が着いたが、就職先が藤治郎の知友の紹介によるものだったので、植村は新日本運輸に勤めることになったのだ。当時の給料は八千円である。  一ヵ月して、植村は自分から希望して、東京・両国《りようごく》にある出張所に転勤になり、上京した。仕事は荷物の上げ下ろしで、植村が満足できるものではなかった。植村は、将来に漠然とした不安を感じ、大学に入り直すことを決意する。  結局、植村は新日本運輸を十ヵ月で退職し、翌一九六〇年、十九歳のとき、明大農学部農産製造科に入学した。植村は偏執的とも思える熱心さで、克明に日記をつけ始める。以後も死ぬまで日記をつけ続ける。一度決心したら最後までやり通すという植村の性格と集中力の現われともいえよう。  日記の中に、植村は大学に入った動機をこう吐露《とろ》している。この当時の日記はまだ誤字などが多いので一部訂正した。 「俺って何故学校へ行っているかと聞かれたならば、俺はどう応答するか。今、とっさに思うに、俺は学生生活を楽しみたいから、もう一つ、自分がよりよい就職先につきたいから、この二つが自分が学校に行っている理由である。学生生活を楽しみたいと云うのは、俺が高校卒業し、大学合格していながら、就職したいという意志が強かったため、合格をふいにしてわざわざ就職した。ところが、自分が思っていたような社会と云うものは甘いものでなかった。生存競争の激しい世の中にあっては、自分はどうも学生から抜け出してきた自分に満足できなかった。  つまり他人から云わせるなれば、生存競争から敗けたものだと云うかもしれない。俺としては真反対の考えで、もう一度あこがれの学生生活をしたい。社会に出て、仕事をするのがいやになってくる。最高学府を出た肩書を持っているものは、自然に高校卒より上の地位についてくる。そのような事で、俺は少しでも出世したいと云う気持ちがある為に再び学校へ出たのである」  学歴社会を身をもって痛感し、「出世するためには大学を卒業しなければ……」という意識が強いことがうかがわれる。植村が大学に入学した年は、いわゆる「六〇年安保」の年で、安保反対のデモで全学連と警官隊が激突、東大生の樺美智子が死亡した。社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼少年のテロにあって刺殺されたのもこの年。安保阻止統一行動に五百万人が参加するなど、日本国中が騒然としていた。  田舎出の植村は、安保になんの関心も示さず、入学すると同時に山岳部に入部した。上京するとき、藤治郎からこう戒《いまし》められていた。 「思想悪くしたらあかんで」  東京の保証人は、母親・梅の幼い頃からの知り合い、同郷の先輩である赤木正雄(赤木商店社長)に頼んだ。赤木の息子の健一は、慶大の野球選手として鳴らし、国鉄スワローズ(当時)に入って活躍した。植村が山岳部に入ることは、赤木も「危険だから」と反対したが、植村はすでに心に決めていた。 「わしは野球もできん、歌も歌えん、山ならいい景色も見られる、山ぐらいなら誰にも負けん」  新日本運輸で荷物の上げ下ろしをし、荷物をかついで歩くことには自信があった。 「山が厳しいとは知らなんで……」  と藤治郎は苦笑したが、事実そのとおり、山岳部に入部した植村は、五月に新人歓迎合宿で北アルプス白馬岳《しろうまだけ》に登らされたとき、山岳部が自分が想像していたのとはまるで違う厳しい世界であることを思い知らされた。  同期入部者には小林正尚、中出水勲、広江研らがいる。小林は東京生まれで、城北高校時代にすでに山岳部で登山を始めており、登山の知識と技術がズバ抜けており、田舎育ちの植村とは好一対をなした。  なにしろ植村は、山岳部に入ったとき用意してきた装備といえば、あわてて御徒町《おかちまち》のアメ横で買ってきた米軍放出品のシャツとか帽子の類で、足元にはおまけに日本式のゲートルを巻いている。ザックは戦時中の買い出し用の古ぼけたやつ。それを見て先輩も同期生も、笑いころげ、植村を小馬鹿にした。  白馬岳では、いきなり五〇キロ以上ある荷物を背負わされ、隊列から遅れると、「このドジ、早く歩け!」と、上級生たちがピッケルのシャフトで、植村の尻や足を容赦《ようしや》なく叩いた。植村はただ屈辱に耐えた。  当時三年生で、一から登山を教えた土肥正毅はこう話す。 「今と違って、あの頃は大学の山岳部はなかなかの花形でしたから、入部希望者も多かった。その中から精鋭を鍛えなければならないわけですね。山は一歩間違うと死に直面する危険性がある。そういうことで下級生を厳しく鍛える、今でいうシゴキがあったのは事実ですね」  同僚たちも嘲笑した。中出水がこう書いている。 〈新人合宿で一番先にバテた彼に対し、私を含めた新人部員たちは「やっぱり風采どおり……」と鼻の先で笑うようなところがあり、逆に彼の方は初《しよ》っぱなのこの醜態が、ほかの同僚たちに対する強烈なコンプレックスになったようである(文献9)〉  植村はのちに「山登りであれほどの屈辱を感じたことはない」と、何回も親しい友人たちに述懐している。ある山仲間が明かす。 「大学の運動部はどこでもそうですが、いってみれば旧軍隊のヒエラルキーと同じで、上級生に対して下級生は絶対服従、一年生などは奴隷扱いですよ。植村は動作がドジでノロかったから、なおさら一部の上級生の制裁を受けた。それが植村の中でいつまでも憎悪として残った。彼が明大山岳部に対して複雑な思いを抱いていたことは事実です。逆にいえば、彼がのちに単独行に移行し、あれだけの業績を挙げることができたのは、明大の連中を必ず見返してやるぞ、という劣等感と屈辱の裏返しでもあったわけで、そういう意味では明大山岳部はまさしく植村を生み出す反面教師ではあったわけです」  植村はあまりの訓練の苦しさに、「下手をすると殺されてしまうんではないか」とさえ思ったというから、その凄絶さが想像される。山岳部をやめようかと悩むが、山岳部に入るとき、保証人の赤木からいわれた言葉がある。 「わしは反対だ。しかしどうしても入るというなら最後まで貫き通せ。もし合宿の厳しさで途中退部するようなことがあるなら、それは人間のクズだ。その気持ちでやれ」  植村は自分で仲間以上に努力し、体力を鍛えるしかないと思い直した。植村の執念が鬼火のように燃え上がるのはそれからだ。合宿山行が終わると、今度は一人で富士山に登ったりしてトレーニングに励んだ。山岳部は一年に七つも合宿をやり、百日以上も山に入っている。植村はそのうえ個人的なトレーニングを加えると、年間百二、三十日も山登りを続けていた。  日本中の山を登り、ドジと蔑《さげす》まれノロマと罵倒《ばとう》された植村も、上級生になるにつれて、登山に対する認識も深まり、四年のときはサブリーダーに選ばれた。リーダーは小林。バイタリティと好奇心が旺盛でどこでも顔を突っこむところから小林は「ゴキブリ」と呼ばれ、植村は短躯短小、山でもよく転んだことから「ドングリ」というアダ名があったが、ドングリはどうしてもゴキブリには一歩遅れをとる。それでも植村にとってサブリーダーに選ばれたことはこれまでの努力が実ったようで嬉しかった。  日高町の生家の居間には、何枚もの記念写真や栄誉の額が鴨居《かもい》に飾られているが、その真ん中に「植村直己 山岳部リーダーに推薦す 昭和三十八年二月二十日 山岳部部長渡辺操」  という額が掲げられている。藤治郎の話。 「山岳部のリーダーになったことを、本人はいちばん喜んでおったようですな。農学部からリーダーになったのは明大で一人あるかないかだから嬉しい、というちょりましたわな」  植村はサブリーダーになったとき、初めて単独山行を試みた。奥大日岳《おくだいにちだけ》から剣岳《つるぎだけ》で合宿山行の帰り、植村は合宿の残りものの食糧をかき集めた。ルートは黒四《くろよん》ダムから黒部峡谷《くろべきようこく》の阿曾原《あぞはら》峠を経て、北仙人尾根の頭に出、そこから剣岳の北側にある池《いけ》ノ平《たいら》から剣沢をめがけて下る。さらに黒部別山にのびるハシゴ谷乗越《だんのつこ》しに出て真砂《まさご》尾根をつめ、その頂上から地獄谷をめがけて下り、弥陀《みだ》ケ原を経て、千寿《せんじゆ》ケ原に下った(文献8)。  テントはなく、スコップ一つで雪洞を掘り、そこに夜はビバークする。全五日間の単独山行をみごとにやり終えたとき、植村の心に満足感と自信が広がった。これは植村の生涯の中で、初めての記念すべき単独山行だった。   3 四年半の外国放浪  藤治郎と修は、直己が大学を卒業したら、「一流の会社に就職してくれるもんと楽しみにしておった」が、ある日大学から手紙がきた。一科目単位が不足していて、このままでは落第で卒業できない。本人に勧めて一単位取るようにしなさい、というものだった。驚いた修は直己に「試験だけは受けて、とにかく卒業だけはしてくれ」と、弟に懇願した。  修は豊岡農学校(現・豊岡南高校)に入ったが、当時家が貧しく、親の仕事を手伝うために三年で中退した。それだけに弟の直己には是非とも大学を卒業してほしかったのである。  直己には魂胆があった。大学四年の夏山行のあと、小林正尚がアラスカへ飛んで氷河の山を楽しんできた。その素晴らしさを仲間に話しては羨《うらやま》しがらせた。普通なら羨しがって終わるところだが、サブリーダーとしての植村のライバル心に火がついた。外国へ出ていく経済的余裕もない状態で、それは異常なライバル心といっていい。  本人はライバル心といっているが、むしろ植村の中に眠っていた外国への憧れが、小林に触発されて一気に噴き出したといったほうが正しいのかもしれない。植村は、中学校は社会科、とりわけ地理が好きだった。植村はのちの日記にも「小生は中学時代から外国への夢をいだき、地理を非常に好みとしていた」と記している(文献10)。  外国へ出るためには学生の特権をフルに利用したほうがいい。植村の魂胆はそこにあった。修が当時のいきさつを話す。 「それでわざと落第するつもりでいたんです。なんとか外国へ行かせてくれ、と大騒ぎしよって、いくら反対してもいうことを聞かん。あげな強情な直己は初めて見た」  植村にとって外国ならどこでもよかった。とにかく外国の山さえ登れば|ハク《ヽヽ》がつく、最初はその程度の考えだったようだ。家族はむろん反対したが、とうとう最後は直己の気迫に負けて、台湾ぐらいなら仕方がないだろう、と渋々認めた。これは今回明らかにされた事実で、修がいう。 「それで台湾の新高山《にいたかやま》(現・玉山、三九九七メートル)に登ることになったんだわな」  有頂天になった直己は十一月八日付の日記にこう喜びを爆発させている。 「夢は正夢になりつつある。いつか登戸《のぼりと》に居たとき外国へ出国した夢を見たが、夢は決して嘘ではない、いつかはかなえられると信じていた。遂に夢は夢でなくなった。実現の色が濃くなりつつある。台湾渡航が出来るのだ!! かなり強い線が出た。来年の2月中旬、我々の4年間の山行も終止符を打ち、4年間の農学部としての学生生活を終え、台湾の山へ登山へ行くのだ。さいわい費用も10万円内外で行ってこれるし、俺の希望もかなえられた訳だ。しかしこれ等の渡航はまた、たくさんの希望の一つにすぎない。氷山の一角かも知れない」(一部誤字のみ訂正)  しかし、この夢は無惨《むざん》にもしぼんでいく。ビザを何回申請しても、植村は台湾渡航の許可を手にすることができなかった。貿易の自由化にともない観光旅行が自由に認められるようになったのは翌一九六四年からである。植村は落胆したが、今度はさらに途方もなく夢を広げていく。直己と家族が本格的な�大戦争�になるのはこれからだ。 「台湾が駄目ならアメリカへ行かせてくれ」  直己が必死な顔で切り出した。 「アメリカへ行く、なに夢見てるんじゃ」  母親の梅が一笑に付した。 「いや、真剣なんじゃ。おれはほんまはヨーロッパ・アルプスっちゅう山を登りたい。けんどヨーロッパまでは金が大変じゃから、まずアメリカへ行ってアルバイトして金を貯めるつもりじゃ。アメリカは労働賃金が高いから」  直己はこれまで練りに練ってきた計画を話して、親の了解を得ようとする。 「右も左もわからん国で、そんな甘い夢が叶うと思っとっとか。そんなこと、できるわけがない」  梅は烈火のごとく猛反対した。子供たちにとっては厳しい母親だが、それでも直己はひるまない。 「どうしてもおれはアメリカへ行きたいんじゃ、行かしてくれ」 「なんでそんなに外国に行きたいんか」  父親の藤治郎も、話にならん、とばかりに背を向ける。 「おれは……おれは……」  ついに直己は口惜しさのあまりポロポロ涙をこぼした。 「おれの心はどないいうたらわかるんや。お父さんとお母さんに通じるんや」 「どないもこないも、月々一万六千円の仕送りだけでも大変じゃったのに、就職もせんと今度は外国へ行くという。そんな金が家にあるわけなかじゃろ」 「片道の船賃だけ出してくれればええ。あとはアメリカで働いてなんとでもするから」  直己はてこでも動かない。藤治郎も梅も、話を聞いていた兄の修や淳一、姉の初恵、好子たちもすっかり手を焼いた。直己はものの怪《け》に憑《つ》かれたようにしゃべった。 「おれは名を挙げてやる。世界に、植村っちゅうのがいるっていうのを知ってもらうんや」  藤治郎が怒りを通り越して、あきれはてたように高笑いした。 「世間に偉い人がようけおるのに、世界の植村になってみせるなんて、世間の人が聞いたら大笑いのタネじゃ」  家族に猛反対された直己は、泣き濡れた顔で外へ飛び出して行った。円山川の欄干につかまって、家族に理解されない無念さと口惜しさでさめざめと泣いた。夜中に家に帰るや、布団《ふとん》の中にもぐりこんだが眠れない。次女の好子がいう。 「直己は夜通しそうして泣いておった。私らも急に不憫《ふびん》になったぐらいじゃった」  翌日から直己は三日間断食を決行した。この強情さに、両親の藤治郎と梅もさすがに顔を見合わせ、梅のほうが音をあげた。 「体をこわされては元も子もないきに、そげなことまでするなら、しょうがない、お兄さんに相談しろ」  修がこんなに我を通す弟を見るのは初めてだ。弟が三日間も断食するくらいだから、よっぽど思いつめているのだろう、話を聞いてやらにゃ、と思った。  修は直己が帰郷するときは、いつも送り迎えするほど弟想いだった。弟も帰ってくると、辛い薪割りを一人で片づけて兄を助けた。二人は円山川の橋の上にいた。 「おれは世界に名前を挙げてやる。アメリカへ渡るだけ、なんとか渡してほしい」  直己がまた必死で訴える。修は、弟の功名心をそんな言葉で聞くのは初めてだった。しばらく黙っていたが、修が一言いった。 「よし、わかった」  その瞬間の直己の喜びの顔を、修は忘れることができない。こうして植村直己の海外放浪が始まることになるのだ。修にしても、それが四年半にもおよぶとは想像もつかないことだった。  植村が『あるぜんちな丸』で横浜の棧橋《さんばし》からアメリカに向かったのは、一九六四年(昭和三十九年)五月二日、二十三歳のときである。東京オリンピックで沸きたつ日本をあとにした植村の格好は、使い古しの山の装備をつめたザックを背負い、手にはピッケルを持ち、汚れた登山靴、ちょっとそのへんの登山にでも行くような感じだった。所持金はわずか百十ドル(当時の金で約四万円)だけ。アメリカまでの片道切符代十万円はなんとか工面した。  植村の場合、よく「単独行」といわれるが、純粋な意味での単独行は、この四年半にわたる海外放浪の旅だけである。それ以後の登山、冒険、探検は、登山隊に属したり、北極点遠征、グリーンランド縦断の犬橇の旅にしても、行為そのものは単独であっても、必ず近くにサポート隊がおり、彼の行動を見守る人たちがいた。  むろん、だからといって植村の偉業がそのことで損われるものではない。ただ、英語もあまりしゃべれず、金もない、知り合いがいるわけでもない、全くの徒手空拳《としゆくうけん》で初めて世界に飛び出した植村が、絶対の孤独の中でただ一人、放浪の旅を重ねたのがこの四年半の旅だった。植村は冒険家の常として、記録を残すことに異常なほど神経を払ったが、読者を意識しないで書いたこのときの記録『青春を山に賭けて』(毎日新聞社)がいちばん生き生きとしている。  カリフォルニアの農場で�モグリ�で働いていた植村は移民調査官に捕まり、日本へ強制送還されそうになるが、取り調べ官の温情でフランスへ渡る。テントを張って自炊生活をしながら二週間、シャモニの風景にひたっていた植村は、念願のモンブラン単独登攀を決行する。 〈登山をはじめて北アルプス、南アルプスを登り、無一文でとび出してアメリカにわたり、無我夢中で働きまくったのも、ただ、きょうという日のためだった(文献8)〉  その意気ごみでモンブランにトライし、クレバスを慎重に避けながら氷河を登っているとき、突然ストンと体が落下した。ヒドンクレバスに落ちたのだ。植村は頭を打ちつけ、失神状態のまま、クレバスの途中で奇跡的に止まっていた。気がついた植村は、心臓が凍った。小さなクレバスでなかったら、植村は誰にも目撃されることなく、今頃は暗黒のクレバスの中で永遠の氷葬になっていただろう。  その後、シャモニから三〇キロ離れたスイス国境の小さな村モルジンヌで、一九六〇年のアメリカ・スコーバレー冬季オリンピックの滑降優勝者、ジャン・ビュアルネに拾われた植村は、彼の経営するスキー場で働くようになる。そしてここをベースにして、一九六四年から六七年の暮れまで、金を貯めてはゴジュンバ・カンやアフリカのキリマンジャロを登り、また戻ってきて働いた。  そのあとスペインのバルセロナ港から『キャボサンロック号』で南米入りし、アコンカグア登頂を果たす。  このあと、植村は放浪生活の中でもっとも独創的な冒険をする。次は北米の最高峰マッキンリーを目指すことになったが、金に余裕がない。フランスを発つ前から漠然と夢想していたことがある。それは�緑の魔境�と怖れられている大アマゾンの筏《いかだ》下りだった。  植村の登山は、一見無鉄砲のように映るが、実はステップ・バイ・ステップで、必然的に筋道が伸びていく形をとっている。三大陸の世界最高峰をきわめたあと、四つ目の最高峰、北米のマッキンリーを狙うのは必然的かつ論理的である。  しかし、大アマゾンの筏下りは、これまでの登山と異なって、彼が初めて体験する冒険である。南米大陸を横断する全長六〇〇〇キロの大河。そこは人食いワニやピラニア、毒蛇がうようよ棲息している魔の河だ。 「狂気の沙汰だ!」 「命を捨てる気か、バカな真似はよせ!」  地元の人はもちろん、現地に住んでいる日本人も植村の無謀さをとがめた。船で下っても三十ドルとかからない安い船賃だが、植村にはその余裕さえなかった。植村は、「神風特攻隊のように、出撃あるのみだ」と、初志を貫徹することを決心する。  植村の意志が固いとわかると、現地生活の長い「三宅」という老人が、原住民が水上で生活するパルサ(筏)のほうがまだしも危険が少ない、と教えてくれた。植村は八本の丸太を丈夫な木の皮で結んで、縦四メートル、横三メートル弱のパルサを作った。パルサにはその上に丸太を重ねて一段高い床まで作り、屋根は椰子《やし》の葉でふいた。筏の名は『アナ・マリア号』と命名した。  こうして一九六八年四月二十日、ユリマグアスを出発した植村は、バナナを主食に、釣りあげたピラニアなどを食べながら、一人ぽっちで�緑の魔境�を下り始めた。蚊の大群に襲われたり、危うく河に落ちそうになってピラニアの餌食になりかかったり、実に凄絶な冒険が展開する。二人組の盗賊に襲われ、ナイフとカイを両手にして仁王立ちとなり、睨み合いの対決をして、難を逃れたことまであった。  終着地のマカバに着いたのは、ユリマグアスを出発してから六十日目、六月二十日のことである。この快挙をなした植村は、アマゾンに移民してきた多くの日系人たちの大歓迎を受けた。同時に、そこで連絡した日本の大塚博美から、明大山岳部の同僚で好敵手だったゴキブリこと、小林正尚が交通事故で死んだという悲しいニュースを知らされた。植村は運命の明暗を感じないわけにはいかなかった。  マカバからベレムに入り、そこからアメリカへ飛んだ植村は、すっからかんの身となった。カリフォルニアの農場で、今度はイミグレーションに発見されないように働き、一ヵ月で三百ドル稼ぐと、すぐアラスカのマッキンリーに向かう。だが、そこではいくら訴え、哀願しても単独登攀の許可は得られない。苦労してたどり着いたマッキンリーは、植村が一九七〇年、エベレストのサミッターになるまで、単独登攀の門戸を開かなかった。  しかし、植村はのちに師と仰ぐ西堀栄三郎と偶然のことからこのマッキンリーで出会うのである。西堀が明かす。 「私は家内と一緒にこの頃カナダのローガン山へ行った。アンカレジ駅で列車を待つ間、そこにたまたまいた若い青年に、『ちょっと荷物を見ておってくれ』と頼んだわけです。戻ってみると列車が入っていて、荷物も上に運んである。なかなか礼儀正しい青年でね、今どき奇特《きとく》な若者がいるものだと感心した。それが放浪時代の植村直己君でした」  植村が四年五ヵ月ぶりに帰国したのは一九六八年十一月一日だが、そこにもう一つこれまで明らかにされていない秘話を、修が今話す。 「お宅の息子さんが今アラスカにいるけど、飛行機賃がなくて帰れないでいます、どうされますか、という連絡が向こうからあってな、それで急いで金を送ってやったんだわ。そんとき地元の郵便局でも豊岡でも金の送り方がわからんで、苦労して送ったのを覚えています」  ようやく帰国した直己を、両親の藤治郎と梅が東京まで出迎えた。このままで終われば、植村はよくある「放浪青年」の一人にすぎなかったろう。しかし、植村はその後、大塚博美ら先輩たちに可愛がられて、エベレストに登り、「日本の植村」へ、やがて「世界のウエムラ」へと成長していくのだ。日本人としてエベレストに初登頂したとき、藤治郎は、「エベレストに初の『日の丸』、まず松浦、植村隊員」と一面トップで報じた五月十五日付の毎日新聞を持って、出石町の自分の生家まで走った。 「もう嬉しゅうて嬉しゅうて、一〇キロあるわしの実家に飛んで行きましたです。兄貴は田んぼに行っとった。今度はそこまで走りましてな、途中すれ違う人にも新聞を見せたりして、あんときのわしは気が狂ったみたいなもんだったですなあ」  藤治郎は、「世界に名を挙げてやる」といって外国へ飛び出して行った直己が、まさか「ほんとにこげになるとは」思わなかっただけに、その喜びが爆発したのだろう。  そして今、植村直己は世界初の五大陸最高峰登頂者となって、今度は南極への夢を賭けて、実家に帰ってきたのである。  西堀栄三郎が、植村にとって「故郷」の持つ意味をこう指摘している。 「幼少時、野山を奔放に駈けずり回った豊かな自然環境で、兄弟が多かったために過保護にならず、両親が働き者で細かい点までいちいち干渉されず、伸び伸びと育ったことによって、誰でもが大なり小なり持っている本来の人間らしさがスポイルされなかった。そして幸か不幸か、私学の明大に入って山岳部で鍛えられたことが彼の資質を引き出した。なぜなら、帝国大学(国立大学)の場合は与えられた知識、鋳型にはめられた探究心が多く、自ら求めるというハングリー精神に乏しいからである」  実家に二日間滞在した植村は、十月五日、 「そげなこと早くやめて、嫁でももろうてちゃんとしてくれんと親は安心できんで困ったもんや」  という母親・梅の�小言�に苦笑いし、心配する藤治郎や修たち家族の見送りを受けて、後半の国内踏破に出発した。  日高から山陰を抜けて、十二日には島根県の津和野《つわの》に入り、町中至るところ流れている清冽な堀川に泳ぐ鯉の優美な姿にしばし目を休める。ここは�山陰の小京都�と呼ばれる美しい城下町だ。二日後には下関《しものせき》へ。そこでは二年後に完成予定の関門《かんもん》大橋がダイナミックに建設されている最中だった。本州と九州を結ぶ全長一〇六八メートルという大動脈。総工費三百億円と聞いて植村は「その千分の一でもあれば南極へ行けるのになあ」と思わず嘆息した。  日本経済がダイナミックに工業化を推進している一方で、九州に渡り、筑豊《ちくほう》炭田の中心、穂波《ほなみ》町に入ると、一転して暗いボタ山の風景が植村の目を射た。斜陽産業として見捨てられた筑豊炭田一帯の町は、炭坑も閉山し、今や生活保護所帯が日本一多い地域となっていた。  熊本県|水俣《みなまた》市までくると、今度はチッソ水俣工場の吐き出す凄まじい臭気に、思わず顔を手でおおった。日本でも公害問題が深刻化したのは前年の一九七〇年からで、植村がこうして日本国中を縦断しているこの年、反公害の市民運動家ラルフ・ネーダーがアメリカから来日している。植村の心にあるのは一種の後ろめたさだった。 「日本中の人たちが毎日一生懸命に働き、真面目に生きているのに、おれだけがこんなことをやってていいのかなあ」  植村は走破の過程で、車で随走する安藤に夜合流したときなど、こうもらすことが多くなった。なんの生産をすることもなしに、ただ日本国中を北海道から鹿児島まで歩いている自分。あんぱんをかじったり、道端のあけびを口にしたりして極度の粗食に耐え、夜はバス停の小屋や駅の軒下、あるいは神社などに仮眠し、雨の日も風の日もただただ歩き続けるだけだ。たまに安藤に拾われて夜温泉場に泊まり、ゆっくり温泉につかるだけが唯一の楽しみであり、体力の回復と栄養の補給になっている。  安藤は、ひたすら南極へ賭けて歩き続ける植村の意思の強さに驚嘆し始めていた。 「稚内を出発した頃は、これで本当に三〇〇〇キロ歩けるのかなあ、と危ぶんだけど、その後ペースをつかんでからは、どんなに寒かろうと雨が降ろうと毎朝五時に起きて、夜九時まで歩く。一日平均六〇キロ、決めた予定地には必ずたどり着く。やっぱり凄い男だと見直しました」  十月二十日、午後二時少し前、植村はとうとう終点の鹿児島に到着した。派手に人に取り囲まれることの嫌いな植村は、メイン・ストリートを避けて、あまり人のいない西鹿児島駅を自らのゴールとした。稚内を出発してから五十二日目、正確にいうと日高町の実家で二日滞在したので、五十一日目で全行程三〇〇〇キロを踏破したことになる。  ゴールに着くと、思いがけなく花束を持ったミニスカートの美人が三名、植村を待っていた。 「おめでとうございます」 「ようこそ鹿児島へおいでたもんせ」  美人たちに祝福されて、植村は目をパチクリさせ、テレながら花束を受けた。むろん先回りした安藤が市の観光課に交渉して、ミス鹿児島、準ミスの三名の美人に花束を贈ってもらったのである。 「彼はものすごい恥ずかしがり屋だから、デレデレとテレちゃって、握手なんかしてましたよ。予定どおり三〇〇〇キロを踏破できたという満足感もあったと思います」  安藤があとで見た植村の足は、三足の靴をはき潰《つぶ》してなお足の裏がツルンツルンになっていた。植村には「やったあ」という大袈裟な感激はさしてなかった。これぐらいやって当然のこと、ブリザードの吹き荒れる南極はもっと厳しい極地の試練を重ねなければ入れないことを知っていた。南極への夢はまだ第一歩を踏み出したばかりだ。 [#改ページ]   第三章 「ジャパニ・エスキモー」極北を駆ける   1 極北の村 シオラパルク  世界地図上の空白部、現在デンマーク領のグリーンランドは、日本の約六倍の面積を持つが、名前とはうって変わり、その大部分が北極圏に属し、緑の島どころか白夜と氷床と岩に象徴される荒涼としたエスキモーの国である。全島の八三パーセントは大陸氷におおわれている。氷河によって無数のフィヨルドと島々が作られ、内陸の氷床は厚さ三〇〇〇メートルにも達する。  そのグリーンランド最北端に近いチューレ地区のシオラパルクという村があり、そこに今も昔ながらの伝統に生きる純粋のエスキモーが住んでいる。シオラパルクは北緯七七度四七分、西経七〇度四六分、北極点までわずか一三〇〇キロ、いわば地球上で人類が生存する世界最北のエスキモーの村なのである。  日本テレビディレクターの岩下莞爾とカメラマンの中村進は、一九八五年の春、このシオラパルクを訪れた。現在の世帯数は十九戸。人口五十六人、犬二百余頭。背後は小高い山につつまれ、前が海に面したこの村に、大島育雄という一人の「ジャパニ・エスキモー」が現地の女性、アンナ・マノミーナと結婚して狩猟生活を送っている。岩下にとって十一年ぶりに再訪した思い出の村だ。  岩下は一九七四年(昭和四十九年)、この大島を通訳に、五月女次男、木村静雄のスタッフと、カウンナ、カーリー、コルチャングア、プツダという屈強のエスキモーとともに五台の犬橇に分乗し、グリーンランドのシオラパルクからカナダ領エルズミア島のグリスフィヨルドまでざっと氷上一二〇〇キロ、「古代エスキモー・ロード」踏破という大冒険を敢行したことがあった。 「酷寒なんていう生やさしいもんじゃない。氷点下三五度ぐらいでは、それが暖いと感じる世界なんです。地吹雪が竜巻《たつまき》のように下から突き上げ、顔に雪の矢が突き刺さって息もできない。北極海の乱氷の上を犬橇で踏破するのは苛酷きわまりないものでした。この僕らより一年前に、単独で三〇〇〇キロ走った男がいるんですから、やっぱり凄いですよ」  岩下は、村の元老、イヌートソア・ウッドガヤ(78歳)とその妻ナトック(74歳)を訪ねて、一九七二年九月、植村直己が初めてシオラパルクに入ってきたときの様子を聞いてみた。補聴器はつけているが、大きな声でイヌートソアは、大島の通訳でこう�息子�を懐しんだ。 「ナオミが補給船でカナックへ初めてやって来たとき、誰もみんな気にしなかった。顔、形がそっくりだからね。南のほうのエスキモー、グリーンランドのほうの労務者が来たと思った。ところが話をしてみると、さっぱり通じない。酔っ払っているのかなとも思ったよ。わしだけが、単語を並べるくらいだけど、ちょっと英語を知っていたので、試しに使ってみたらやっと通じた。それがナオミで、日本人でこの村に来た最初の男だった」  そのかたわらでナトックが涙ぐんだ。 「ナオミは親切でとってもやさしかった。わしたちは今でも忘れない」  植村直己は一九七二年(昭和四十七年)九月四日、三十一歳のとき、年に一回、デンマーク政府が夏の氷の解ける時期を選んでチューレ地区に出す物資補給船に乗って、シオラパルクにやって来た。船は、石炭、石油、食料、衣料、狩猟道具など、チューレ地区に住むエスキモーたちの生活必需品を満載して入り、帰りにエスキモーのとったアザラシや北極キツネなどの毛皮を本国に持ち帰る。補給船といっても、ポンポンと音をたてて走る小さな焼玉船《やきだません》だった。  植村が湯川たちと相談してシオラパルクを選んだのは、いうまでもなく南極大陸横断という夢の可能性を確かめるためだ。この部落は南極の昭和基地よりも極点に近い。目的の第一は犬橇の習熟にあったが、氷点下何十度という極地気候への順化という意味もあった。  植村は行動そのものを見ると無鉄砲のように映るが、その実、臆病とも思えるほど慎重な男で、その性格はこの後も終始一貫して変わらない。シオラパルクに入る前に、グリーンランド東海岸のアンマサリックを視察したのもそのあらわれだし、第一、四日に来たのも、実際の生活に入る前に自分の目でシオラパルクを確かめておきたかったからである。  エスキモーが、顔かたちや黒い髪、黄色い肌など日本人そっくりなのに、まず驚かされた。背も一六〇センチくらいで、植村とさして変わらない。ネパールのシェルパ族もそうだったが、植村はものすごく親近感を覚えた。シオラパルクの村人たちも、自分たちとそっくりの遠い国から来た異邦人を、心温かく迎え入れてくれた。植村の人間性もあるが、彼ら自身も、同じ顔かたちの�同胞�と思ったのかもしれない。イヌートソアの言葉にもそれがうかがわれる。 「カットナ(白人)は我々を平気でだます。わしは若い頃、カットナの遠征隊に何度も加わったことがあるが、連中はろくに犬橇も走らせることができないくせに、威張《いば》り散らしおった。要するにカットナは、我々を汚ないところに住んでいる未開民族だと馬鹿にしているのだ。ところが日本人は、顔かたちが我々と似ているだけでなく、どんどん生活にとけこんでくるし、言葉も覚えていく。一緒に生活して、ともに喜び、ともに笑い、ともに嘆き悲しむ。エスキモーとジャパニはみんな仲間だ」  しかし、顔かたちは似ていても、風俗や習慣、食生活や生活様式がまるで異なる。植村は最初、強烈なカルチャー・ショックを受けた。エスキモーの家に案内された植村は、思わずドキリとした。十畳ほどの板敷きの部屋に入ると、血の臭いがした。黒い血に染まった肉塊が、天井からぶら下がっている。 「ジャパニ、肉を食べなさい!」  カシンガというエスキモーがニコニコしながら勧める。あとについて来た子供たちが、興味深そうに植村を見つめている。カシンガはナイフで、天井から血をしたたらせている肉の塊を切りとって、ニチャニチャと音をたてて食べた。植村にも、うまいから食え、という。ここで拒絶したら彼らの歓迎を踏みにじることになる。とても一緒の生活など受け入れてもらえまい、植村は腹をくくった。切りとった肉はヌルヌルして不気味だった。なんの肉かさえわからない。ここが正念場《しようねんば》だ。 〈私は恐る恐る肉片を口元へ運び、唇に肉片が触れないように前歯でおさえてからナイフで小さく切りこみをいれた。生臭さがプーンと鼻をつく。ところが生肉が唇に触れただけで、私の胃はたちまち絶対拒否の反応をおこした。肉がまだ口のなかにあるというのに、胃は痙攣《けいれん》をおこし、胃液がドッと逆流してきたのだ(文献11)〉  それをグッと飲みこみ、植村は心で泣きながら、いかにもうまいという顔でニッと笑った。彼らも満足そうな笑顔を浮かべた。植村を仲間だと思ったのだろう。  この偵察行で、なんとか受け入れてもらえるメドがついた植村は、一週間後の十一日、本格的にシオラパルクに入った。いよいよ一年近い越冬生活が始まる。イガーパルという老人の家に三日間世話になったが、第二のショックはトイレだった。  家の中がなんともいえない悪臭がする。ストーブの横にぶら下がっている生肉の臭いかなと思った。寝る前、イガーパル老人が突然入口近くに置いてあったバケツに、凄まじい音をさせて小便を始めた。大便もそこでする。エスキモーの家にはトイレがない。どの家でもバケツを置き、便器にしている。家のプーンと鼻をつく悪臭は、この糞尿の臭いだった。客がいようと平気で、エスキモーの娘たちも尻をまくり、音をたてて排泄をする。外は氷点下の世界、エスキモーの生活の知恵であろうが、植村もこれにはさすがに度肝を抜かれた。植村がみんなの前で、堂々と大便をすることができるまでには半月かかった。  植村はやがて一軒の廃屋を見つけて、そこに移り住む。オンボロ小屋だったが、修理するとなんとか家の体裁をなしてきた。子供たちが、補給品の空き箱などを集めてきて、修理に協力してくれた。窓は日本から持参したビニールを二重、三重にして風を避けた。暖房は山用の石油コンロ。夜は羽毛服を着てシェラフにもぐりこみ、寒さに震えながら寝た。  エスキモー語の先生は子供たちだった。アグー(男)、アンナ(女)、アダダ(父親)、アナナ(母親)という単語から、イッキャンナット(寒い)、オコット(暖かい)という気候に関係ある言葉、グエナソア(ありがとう)、ハイナフナイ(ご機嫌いかがですか)、フナフナ(これはなんだい?)といった生活に必要な言葉もすぐ覚えていった。  アザラシ、鯨などの生肉にもなれた。鯨はエスキモーの食料の中でも最高の高級食の一つで、とれたばかりの鯨などは、顔中と手を血だらけにして食べる。そのさまは壮絶だった。食料の大部分が凍った生肉のせいか、エスキモーたちは猫舌で、熱いものは食べられない。かといって生肉ばかりかというとそうではなく、セイウチのとれたては「髪の毛が抜ける」といって、生肉は絶対口にしない。彼らはカラス、北極ギツネなども食べない。植村がサメを塩漬けにして食べたら、エスキモーたちが目をむいてびっくりしていた。  植村の目的はまず犬橇を習熟することだ。十月に入ってから犬橇用の鞭《むち》の練習を始めた。鞭はヒゲアザラシの皮を螺旋《らせん》状に巻いて作る。全長八メートルの鞭一本で犬橇を自由に操る。たかが鞭一本とナメていたら、とんでもないシッペ返しがきた。振り下ろした鞭は目標物にあたらず、うなりをあげて舞い戻って顔を逆襲し、目から火花が飛び散った。それを見て、子供たちが笑いころげた。 「ナオミ、エパウタ、アヨッポ(ナオミは鞭が下手くそだ)」  発奮して一日五百回も練習したが、一ヵ月たっても顔にミミズばれが絶えたことがなかった。  狩猟民族にとって、射撃の技術は生活に直結する。獲物をとることができなければ餓死するしかない。ライフルの撃ち方は、シオラパルク一の狩りの名人といわれるカーリーが教えてくれたが、根が無器用な植村は少しも上達しない。黒ずんだ海面からポツンと鼻を出しただけのアザラシを発見し、それを一発で射止めるカーリーの名人芸に、植村はただ嘆息するのみだった。カーリーは三十二歳の若者で、植村とほぼ同年輩のせいか気が合い、徐々に犬橇も教えてくれるようになった。  植村は「ジャパニ・エスキモー」と親しまれるようになったが、目的の達成ははるか彼方《かなた》にあった。エスキモーたちが何十世紀にもわたって身につけてきた生活技術を、たかだか一、二ヵ月で覚えようとすること自体が無理な話である。植村はひたすら訓練をわが身に課すしかない。  十月二十日を境にして、太陽が沈んでしまった。エスキモーの言葉で、「一年」のことをウキヨという。「冬」もウキヨ。それほど極地の冬は長く厳しい。十月下旬から翌年の二月下旬まで四ヵ月は、太陽の昇らない暗黒の世界と化す。植村は漫然と手をこまねいているわけにはいかない。念願の犬を買い、橇を組み立て、初めて犬橇のオーナーとなった。当然、訓練も熱をおびてくる。  植村は、この頃の生活ぶりを佐藤久一朗に克明に報告している。少し長いが未公開の一文を紹介しよう。  9月中旬にグリーンランド最北の部落、シオラパルク(北緯79)に入り、まだ氷のこないフィヨルドの入込んだ海岸で、氷山とアザラシを見ながらエスキモー人と生活。そのフィヨルドも今は大氷原と化し、氷原の中にピナクル氷塔が立っています。10月中|場《ママ》から太陽が消え氷化した海は今では犬橇が唯一の交通機関です。私も11月始め5頭の犬を買い、日本から持ち込んだ橇を11月中旬より始め、12月には犬を更に9頭に増し、太陽のない24時間の星空と月の下でシオラパルクを中心に現在まで1000余�犬橇を行いました。12月末今年中に南極横断の半分の距離1500�を目標に毎日犬と共にグリーンランド北西海岸 沿岸氷の上をひとり犬橇をとばしまわって|を《ママ》ります。  12月に入り気温は一段と低くなり、11月-15℃平均から-25〜-30℃の常時気温になり、真夜中の暗中模索の運行は極地の気候に慣れない私にとって少し厳しいものであります。しかし来年の2月中|場《ママ》太陽が帰ってきたら、更に旅の行程をのばすスケジュールを立て、シオラパルクより南西部グリーンランドのウパナピックの町まで片道800�—1000�の犬橇旅、3月末か4月にはシオラパルクよりカナダ島の海峡を抜け北極海をのぞきに1000余�の橇旅を計画しています故、その旅をやるには太陽が帰るまで冬の間に3000�日本縦断以上の犬橇旅の経験を積んで|を《ママ》かなければならないと自分なりにもくろみ、極地の寒風にとけ込んでいるところです。今のところ冬の夜、家にとじこもり家人やエスキモー娘と語り合う暇など全くありません。  この極地では氷上の生活で日本から持ち込んだナイロン衣類など全く役に立たず、現地人の着用している毛皮で身を包んで|を《ママ》ります。毛のセーターの上にカリブーの厚い毛のアノラックに白熊の半ズボンにアザラシとカリブーのカミック(長靴)を履き、手袋は毛糸の上にカリブーの毛皮手袋のスタイル、少しナイロンに比べると重く活動性がないのですが、-30℃の温度にも充分寒さを防げる防寒衣です。低い温度の24時間の氷の上の行動に身体を温めるもう一ツの理由は常に肉類を食べ中からも保温、空腹のときなどきまって足の先がチクチク凍傷を思わせる痛みを感じさせるものです。  犬の食料は総てセイウチ、アザラシの凍肉で寒中に犬と共にそれを切って喰い、氷を食べているような感じの凍肉ですが食べたあと身体がホテッテくるのが目にみえてわかります。9頭のわが犬達は唯一の家族となりました。人間ばかり1日何度も肉を口にし、犬には2回に1度の割で餌をやる習慣は少し可愛想でしたが今ではためらうこともなくなりました。犬をうまく操る秘訣はなんと言っても鞭、10m近く長いアザラシ皮のムチは10月以来毎日練習していたにもかかわらず中々うまく振りまわせません。特に今は暗いランプのもとで先の見えない中の鞭ふりにハクハク(左)、アチョアチョ(右)と振るのですがうまく思うところに飛ばず、怠け犬などに強く振るとモロに自分の顔にシッペ返しを喰い顔にアザをつくったり、その痛みは耐えられない程です。頭にきて日本語をどなりちらし、さては橇から飛び降りて犬の尻を棒で叩くと犬は大暴走。  5月末の終了までに7000�から出来れば1万�を走って完璧に犬をこなせる様にしたいと思って|を《ママ》ります。犬の技術が南極の成否を大きく左右することをさとりました。氷上をつっ走る犬橇の味、それは1日75�走れど誰一人会|は《ママ》ない海氷の大自然の中、9頭の犬と共に橇を走らす気分、私だけで独りじめするのが勿体《もつたい》ない感じ、先生にも一度味ってもらいたいと思う程、北極星と北斗七星の真下で快音をたてて走る醍醐味《だいごみ》、橇の上に敷いたカリブーの毛皮の上に腰かけ乗り心地は悪いが、それは東京の人の見守る中で自家用のロールスロイスでも運転している感じでしょうか。このグリーンランドと言|は《ママ》なくとも、せめて北海道でも犬をかり集め私の運転する橇に先生を乗せてあげたい感じです。  若い世代の毎日を放浪し遊びに明け暮れ、イソップ物語のキリギリスと蟻の話ではないですが、今日ある身、明日の生活はどうなるか判らない狭い橋を渡っている私には先生のような長寿は考えられませんが、せめて短い明日の身の保証のない中にも——いつまでも燃えつづける魂を持ちたいと強く念願しています。  南極の夢も夢から脱皮することは果して可能か今の私には全く判りません。先生の意気込みでぶち当り勝ち抜く道をつかみ出さねばなりません。心で思い決心をし、口に出したまでは簡単なことでありましたが、この計画を推し進めるに従い深入りすればする程、ことの重大さと難しさが判ってきました。だがそれに甘え後にさがれない現在前進あるのみ。私の意志もどこまで持ち耐えるか、これは辛じて先生方まわりの方々の力によって持ちこたえていると言った付和雷同《ふわらいどう》の弱い意志です。何時どこで挫折するか判らない私にどんなことが起《ママ》うともお許し下さい、犬橇の最中太陽が帰ってくる頃までには又犬橇旅の便りが出来ると思います。小西さんに犬橇に励んでいることを伝えて下さい。又槇先生には元気でたのしくやっていることを申し上げて下さい。そして藤井運平さんたちにもよろしくお伝え下さい。  追伸 田舎のおやじに便りを出して下さった由、両親に代ってお礼申し上げます。  植村がシオラパルクから十二月十四日に出したこの手紙は、アメリカ空軍のチューレ基地を経由して、翌一九七三年一月二十三日に佐藤久一朗のもとへ届いた。佐藤はこの手紙をきれいに原文のまま清書し、他の幾多の手紙と一緒に宝もののように大切に保存していた。  厳寒の極北の村で、南極横断の大いなる夢を一人胸に秘めて、困難な犬橇の訓練に励む植村の孤独な心情が、胸が切なくなるような感動とともに伝わってくる。明日の命の保証がないことを自覚しつつ、いつまでも「燃えつづける魂」を持ちたいと願う冒険家の熱い魂。そして慈父のように慕う佐藤への思いやり……。  植村はエベレスト登頂に成功した一九七〇年の夏、佐藤久一朗の古希の祝いに、小西政継と一緒にエスコートして、三人でアイガー(三九七〇メートル)の東山稜に登ったことがあった。ナイフのように鋭い東山稜は、佐藤が尊敬する慶大山岳部の先輩でマナスル隊長をつとめた槇有恒が一九二二年(大正十一年)、世界で初めて登攀したルートで、佐藤はそのルートを登ることを終生の夢としていた。植村と小西は、佐藤の夢の実現に同行し、佐藤は十一時間のロッククライミングに苦闘したあと、ついに悲願の頂上に立ったのだった。  植村はさらにシオラパルクに入る直前、今度は七十二歳になった佐藤とモンブラン(四八〇七メートル)とマッターホーン(四四七六メートル)に登頂。佐藤は七十歳をすぎてから、アルプス三大峰の頂上をきわめるという快挙を登山史の上に記録した。  佐藤夫妻は、植村を�わが子�のように可愛がっていた。佐藤は戦争後、中国から引き揚げるとき混乱の中で一人娘を失くしている。妻の孝子は「娘がもう一人いたら、植村さんに嫁がせたのにねえ」と、その当時、夫の久一朗とよく話したものだ。佐藤夫妻と植村は深い絆で結ばれていた。  シオラパルクで極北の生活にとけこもうと必死で努力する植村の姿は、村長のイヌートソアの目にも好ましく映ったようだ。イヌートソアは小柄だががっしりした体格のエスキモーで、若い頃に政府機関に勤めたり、各国の極地遠征隊のガイドとして働いた経験を持つだけに、エスキモーきってのインテリジェンスのある男で、村人たちからも信頼されているが、妻のナトックとの間に子供がいなかった。  十月のある日、イヌートソアが突然こう切り出したので、植村はびっくりした。 「ナオミ、わしたちはおまえが好きだ。わしたちの養子になってくれないか」 「えッ、養子に?」  植村は信じられなかった。まだシオラパルクに入って一ヵ月ちょっとしか経っていないし、第一おれはよそものだ。日本人の感覚からすれば、養子縁組をするのはいろいろな思惑がからんで大変なことだ。但馬の田舎育ちの植村にはなおさらだった。それに自分はいつまでもここに定住できる人間ではない。植村は、イヌートソアの申し出を断わるのに苦慮した。 「申し出はとてもうれしいけど、おれは日本人でエスキモーではない。日本には両親もいる。それにここにいつまでいられるかわからない。ありがたいけど、養子の話はとても受けられない」  イヌートソアが、そんなことはなんでもないことだ、といった。 「ナオミ、おまえがなにか目的を持っていることはわしにはわかっている。おまえは確かにいつかこの村を出ていくだろう。悲しいけど、わしたちはそれを止めることはできない。狩人の心は狩人にはわかるものだ。それでもいいではないか。ここにいる間は親子として一緒に暮らせばいいのだ」  植村は、イヌートソアの大きな愛につつまれて、自分の考えがいかに日本的なものから一歩も踏み出していないかを思い知らされた。エスキモーの社会では、私生児はみんなで面倒を見るし、養子縁組もさほど大袈裟《おおげさ》なことではなかった。これ以上拒めば、イヌートソアの愛情に背《そむ》くことになる。植村は申し出を受けることにした。  養子縁組の儀式はごく簡単で、イヌートソアとナトックの養父母と植村の三人が両手を出し、それを重ねるだけ、それで終わりだ。植村は、イヌートソアを「アダダ」(お父さん)、ナトックを「アナナ」(お母さん)と呼ぶことになった。この養父母が、犬橇の冒険旅行にやがて出ていく植村の大きな支えになってくれるのである。   2 「ジャパニ・エスキモー」誕生  エスキモーといえば、「妻貸し」の風習とか特異な性風俗が好奇な目で歪曲されて伝わっている部分が多分にある。確かに植村の目にも、エスキモーたちのセックスは開放的なものに映った。親たちは性の営みを別に隠そうとしないから、子供たちも早熟で、植村のところに集まる若者たちの話はセックスの話題ばかりである。  彼らには入浴、洗顔、歯磨きなどの習慣がほとんどない。だから大人《おとな》が素肌を見せることはまずない。しかし植村がある日、集落の男たちとセイウチ狩りに出かけ、全身血まみれになったので、その不快さに耐えきれず、小屋の戸を閉ざして素っ裸になり、体をふいているときだった。いつの間にかやってきた子供たちが戸の隙《す》き間からのぞきこんで、はやしたてた。 「ナオミ、オヒョー、アゲショ(ナオミ、大きなオチンチンしている)」  隣りのコルティヤンガとイミーナもニヤニヤと笑っていた。  エスキモーにはもともと酒の文化はなかった。酷寒の地では酒を醗酵《はつこう》させることができないからだ。したがって今も酒は配給制だが、酒が入ると、エスキモーたちのセックスはさらに大胆になる。植村は、酔っ払ったマサウナというエスキモーから、 「ナオミ、おれの女房を抱かせてやろうか」  といわれ、実際にその妻のオーロッキャから追いかけられて閉口《へいこう》したことがあった。  エスキモーほど自由な生活を送っている民族はいない、と植村は、その都度《つど》彼らの生活ぶりに驚かされる。起きたいときに起き、寝たければ一日でも寝ている。食糧がなくなれば猟に出るし、気が向かなければ出ない。一日三度の食事の時間などは決まっていず、いつもポケットに砥石《といし》とナイフを持っていて、天井からぶら下がっている肉を好きなときに好きなだけ食べる。自分の家に肉がなくなれば、隣りの家に入って肉にくらいつく。相手も文句をいわない。そしてセックスもしたいときにする。実に開放的である。 〈部落のあるエスキモーの家を訪問したときのことだ。ひょいと家のなかをのぞきこむと、夫婦がベッドにはいっていたので、あわてて飛び出したが、次の日いってみると、こんどはちがう男がベッドのなかにいる。文献では妻貸しの風習があったと伝えられているが、エスキモーの間では、既婚、未婚をとわず、セックスはかなり開放的であるように見える。少なくともわれわれ日本人を支配している性意識とはまったく別なものが、ここにはあるようだ(文献11)〉  私生児が多いのもそのためだが、しかし、歴史的に見れば、これは極北に生きるエスキモーたちの生きのびるための民族の知恵であった。エスキモー社会は親族(親類)を中心に組織されていて、親族以外は原則として敵とみなされていた。したがって親類のいる村から離れて狩猟や交易に出かけることはつねに危険がつきまとう。そのために「擬」親族をこしらえた。「擬」親族というのは、血族でも姻族でもないが、エスキモーたちにとっては他の親族たちとなんらの違いがない。このような「擬」親族をどうやって作るか。妻貸しの習慣がなぜ生まれたか、スチュアート・ヘンリ(早大文学部考古学資料室)はこう述べている。 〈いくつかの方法はあるが、特定なパトナー関係になるのはもっとも一般的であった。そしてパトナー関係を確立するにあたって、相手の妻と一夜をすごして�契《ちぎり》�を固めたのである。一度枕をともにした男女の関係は一生解消されることもなく、女の親戚は男の親戚になるし、その逆でもあった。当事者は互いに助け合う社会的な義務が生じて、子供ができた場合には、その子供を養育した。お互いの配偶者は嫉妬したり、恨んだりしなかった(文献12)〉  つまり、妻貸しの風習は、一見奇習に映るが、彼らエスキモーたちにとっては、エスキモー社会を支える重要な制度であり、夫が一方的に妻を貸したのではなく、相互の了解のうえでなされていたことであった。むろん今はない。セックスが開放的なことは変わりはないが、植村はベースキャンプともいえるシオラパルクでは、男女のトラブルを起こしたくはなかった。 「ドクターからオチンチンを使うことを禁じられているんだ」  というのが植村の考え出した断わり方だった。ここでは犬橇の訓練、鞭の使い方、射撃で獲物をとる練習などやることがいっぱいあった。それらをマスターしなければ一歩も踏み出せないのだ。  植村の三ヵ月後にシオラパルクに入った大島育雄は、アンナというエスキモー娘と正式に結婚したし、植村のあと一九七六年一月から翌七七年三月までシオラパルクにほぼ一年間住みこみ、『エスキモーの四季』を記録したカメラマンの中村進もこう話す。 「シオラパルクに入ったのは三十歳のときでしたけど、とても遊ぶような雰囲気じゃないですよ。人口は老人、子供を入れて五十七人しかいないし、若い夫婦は七世帯だけ。彼らは根っからの狩猟民族で、厳しい世界で夫婦が協力し合いながら精一杯生きている。人の女房に手を出そうものなら、一発で殺されちゃいますよ。もっとも隣りのカナックは四百人もいて、若い子もいるから事情は少し違う。しかしそれだって昔のような習慣ではなく、ヨーロッパ、東京と同じで、現代の若い人たちのフリーセックスと同じですよ」  植村と大島、中村が、やがて一九七八年に北極点を目指す壮絶なライバルとなろうとは、彼らはまだ知る由もない。  植村が組み立てた犬橇は、日大隊が一九六八年にグリーンランド横断を成功させたときに使用した橇を改良したものだった。グリーンランドの極地に挑んだのは植村が初めてではない。一九六八年、池田錦重の率いる日大隊は、東グリーンランドのアンマサリック地区のクンミュートからフォーレル峰(三三六〇メートル)山麓を経由し、西海岸のヤコブスハウンまで直線距離にして八五〇キロをスキーと橇で横断することに成功した。隊員は先発隊として乗りこんだ五月女次男ら三名を含め、多和田忠ら総勢十名で、その中には最年少二十二歳になったばかりの中村進も犬橇隊の一員として参加していた。  このグリーンランド横断は、一八八八年にノルウェーのナンセンが初めて徒歩で成功して以来、一九六五年にイギリスのシンプソン夫妻が幅六〇〇キロの距離を横断、それに続く三度目の快挙で、むろん日本隊としては初めてである。  植村は、第一期の目標である犬橇の訓練走行距離を徐々に伸ばして少しずつ自信をつけていった。そして翌一九七三年の一月三日、第二期の目標である食料確保の手段をマスターするために、大島育雄とオヒョウ釣りの旅に出発することになった。オヒョウはカレイに似た魚で、厚さ一メートル以上もある氷に穴をあけて釣る。目的地はシオラパルクから一一〇キロほど離れたカギャッタソア・フィヨルドで、カナックからは四〇キロである。  植村はカナックまではすでに走ったことがあるが、目的地までの四〇キロは初めてのコースだ。激しい乱氷群に悪戦苦闘し、橇が何度も横転した。しかし長期の犬橇旅行を敢行する場合、途中で万一食料がなくなったときのことを考えると、オヒョウ釣りは生きのびるために絶対必要なサバイバル術の一つである。  三日目にやっと目的地に着いた。オヒョウのエサはタラの切り身を使う。穴をあけた氷の下、深度四〇〇〜五〇〇メートルまで釣り糸を垂らす。三時間かかってやっと一匹釣れた。灰黒色をした五〇センチほどのオヒョウは、氷の上で二、三回口をパクパク苦しそうにもがいたかと思うと、そのまま冷凍魚になった。氷点下三五度の世界である。  このときの釣果《ちようか》は三日間で二十三匹。初めてのオヒョウ釣りにしてはまずまずの成果だった。最後の夜、植村は初めてオーロラを見た。極点に近いせいか、オーロラには色がなく、白い帯状の雲がたなびくように、サーチライトをあびたように揺れ動く。神秘的な感動につつまれ、植村も大島も身動きができなかった。  大島はすっかり極北の世界に魅せられ、今もシオラパルクに住んでいるが、彼はエスキモーの世界が自分に合っているという。 「日大紛争のときに大学にいたんですが、自分を見失ってなにをやっていいかわからなかった。会社に一年勤めたけど、決まった時間に決まったところにいて、決まったことをやるのがはなはだ辛いわけですよ。頭を押さえられるのがたまらなかった。日大山岳部にいた関係で、グリーンランドにたまたま来るチャンスがあって、偶然来たのがここなわけです。ここの良さは自分が親分で、誰にも命令されるわけじゃない。全くの自由です。その代わり自分自身に対して厳しくなければ生きてはいけない。家族に対する責任もありますからね。でも幸いにして、自分にあった場所を発見したような気がします」  大島は今では村人から「ビニヤット・アユンギラ(最高の猟師)」と呼ばれている。  大島はシオラパルクに定住したが、植村には見果てぬ南極への夢がある。シオラパルクに入ったのはあくまでも極地順化と犬橇をマスターするためだ。そのためには、北海道から鹿児島まで歩いて南極大陸横断の三〇〇〇キロを肌身で実感したように、今度は犬橇で三〇〇〇キロを走破してみなければならない。  大島とのオヒョウ釣りのあと、二月四日、植村はシオラパルク—ウパナピック間の往復三〇〇〇キロを単独で犬橇の旅をすることになった。そのとき養父母はカナックに行っていた。まずカナックまで走り、両親に計画を話すと、養母のナトックが泣いて止めた。 「ナオミ、アヨンナット(ナオミ、それは危険だ)」  ナトック母さんが、エスキモーでもそんなことをする人はいない、と危険を訴えた。 「ナオミが一人で行ったら死んでしまう。わしたちのために中止しておくれ」  養父のイヌートソアが、そんな妻を制した。 「わしたちの息子が自分で決めたことだ。ナオミは行くだろう。わしには犬を一頭譲ってやることしかできない。だがわが息子よ、今年は氷が悪く、アットール岬付近はとくに乱氷がすごいということだ。危険だと思ったら、すぐ戻ってくるんだよ」  植村は心が熱くなって、ただ黙ってうなずいた。  二月十四日、氷点下四四度。植村は十二頭の犬でカナックを出発した。四時間ほど走ると、すぐイッドルサック氷河にぶつかった。約一〇キロの登りと一五キロの下りで、急なところでは三五度もある。もし途中で犬が足でも滑らせたら、そのまま一〇〇〇メートルは滑落してしまう。  犬たちが斜面をつるつる滑りながらも必死で三〇〇キロ以上もある橇を引っ張る。エスキモー犬は、飼い主に対しては絶対服従で鞭さばきに耐える。吠えたり、甘えたりはしない。人間に少しでも反抗したら、たちまち殺されて食べられてしまうことを知っているからだ。エスキモーにとって、犬は労働犬以外のなにものでもない。日本のように愛玩犬として甘えさせるのとは訳が違う。厳しい風土が生み出した人間と犬の関係だった。  この難場をやっと切り抜けると、今度は平坦な海氷の上を走った。十五日、四ヵ月ぶりに太陽が戻ってきた。フィヨルドの入口の水平線から真紅の太陽が昇ってきたとき、植村は思わず「バンザイ」と叫んだ。暗黒の世界を走るのと明るい太陽の下を走るのとでは雲泥の差だ。危険も察知できる。犬たちも元気になった。  カナックを出て四日目の十八日、チューレ地区に着いた。ここにはアメリカ空軍の基地がある。一九五四年に建設されたチューレ基地は北部地域唯一の文明地帯で、ここには世界最大といわれるマイクロ・ウエーブが三つあり、一つはソ連に、一つはアラスカに、そしてもう一つはアメリカ本土に向けて立っている。一九六二年(昭和三十七年)のキューバ危機のとき、チューレ基地の軍隊は、グリーンランド総人口の三倍にあたる一万二千名にまでふくれ上がり、完全な出動態勢にあったという。ちなみに一九六二年は、堀江謙一がヨットで太平洋単独横断に成功した年であった。  基地留めで、植村宛の私信が何通か届いていた。その中に佐藤久一朗から届いた激励の手紙が入っていた。植村は押しいただくようにして佐藤の手紙を読んだ。佐藤夫妻の温情がジーンと胸に伝わってきた。どうしてもこの犬橇旅を成功させなければならない、全てはこれからだ、と植村は改めて心に誓った。  再び孤独な旅が始まる。相変わらず氷点下四〇度の世界が目の前に広がっている。サビシビックに入る手前で、岬の岩山に立っているロバート・ペアリーの銅像を見つけた。ペアリーは北極圏探検の先駆者で、植村は五年後の一九七八年、ペアリーの偉業とその困難を身をもって体験することになるのだ。  旅はシオラパルクから西海岸沿いに南下して走っている。夜はテントや、海岸線に点在するエスキモーの集落に泊めてもらった。どこでも温かく歓迎してくれる。二十四日にサビシビックに入ったときは、誰も植村が日本人だとは信じなかった。どこでも決まってこんな会話が交わされる。 「グッダー(初めまして)」 「グッダー」 「ワガ、チキッポ、シオラパルク(シオラパルクから来た)」  植村はもう日常のエスキモー語には不自由しない。しかし話しているうちに、相手はやはりどことなくエスキモーとは違うことをかぎつける。 「イッテ、カナダミ?(おまえはカナダ人か)」 「ワガ、ジャパニミ(いや、日本人だ)」  とたんに怪訝《けげん》そうな顔をする。地球儀も世界地図もない氷の世界から一歩も外に出ることなく生きているエスキモーたちに、日本がどこにあるか、なぜシオラパルクに来たかを説明するのは至難の技だった。それでも彼らは、単独で犬橇を走らせ、シオラパルクからここまで来たことを知ると、一様に感嘆の声をあげて大歓迎してくれた。  サビシビックのエスキモーの家ではキビアックを出してくれた。これは夏に獲れるアッパリアスという、日本のモズくらいの大きさの鳥をアザラシの皮に詰め、岩場で自然醗酵させた珍味で、ブルーチーズのような強烈な匂いがするが、一度その味を知ったらやみつきになる。中村が話す。 「実際になんともいえない味でね、アッパリアスの肛門から中身を吸うんだけど、ツーンと鼻をつくような独特な匂いはするが、肉、内臓、脳ミソがトロトロにとけてものすごくうまい。中でも皮が脂がのっていていちばんうまい。もう口のまわりを黒い血でギトギトにして食うんです。あの味は一生忘れられませんね」  サビシビックを出たのが二月二十六日。ブリザード(地吹雪)が吹き荒れ、強風が行動を阻む。犬たちは顔を真っ白に凍らせて、悪戦苦闘していた。 「ヤーヤー(行け!)、コッホア(早く走れ!)」  植村は鞭を振り下ろし、「ハクハク(左へ回れ)」とか「アッチョアッチョ(右へ回れ)」とか、必死で犬たちを叱咤激励《しつたげきれい》する。鞭を持つ手も全く感覚がない。冷えきった手をズボンの中に入れて睾丸をにぎる。飛び上がるほど冷たいが、数分そうして我慢していると、少し手が温まる。そしてまた鞭をふりかざすのだった。  排泄も命がけである。とにかく限界まで我慢して、風下《かざしも》に向かってパッとやる。十秒で終えないと危い。裸の尻をそれ以上さらせばたちまち凍傷になる。氷点下四〇度の中で排泄するのは毎度のことながら辛い仕事だった。  ウパナビックを目前にして、植村は最大のピンチに見舞われた。三月十三日、寒暖計を見ると氷点下わずか一七度。信じられないくらい気温が高い。海氷上を走っているとき、先頭の犬が突然ガクンと雪の中に沈んだ。雪の下で海が口をポッカリとあけていたのだ。植村は一瞬、背筋が凍った。海水がゴボゴボと不気味な音をたててわき上がってくる。橇が沈む。もう方向を変えることはできない。ここで逡巡していればそのまま海の底に引きずりこまれるだけだ。幸い一五メートル先に堅い雪が見える。 「コッホア、コッホア(早く走れ!)」  植村は、死の恐怖に襲われながら後ろから必死で犬たちを追いたてた。犬たちは腹まで海水につかり、苦しそうにあえぐ。一瞬の停滞が命とりだ。もう泳いで渡るしかない、と悲愴な覚悟を決めたとき、先頭の犬がようやく堅い雪に足をかけた。ソレッ、もう一息だ、植村は祈った。九死に一生を得た植村も犬たちも、雪の上でグッタリとして動けなかった。  それだけに三月二十一日午後二時すぎ、目的地のウパナピックの町が見えてきたときは、こ躍りするほどうれしかった。シオラパルクを出発してから四十六日目、植村はまず片道約一五〇〇キロの犬橇旅行を独力で成功させることができたのだ。  ウパナビックはカナックよりもずっと大きい。町には自動車も走っている。最終目的のウパナビックにとうとう着いた。植村は涙を押さえることができなかった。このうれしさを早く知らせたい。植村は町に入る前に橇の上で六通ばかりの手紙を書いた。そのまま郵便局に投函するためだ。植村は佐藤久一朗宛にこう書いた。 「2月4日(1973)、シオラパルクを出発して北西グリーンランド沿岸を氷の犬橇旅、独り12頭の犬と共に無事今日3月21日ウパナピックに到着、片道1300〜1400�の旅を終ります。北部地域と南部地域の間メルビル・ベイの450〜500�の無人地帯の沿岸では切り立った氷の壁の下の深雪にとざされたり、氷山に行くてを遮られたり、軽傷ながら鼻先を凍傷にやられたり、又橇を海水にもぐらせたり予想外の厳しい旅になりました。  帰路に不安があるとはいえ、この未知の海岸を独り無事に1300�南下出来たことを満足に思っています。ウパナビック|え《ママ》今日出ますが、この便りを出した後、すぐ町に滞在することなく北上です。無数の島の点在するウパナビックの近辺に海水が現れ危険ですから、北よりの村で犬を休ませ再びシオラパルクの旅につく予定です。4月末か5月上旬にはシオラ|え《ママ》帰れるものと思ひます。5月には北極海の旅に出なければなりませんので、一刻も早くこのウパナの旅を終りたいと思って|を《ママ》ります。4月に予定していたカナダの旅は出来なくなりました。  6月には帰国したいと思って|を《ママ》ります。その後の予定はまだ立ちません。小西さん始め皆様によろしく。ウパナビック|え《ママ》あと20�、今この便りを橇の上で手袋をはめ書いて|を《ママ》りますから大変読みにくいと思いますがお許し下さい。  今日3月21日の朝10時の気温は-32℃、快晴。内陸から張り出す氷河が見わたせ、冷めたい風がいく分吹き出して|を《ママ》ります。植村直己 3/21 ウパナビックにて」  植村直己は町にとどまることなく、午後四時にはもうウパナビックをあとにした。シオラパルクへの道を逆に犬橇を走らせる。今度はルートがわかっているうえ、気分的にも調子がいい。復路は三日間短縮し、カナックに戻って来たのは四月三十日だった。  犬橇が村に着くと、知っている懐しい顔、顔がどっと植村を取り囲んだ。もう握手ぜめである。  あとは次々と質問がくり出す。そのとき人垣をかきわけて、「ナオミ、ナオミ」と呼ぶ声がした。ナトック母さんだった。 「ナオミ、ナオミ」  ナトックはそう叫んで息子に抱きついたまま、あとは言葉が出ない。目にいっぱい涙をあふれさせた顔をグイグイ押しつけてくる。植村は、こんなにも心配をかけたことをすまない、と詫びつつ、養母の温かい涙に愛情の深さをかみしめた。植村の頬にも熱いものが自然につたわっていた。 「ナオミ、チキカイ(ナオミ、よく帰ってきた)」  今度はイヌートソアが、息子を抱きしめてきつくきつく背中を叩いた。二人ともわざわざカナックまで出迎えていてくれたのだ。植村は、またしても涙があふれた。養父母はこんなにも自分のことを愛してくれている。それなのに自分は近いうちに、養父母に別れを告げ、シオラパルクから離れなければならないことを知っていた。   3 一目惚れした妻  男が店に入ってくると、一種動物性の異様な臭いがした。よれよれの半袖シャツをだらしなく汚ないズボンからはみ出させ、ちびたサンダル、それも片びっこずつ履いている。手に銭湯《せんとう》道具を持った男は、店に入ると、六つあるカウンターの椅子の右から三番目に座った。他に小座敷があるだけの小さな店だ。 「あのう、串カツください」  板橋区|仲宿《なかじゆく》商店街にあるトンカツ屋「奴《やつこ》」。お女将《かみ》の加藤八重子は、以前、たまに来たことのあるその客に見覚えがあった。 「あら、グリーンランドだかに行くといってたけど、帰ってきたの?」  気さくで商売上手の八重子が話しかけた。 「はい、七月に……」  それが八重子が植村からエスキモーの話を聞くきっかけとなった。  植村直己は一九七三年の七月、シオラパルクの生活に別れを告げて帰国、この近くにある三畳のアパートに身を寄せた。植村が発する臭いは、十ヵ月におよぶエスキモー村での生活でしみついたアザラシやセイウチの臭いだったのである。  ボソボソとしたしゃべり方だが、植村の話すエスキモーの世界は無類に興味深かった。この店は、ご飯が何杯もただでお代わりができる。植村はその後も銭湯帰りに寄ったが、決まっていちばん安い串カツをとり、何杯もお代わりをした。  加藤八重子が苦笑《にがわら》いしながら明かす。 「全然|風采《ふうさい》のあがらないフーテンみたいな格好でね、みすぼらしい姿でしたよ。エベレストの話なんか全然しないから、こっちも植村という名前さえ知らず、ポンポン勝手なこといってね。公ちゃんが植村さんに会ったのもうちの店でした」  この仲宿は、昔の旧|中仙道《なかせんどう》の宿場町で、歴史が古い。「奴」から一、二分のところに、百年以上続いている野崎豆腐店がある。  野崎公子は一九三七年(昭和十二年)三月十二日生まれ。父・朋之助は終戦の年サイパンで戦死。母・ハナ。戸籍上は六人兄弟の次女だが、長女が夭折したので、事実上の長女として生育した。しかし、中学一年の秋、十二歳のときに小児結核にかかり、以後十年間というもの寝たり起きたりの生活が続く。二十一歳頃から書道を始めたが、天性の素質があったのか、書道展にも入選するようになり、その頃は自宅の二階で書道を教えていた。子供たちが中心だったが、弟子の数は多いときで八十名近くもおり、大人たちも十数名いる。加藤八重子は九つ年上だが、公子の弟子の一人だった。公子の雅号は公陽といい、「書華会」の常任理事でもある。  公子は、一週間のうち月曜と火曜の二日間、びっちり書道を教え、夜九時すぎ終わると、フラッと「奴」に現われて、八重子と世間話をするのが息抜きとなっていた。七月のある日、いつものように九時すぎ、公子が「今、終わったのよ」と入ってきたとき、八重子が男の客と話していた。ほかに客はいない。 「ね、ね、公ちゃん、この人、定職もなくて山登りやっているんだって。この前まではエスキモーの生活していたらしいのよ。その話がとっても面白いの」  八重子がカウンターの中から出てくる。公子も「へーえ」とびっくりして、小座敷の縁に腰かけた。それが植村直己と野崎公子が会った最初だった。八重子によると「植村が一目|惚《ぼ》れした」という。二人は一年足らずのうちに結婚することになるが、公子は、植村の意外な素顔を次々と見ることになる。  公子が植村に会ったのはその日が最初で、八月に一回また偶然店で会う。九月に会ったとき、植村は一冊の本を手にしていた。植村は八重子に「あの方、なんていうお名前ですか」とそっと尋ね、名前を聞くと、『青春を山に賭けて』の扉に「謹呈 野崎公子様 植村直己」とサインして、 「あのう、僕の本です。もらってくれませんか」  と口ごもりながら、公子に手渡した。 「あら、私にはくれないの?」  と八重子がからかうと、植村は顔を真っ赤にしてあわてて弁解した。 「一冊しかなかったから……今度、必ずあげますから……」  公子が、植村が日本人初のエベレスト登頂者であり、世界初の五大陸最高峰のサミッターであることを知ったのは、この本を贈られてからであった。  植村が公子と二人だけで話すようになるのは、十一月初めに、みんなで三《み》ツ峠《とうげ》にハイキングに行ってからである。このハイキングは八重子が植村にいって実現した。 「あんた、山登りしたんだったら、今度私たちと一緒にハイキングに行こうよ」 「いいですよ、行きましょう、行きましょう」  植村は一も二もなく賛成した。三ツ峠には、同じ商店街の酒屋の息子が運転する車に乗って、総勢五名で出かけた。植村は、公子に自分の夢を熱心に語った。 「十二月になったら、北極圏一万二〇〇〇キロの犬橇の旅に出る予定で準備を進めているんですけど、あのう、オイルショックでスポンサーが見つからなくて困っているんです。でも、なんとか実現させたいです」  公子には、一万二〇〇〇キロの犬橇の旅といわれても想像がつかない。ただ、植村のひたむきな情熱と素朴な純粋さが伝わってきた。  公子がいま初めて話す。 「もし、この年に植村がスポンサーが見つかって計画どおりに一万二〇〇〇キロの旅に出発していたら、結婚していなかったかもしれませんね。まだ二人の間にはなにもなかったし、一年半も帰ってこないというんですから、ああ、私の知っている人が北極の旅に出たんだなあ、くらいのことでしかなかったと思うのね。私は長い闘病生活をしていましたから、結婚にこだわっていなかったし、縁があったら結婚する、なかったらそれまで、というどこか醒《さ》めた部分がありましたね」  そういう意味では縁があったということだろう。この年、結局、植村の一万二〇〇〇キロの計画は潰《つぶ》れ、かえって二人が頻繁《ひんぱん》に会うチャンスが生まれた。植村は、極北の生活体験を書くためカン詰になっていたが、昼間よく抜け出して「奴」にきては、八重子に「公ちゃんを呼んでほしい」と頼んだ。公子がくるまでの間、植村はカウンターにじっと座り、出された蜜柑《みかん》の皮を無意識のうちに小さく千切《ちぎ》って、山のようにして待っていた。公子の姿を見ると、パッと顔に喜色が走る。公子も次第に心が動いていった。 「植村の男らしさに惚れてとか、熱烈な恋愛の結果とか、そういうんじゃないんです。ただ、なんとなく、ひたむきでいじらしいところがあって、そういう植村に惹かれたんだと思います。植村も私も、社会人としては半端人間ですから、どうしようもない人間どうしが、男と女の縁の不思議さでめぐり合ったということじゃないでしょうか」  公子はやがて、植村が一万二〇〇〇キロの犬橇の旅の話をしたのは、自分の夢を知ってほしい、そのうえでなおかつ結婚してほしい、という一種の�プロポーズ�だったことを知る。植村は結婚においても真剣だった。  植村にこれまで女性にまつわる話がなかったわけではない。エベレストの頂上直下のテントの中で、思わずマスターベーションをしたほどの男だ。体力も健康な性欲もある。  放浪時代の一九六六年九月、キリマンジャロとケニヤ山を単独登山するため、アフリカに向かった植村は、ナイロビからナンユキに着いた。ケニヤ山に登るには、ここからジャングルを踏破しなければならない。ナンユキ警察署の署長は、豹《ひよう》に腹部を食い破られた死体の写真を示して、暴挙を戒めた。それでも植村は今さら決心を変えられない。その夜、泊めてもらうことになっていたナイト・クラブの倉庫で悶々《もんもん》としていると、白人と黒人の混血の女マネージャーが、小柄な異国人に同情したのか、一人の黒人娘をあてがった。 「ジャングル踏破なんて危険だ。死んでしまう。どうしても行くなら、最後の夜ぐらい女で楽しんでいきなさい」  飲めないアルコールを無理して飲んだ植村は、黒人娘の母性愛にひたって朝を迎えた。 〈黒人娘は色は黒くとも、気だてがよく、純情だ。生まれてはじめて私は男になり、思い残すことはなかった(文献8)〉  植村はよほどこのときの印象が強烈だったようで、豊岡高校からの親友・長岡義憲もこう聞かされている。 「植村はあるぜんちな丸で外国に飛び出すときすでに、『おれは外国人と結婚するんだ、ええぞ、外国の女のオッパイはゴムまりみたいなもんだ』と半ば冗談まじりにいって、おれたちを羨しがらせていた。黒人娘のときは彼も『すごく感激したよ』というくらいですから、強烈だったのは事実でしょう」  第二の故郷となったフランスのモルジンヌでは、ドイツ系の、小柄で目のパッチリきれいなジョエルというアルバイトの女子学生が、黄疸《おうだん》や足を捻挫《ねんざ》して異境の地で寂しい思いをしている植村の「心の友」になった。  もう一人、忘れることができないのは、ヨーロッパからアルゼンチンに渡るとき、船の中で知り合ったスペイン人の尼僧だった。植村と同じ二十七歳の尼僧は、ボリビアの辺地に宣教へ行くという。神のしもべとして生きる彫りの深い、美しい尼僧に植村はたちまち恋をし、サントスで下船するとき、自分の恋心を告白までしている。  尼僧は青い瞳に涙をたたえながら、植村に諭《さと》した。 「私たち神の使命に生きる者は、人間みな平等に愛さなければいけません。私はいつもあなたの心の中に神とともにおります。つらいとき、苦しいときがあったら、私の名を呼びなさい。神が必ずあなたを守ってくれるでしょう」  清純な精神的愛を知った植村は、アマゾン河を六〇〇〇キロ下る筏に、この尼僧の名前をとって「アナ・マリア」と命名した。植村はこののち何度も死に直面したとき、「神さま、助けてください」と叫んでいるが、植村にとって神は、アナ・マリアの思い出と深くかかわりあっていることは疑いをいれない。この植村が北極点への旅では、「公ちゃん、助けて」と叫ぶようになるのである。  公子と八重子は、毎年正月には二人で旅行することになっていた。来年は京都へお寺詣りに行くことを決めた。それを知って、植村が誘った。 「京都までくるんなら、家へもぜひきてください。両親にも会ってもらいたいから」  この時点で、植村はすでに公子との結婚を考えていることがうかがわれる。公子もその気持ちを受け、日高町の植村の実家を訪問するためのお土産を用意した。植村は一足先に帰郷し、両親や修夫婦には「お嫁さんにしたい人を連れてくる」といっている。  修は、それより前に弟の直己から結婚のことで相談の電話を受けている。公子のことを聞かされた修はこう念を押した。 「公子さんという人は、体が弱かった、年が四つ上だというたら、子供ができんかもわからん。子供がおらんことぐらい不幸なことないで、それでええのか」 「それでもええ。どうしても結婚したい」  直己の返事は明確だった。すでにそのことは自分で検討し、結論を出していたのだろう。  明けて一九七四年(昭和四十九年)、公子と八重子は元旦から三日まで京都に旅行した。かねて打ち合わせどおり、植村が京都まで迎えにきて、駅前の郵便局の前で待ち合わせをした。そのまま行けば、公子と八重子は兵庫県の日高町まで足を延ばすはずだったが、変事が突発した。公子の母方の祖母が亡くなったという電話が入ったのである。  公子は急遽《きゆうきよ》、二泊三日の京都旅行だけで引き返さなければならなくなった。その夜、悩んだ植村は公子と八重子に、強引に自分の気持ちを押しつけてきた。 「今年は一万二〇〇〇キロはどうしてもやりたい。行く前に結婚が無理なら、籍だけでも入れたいんです」  激しい気迫に押されたのか、公子がわりに素直に答えた。 「いいですよ、入れても。一緒に暮らさなくても入れてもいいわ」  そのときの気持ちを公子が思い返す。 「それまで結婚という言葉が植村から直接出たことはなかったの。でも暗黙の了解という感じで、私も日高に行くという気持ちの中には、結婚してもいい、という心になっていたんだと思います」  しかし、二人の考えに八重子が猛反対した。 「植村さんね、結婚や籍を入れるのは、一万二〇〇〇キロから帰ってきてからでいいんじゃないの。親の気持ちになってごらんよ。そんな、いつ命を落とすかわからない人に娘はやれないよ。親も承知しないのに、そんなことできるわけないじゃない。私だってそう、公ちゃんのお母さんだってそうよ」  八重子は、町内会の役員どうしということで公子の母親・ハナとも古くからの付き合いで、ハナが心配していることを知っていた。 「公子だって三十七歳にもなっていれば、後妻の口なんだから、いい縁談だと思うけど、冒険する人は危険だから、それだけがねえ」  公子もむろん母親や兄弟たちの反対はわかっている。前にも半ば冗談に、 「駈け落ちしちゃおうかしら」  といって、そのときも八重子に怒られたことがあった。  八重子の説得に、公子は、植村が一万二〇〇〇キロから帰ってくるのを待っている、という気持ちになったが、植村は依然として強情だった。 「旅に出ている間、いい縁談がきて結婚されたら困る。どうしても籍だけでも入れておきたい」  植村の不安はそこにあったが、結局、この夜は結論が出ないまま、翌日、公子と八重子は帰京した。植村が強引なのは、もう一つ理由があった。一万二〇〇〇キロの旅が延びて体が空《あ》いているため、三月に明大ダウラギリ遠征隊の偵察隊を命じられていた。その前に解決しておきたい。  三月に入って、植村から公子に「結納《ゆいのう》を持って行きます」という連絡が一方的に入った。そして三月六日、兵庫県から長兄の修が上京し、千葉に住む三兄の武夫と直己の三人が、仲宿の野崎家を訪れた。 「結納はお仲人《なこうど》が持ってくるものです」  といっていた母親のハナは、植村家がいちおう筋を通してきたことで初めて反対をとき、ここで初めて植村と公子の婚約が正式に成立した。公子もほっと安心した。 「最初はあまり結婚にこだわっていなかったけど、その頃は一緒になりたいという気持ちが強くなっていたから、結納はやっぱり嬉しかった」  二日後の三月八日、植村は明大OBの二人の後輩を引き連れて、ダウラギリV峰(七六一八メートル)の偵察隊長として勇躍、日本を出発していった。  ダウラギリは、サンスクリット語で「白い山」を意味する一大山群で、主峰の第I峰(八一六七メートル)は一九六〇年にスイス隊によって初登頂されたが、V峰はこのとき未登峰だった。  植村はこの偵察から、予定よりも一週間遅れて五月十二日に帰国するが、その間ほぼ三日に一通の割で、婚約者の公子のもとへ手紙を出している。彼なりの�ラブレター�だったのだろう。手紙は和紙にサインペンとインクで書かれたもので、絵と文からなり、計二十四通の連作の「詩画の世界」を作り上げている。   ヒマラヤの山は   登れど登れど   遠のいてゆく   空青く天につき出る   ダウラギリ㈼峰の雄姿  これはもう一篇のすぐれた詩である。恋する者は詩人になるといわれるが、「ドングリ」といわれてきた植村が実は鋭敏な感性の持ち主だったことがわかる。そして植村の冒険を支えている詩的精神がのちに、思いがけない形で高く評価されることになるのだ。  五月十二日に帰国した植村は、公子と、一週間後の五月十八日、板橋の氷川《ひかわ》神社で身内だけのひっそりとした結婚式を挙げた。仲人は明大先輩の大塚博美夫妻にお願いし、列席者は保証人の赤木正雄夫妻、植村家からは武夫夫妻、野崎家からは長男の銀之助ら六名という質素さである。午前中に挙式し、終わったあと会食、晴れて夫婦となった植村と公子は、上野から四時の列車で水上《みなかみ》温泉に新婚旅行に向かった。  植村は最初、新婚旅行をする予定をたてていなかった。結婚式のあとは、三畳のアパートから新居となる二DKのアパートに引っ越しをするつもりでいた。挙式当日、大塚が植村に確認した。 「おまえ、新婚旅行はどこへ行くんだ」 「旅行は行きません」 「それは駄目だ、思い出なんだから。よし、おれがどっか探してやる」  大塚はあきれ、電話をあちこちにかけ、あわてて新婚旅行先を探し、手配させた。そして、こう�命令�した。 「水上へ行け!」 「はいッ」  植村は直立不動で答え、公子はハンドバッグ一つであわただしく新婚旅行に向かった。植村には、どこか世間的な常識から一つピントがズレているようなところがあった。  明大山岳部のOBたちで組織している炉辺会のメンバーが中心になって、「植村直己を励ます会」を赤坂プリンスホテルで開いたのは六月五日。植村夫妻の結婚披露パーティは、仲間たち約百五十名が出席したが、一瞬にして裸踊りが飛び出す無礼講《ぶれいこう》の乱痴気《らんちき》パーティと化した。薦被《こもかぶ》りが割られて酒に酔った面々がパンツ一丁になって樽《たる》神輿《みこし》をかつぎ回り、みんなで明大節をがなりたてる。公子は度肝を抜かれたが、同時に男の友情の世界を見て胸が熱くなった。この日の引き出物は、植村が持ち帰った五大陸最高峰の石を砕いて焼いた�グイ呑《の》み�だった。  パーティに出た土肥正毅も苦笑する。 「やはり大塚さんの仲人で結婚した菅沢豊蔵なんか、自分の結婚披露宴でも、紋付羽織姿をぬいで裸踊りをやった男ですからね、盛り上がっちゃうとみんなで裸踊りをやるのが伝統なんですよ」  加藤八重子はスピーチをする約束になっていたが、いつの間にかうやむやになってしまった。 「私の番になると、植村さんの顔がこわばってしまってね。私になにをいわれるかわからないから、とうとうスピーチをさせてくれないの。仲間たちには、『年上の女に惚れられてね……』なんてホラをふいているから、私に真相を暴露されるのが怖かったんでしょ(笑)。でも、楽しくてとってもいい会だった」  植村は、�縁結びの神�となった加藤八重子にのちに恩返しをする。八重子の息子、博司(明大卒)が一九八一年二月に結婚したとき、植村と公子は初めて仲人役を引き受けた。結婚式のあと、「奴」の二階で商店街の人たちを呼んでお祝いをやったが、その席で植村は客の一人ひとりに、「博司君のことをよろしくお願いします」と頭を下げ、お酌をして回る。そして、あまり酒を飲めないのに、律義《りちぎ》に全部の返盃を受けた。 「もう最後はべろんべろんで、引きずり出すくらいに酔っ払ってしまって……。宴会ですから歌がつきものでしょ。植村さんも『黒田節』を歌いましたよ。まあ、オンチだわ(笑)。大きな声で、音はほとんど合ってない歌を、楽しそうに歌ってくれました。植村さんてそういう人なんです」  八重子は感謝するが、それが植村夫妻にとって最初で最後の仲人となった。  東京での披露パーティとは別に、日高町の実家でも、近所の人や、正木徹、長岡義憲らの友人を呼んで披露宴が行なわれた。植村の両親は初めて会う息子の嫁を気に入り、藤治郎はこう詠《よ》んだ。 「親思う心にまさる親心、今日の訪れ、公子がかわいい」  披露宴は和気あいあいと心温まるもので、公子は長岡にこういって笑いころげた。 「あの人ったらもう私のことボロクソにいって、数ある母港のうちの一つだ、なんていうんですよ。ニクラしいわねえ」  長岡たちも「直己にいい嫁さんがきた」と安心した。植村は一目惚れした最愛の妻・公子を得た。   4 北極圏一万二〇〇〇キロ完走  公子は、夫の生きている世界が非常に奥深いものであることを知っていく。結婚して間もなく、植村からこういわれた。 「佐藤先生のお宅にご挨拶《あいさつ》に行く。おれがお世話になっている大事な方だ」  一緒に練馬区|向山《こうやま》の佐藤久一朗邸を訪ねると、そこにはまた植村の大事な世界があった。植村が、出迎えた佐藤夫妻に少し固くなって、 「公子です」  と妻を紹介した。 「まあ、ようこそいらっしゃいませ。乙羽信子の若い頃によく似ているわねえ」  孝子が嬉しそうに応接間に招じ入れた。応接間から百坪くらいの広々とした緑の芝生の庭が見え、色とりどりの花が咲いている。佐藤は植村より少し低い一六〇センチ、体重四十数キロしかない小柄な体つきだが、ゆったりとソファに座り、タバコをくゆらせながら新婚夫妻をニコニコと眺めている。  佐藤は、植村の話を聞くのが好きだった。植村は大きな登山や冒険から帰ると、必ず報告にきたが、佐藤は自分でシャブシャブを作ってご馳走しながら、飽かずにいつまでも植村の話を聞いていた。佐藤夫妻は、「もう一人娘がいたらねえ」といつも語り合っていたほど、植村の人柄を気に入り、結婚も息子のことのように心配していた。それだけに植村が連れてきた公子に会って、久一朗も孝子も大喜びした。  孝子が、植村夫妻について話す。 「お顔も丸顔でよく似ていらっしゃるの、ご夫婦とも。公子さんのほうが四つ年上なんですけど、直己さんのほうが年上に見えましたね。普通にオシドリといわれるような仲の良いご夫婦とは違う仲の良さがありました。表面的には、直己さんは、明治生まれの男の佐藤と同じで、奥さまに対して優しい顔を見せませんの。自分のしたいようにする。テレもあるのでしょうが、人前で女房をいたわらないというご亭主でした。宅から帰られるときも荷物を持って出るのは公子さん。でも、忘れ物をしたのであとを追って玄関を開けると、そのときはもう直己さんが自分で荷物を持っていましてね。そういう愛情の示し方なのね。公子さんが素晴らしい方なので、佐藤も『よかった、よかった』と喜んでおりました」  佐藤久一朗は山形県出身。「山形銀行」の創立者の家系に生まれ、銀行の経営はその後変わっ たが、慶大山岳部OBとして戦前から山登りで鳴らしてきた顔は驚くほど広い。戦前、北白川宮《きたしらかわのみや》 に五年間仕えたことがあり、その関係から各宮家の知遇を得ている。 「常陸宮妃殿下に結婚のご報告に伺ったほうがいい。私が連絡をとっておこう」  久一朗が植村にいった。  常陸宮妃殿下は山がお好きで、前年の八月、つまり植村がシオラパルクから帰国して公子にめぐり逢った頃、佐藤久一朗の案内で富士山に登ったことがあった。佐藤が隊長をつとめ、植村が副隊長という形でサポートし、総勢十名ほどが登頂した。その中には三笠宮寛仁殿下も参加していた。七合目の小屋で前夜一泊したとき、植村の話す体験談に魅せられ、その人柄とともに、常陸宮妃殿下はすっかり植村ファンになられたのである。  常陸宮殿下の御殿には、佐藤が車を運転し、植村夫妻を連れて行った。佐藤が、公子を紹介すると、妃殿下はニッコリうなずかれ、ご自分で紅茶をついで勧めてくれた。植村も公子もあがっていた。植村は大汗をかき、ハンカチでしきりに顔をふいた。公子も「どんなことをお話ししたかなにもよく覚えていない」という。三十分ほどで退出したが、妃殿下は結婚のお祝いとして、スペインの一輪差しのカットグラスをプレゼントされた。以後も、妃殿下との交友はつづいていく。  植村は結婚する前、公子に「山はやめる」と約束した。それはすぐ反古《ほご》にされ、結婚して間もなく七月に、植村は佐藤久一朗と一緒にヨーロッパに出かけて行った。そしてアルプスの高峰メンヒ(四一〇五メートル)にロープを結び合って登頂した。このとき佐藤は七十三歳。すでに達成していたアルプス三大峰登頂をはじめ、メンヒの登頂もすべて七十歳以上になってからだから、これも偉大な快挙というべきであろう。  ヨーロッパからは一ヵ月で帰ってきたが、植村はこの年の十一月二十二日に日本を発ち、いよいよ北極圏一万二〇〇〇キロの単独犬橇の旅に挑戦した。三ツ峠では「一年ぐらい」といっていたのが、結婚するとすぐに「三年はかかる」と前言を簡単にひるがえした。「これは山じゃない」というのが植村のいい草だった。  そんな夫を、新婚五ヵ月の妻は、仲人をしてくれた大塚らと羽田空港(当時)に見送った。一万二〇〇〇キロの冒険は、結婚する前から聞かされていたことであり、別に反対する理由はなかったが、意気揚々と出かけていく夫を見ると、公子は心に悲しみがあふれた。  植村は一万二〇〇〇キロの旅のあとも、北極点・グリーンランド縦断の旅など生死を賭けた冒険に挑戦していくが、その都度留守を守り、ひたすら夫の生還を祈るしかない妻の悲しみを公子が吐露する。 「植村はいつも夢を追って、スポンサー探しに苦労し、そして出ていく。その姿を見るたびに切なかった。植村のやる冒険の成功が偉大なものかどうかわからないけど、成功しなくてもいいから、失敗してほしくないという気持ちでした。失敗は即、死を意味しますから。だから、『じゃ行ってきなさいよ』とはとてもいえなかった。『ちゃんと帰ってきてね』といっては送り出しましたけど。ずっと切なかった、悲しかったですよ」  植村の今度の一万二〇〇〇キロの旅は、グリーンランドのヤコブスハウンを出発、カナダを踏破し、アラスカのベーリング海まで抜けるという破天荒《はてんこう》な犬橇の旅である。  十一月二十二日に東京を発った植村は、コペンハーゲンで犬橇旅行の許可など必要な手続きをし、十二月十一日に出発予定地のヤコブスハウンに入った。ここで十二頭の犬を調達、橇を製作した。  二十日にヤコブスハウンを出発して、九〇キロ北のヌッソア半島のつけ根にある人口六十人のケケッタ集落に向かう。そこのKGH(デンマーク政府直営販売所)で物資を揃え、装備の総点検を行なう。すでに氷点下三〇度を越す。まだ体が極地の寒さに十分順応できていないため、凍死の不安がつきまとった。  ケケッタ集落は、ちょうどクリスマスでわきかえっていた。植村の足も自然に村の教会に向かう。神父も讃美歌を歌っている人たちもみなエスキモーだった。無信心なはずの植村も、ロウソクの明かりで照らし出されているキリストの像に、いつしか身の安全を祈っていた。 〈キリストであれホトケ様であれ、神に変わりはないだろう、何者でもいい、私の旅を無事に導いてくれるものに対して、私はすがりつきたいような気持ちだった(文献13)〉  植村は十二月二十九日、午前九時だというのに満天の星がきらめくケケッタを出発した。これからは暗闇の中をまずグリーンランドの西側、バッフィン湾沿いに北上していくのだ。酷寒の世界を生き抜く完全装備は、セーターとウインドヤッケの上にエベレスト登頂のときに着た羽毛服を重ねた。下は毛の下ばきの上に白熊のズボン。靴はやはり白熊の毛皮で作ったもの。頭には羊の毛の帽子をすっぽりとつつんだ。  犬の扱い方は、シオラパルクの生活と三〇〇〇キロの犬橇の旅ですでに実証ずみだ。しかし今回はその四倍も距離が遠い。グリーンランドはともかく、カナダとアラスカは初めての経験だし、北極海沿岸を手探りで走ることになる。頼りにしているのは二十五万分の一の地図と方向探知器だけである。  年あけて一九七五年(昭和五十年)、元旦の朝起きてみると、犬が一頭逃げていた。不吉な予感が走る。旅の過程で、植村は犬たちに逃げられて乱氷の大氷原にただ一人取り残されたり、犬が死んだりして、凄絶な孤独地獄の中に取り残され、死を覚悟したことが何回もあった。その都度九死に一生を得ながら旅を続けられたのは、ところどころにエスキモーの集落が点在しているからであった。そのたびに犬を補充しては出発する。  リーダー犬としてメス犬を先頭にして走らせてみると、他のオス犬たちが後を追うように調子よく走るようになった。植村はこの犬に「アンナ」とつけた。エスキモー語で女性を意味する。アンナは植村の窮地をよく救ってくれた。そして最初から最後まで一万二〇〇〇キロを完走するただ一頭の犬となるのだ。  三月五日、懐しいカナックに入った。ここに少し滞在。疲労|困憊《こんぱい》した体を休め、カナダ政府に出す書類の手続きをし、犬を再編成し、橇を新しく作り直さなければならない。シオラパルクから養父母のイヌートソアとナトックが噂を聞いてわざわざ会いに来てくれた。 「ナオミ、ナオミ、チキカイ(よく来た)」  ナトック母さんが駆け寄るなり、皺《しわ》だらけの顔に涙をあふれさせて抱きついてきた。 「アナナ(お母さん)」  植村もそう叫ぶなり、感きわまった。二年前の七月に別れて以来、一年八ヵ月ぶりの再会だ。イヌートソアも「ナオミが帰って来た」と、顔をくしゃくしゃにした。つもる話は一杯あった。だが、ゆっくりと滞在している暇はない。アラスカまで単独で行くのだというと、さすがのイヌートソアも他のエスキモーたちも猛反対した。 「ナオミ、トコナラヤカイ(死ぬぞ)」 「アダダ(お父さん)どうしても行かなければならない」  植村の冒険を彼らに理解させることは不可能だった。エスキモーたちにとって犬橇を操るのは狩猟のためであり、生きるうえでの絶対必要条件だからである。冒険のために一人で犬橇を走らせるなど、エスキモーたちにとっては全く無意味なことであった。それでも植村の意志が固いことを知ると、イヌートソアが寂しそうにいった。 「ナオミがずっとここにいてくれるといいんだが……。どうしても行くというなら、誰か一緒に行く人を探しなさい」  その注意も振り切って、一人で旅立つのは心苦しかったが、植村は前進しなければならない。ナトック母さんが「これを持って行きなさい」と手渡してくれた袋の中には、植村の大好物のキビアック、オヒョウの凍肉などが一杯つまっていた。いつもながらの愛情だ。いつまでも両手を握りしめるナトック母さんの手をふりほどくようにして、自分の心を非情にした。これがおれの運命なのだ。いつかまた必ず会いにくる。それまで達者でね、いつかまた……。 「さようなら、アダダ」 「さようなら、アナナ」  植村は犬橇に鞭を入れた。立ち尽くす養父母の姿が涙のなかににじんで遠ざかっていった。  カナダまでの食糧は、スミス海峡のグリーンランド側、岬の突端のアノーイトーに、シオラパルクの大島育雄やカーウンナたちが四ヵ所にデポしておいてくれた。三ヵ所までは飢えたキツネに荒らされていたが、四ヵ所目のところでセイウチの肉を発見。大島らに感謝して先を急ぐ。  四月十日、カナダ・エスキモーの住む最初の村、グレイスフィヨルドに入った。顔はシオラパルクのエスキモーたちと同じだが、服装が赤や青で刺繍《ししゆう》されて華やかだ。それに犬橇の代わりにスノースクーターが目に入った。植村はここでインド人、ベーゼル・ジェスダーセンと知りあう。  ベーゼルは一九四一年四月、インドのマドラス生まれ。ドイツのハンブルク工科大学で機械工学を学び、技術者を求めているモザイク国家のカナダに一九六八年に移住した。テリー夫人はイタリア系カナダ人で、子供はいない。ベーゼルはこの当時、カナダ政府の技師としてグレイスフィヨルドで働いていた。  ベーゼルが植村がたどり着いたときの模様をこう話す。 「ナオミが着いたのは午前二時頃で、お腹が空《す》いていたので、カレーライスとフライドエッグを作って出したら、大変喜んで食べた。難関を突破してグレイスフィヨルドにこられたのがいかにも嬉しそうで、犬橇の技術に自信を深めたようだ。ナオミはUSドルとクローネしか持っていなかったので、私がカナダドルと交換してあげた」  植村はベーゼルの温かい家の中で歓待され、昨年の暮れから一度も洗っていない体に心地よいシャワーを浴びさせてもらった。植村はここでいろいろな話をしている。植村が新婚早々だと知ると、テリー夫人が目を丸くした。 「奥さんはオーケーしたのですか。カナダならすぐ離婚です」  植村が胸をそって答えた。 「日本人は大丈夫です」 「なぜ、こんな危険な一人旅をするのか」  今度はベーゼルが尋ねる。 「こういう生き方が自分に合っているからです。シオラパルクを出るとき、村の人たちから、『死ぬぞ、死ぬぞ』といわれたが、私はまだ死ねない。南極へ行く夢があるからです」  このとき植村は南極のことは話しても、三年後に挑戦することになる北極点のことは一つも口にしていない。ベーゼルがいう。 「あのときは考えていなかったのではないか。ナオミは行く先々で次のことを考える。ナオミは漂流者だ」  植村はベーゼルのことを「ベゾ」と呼んで、こののち生涯の友となるが、このときは六日間滞在して別れを告げた。  ベーゼルはいみじくも「漂流者」といった。植村はこれまで放浪の旅を続け、やっと公子という理想の伴侶を得た。それも束の間、また北極圏を彷徨《さまよ》っている。ゼンタという理想の女性をついに探し求めながら、海に再び出ていった「さまよえるオランダ人」。植村もやはり永遠の漂流者の運命を持った男なのだろうか。  カナダは通信施設が発達し、救助隊の出動も迅速だ。その点では気持ちのうえでは少しゆとりができたが、旅が危険であることに変わりはなかった。  六月十二日、ケンブリッジベイに到着。グリーンランドを出発してから六ヵ月、ちょうど六〇〇〇キロの地点だ。植村には大きな満足感があった。エスキモーもやらないことをおれは乗り越えてきた。あと半分だ。しかしこれから先、夏の間は海氷がとけて動けない。  植村は、アンダーソンベイというところで老エスキモーと生活しながら越夏し、体力の回復をはかる。食糧も貯え、冬の出発の準備をして過ごした。妻の公子や佐藤久一朗など世話になった人たちへ何通もの手紙やハガキを書いた。日高町の父親・藤治郎へのハガキ——。 「半年にわたった夏の定着生活を終え、いよいよ後半の旅の出発です。11月末頃、12頭の犬で北極海沿岸にそって西進、来春3月頃にはべーリング海峡到着終了させる予定です。総て順調にいっているので心配ないです。絶対事故のないよう慎重にやり抜きたいと思っている。皆さん、体には充分無理させぬよう。帰ったら又旅の話を聞いて下さい。植村直己 11/20」  自分が生死を賭けた危険な旅をしているのに、逆に「体には充分無理させぬよう」と気遣っているところが、いかにも植村らしい。植村は予定より少し遅れ、十二月十五日、越夏して海氷の訪れを待っていたアンダーソンべイから、再び後半六〇〇〇キロの単独犬橇の旅を開始した。  旅に出て二回目の元旦も極地で迎え、植村はツンドラ地帯を悪戦苦闘で通り抜け、やっと北極海に出た。今度は乱氷地帯だ。氷点下五〇度。外気にさらしている鼻の頭が切れて落ちそうなくらい痛い。最後に入って犬たちがバタバタ倒れ出した。地吹雪が荒れ狂う。まさに極寒地獄。  カナダとアメリカの国境に着いたのは三月二十一日だった。あと残るのはアラスカの旅三〇〇〇キロ。完全に射程距離内に入った。植村は勇みたつが、犬たちがもう極限にきていた。四月十九日、最終目的地のコツビューへ向けて四時間走ったあと、テントを張って休憩。犬たちが突然激しく吠えだした。白熊だ。ライフルをあわてて取り出して威嚇《いかく》に一発打ったが、白熊は動じることなく近づいてくる。距離にしてわずか五〇メートル。犬たちはもう気が狂ったように飛びかかろうとする。植村は二発、三発と威嚇射撃をした。アラスカでは白熊を射つことは禁止されているのだ。白熊はなおも近づいてきた。  公子は五月の初めに日本を発ち、アンカレジを経由してコツビューに入り、ヌルラック・ビックというホテルで夫が生還するのを待機していた。これまでの通説では、公子が植村に内緒で来たことになっているが、植村は出発前に妻にちゃんといっている。 「終わったときには迎えに来てね」  植村の旅の模様は手紙で伝わってきたし、今度来たのも後援したNET(現・テレビ朝日)のスタッフと一緒だった。  公子より少し前、文春のカメラマン・安藤幹久と毎日新聞記者・松本照雄がコツビューに入った。植村がポイントホープを通るという情報を得た安藤は、一人だけ貨客両用のツインオッター機に乗って、ポイントホープに降ろしてもらった。野原みたいな飛行場で、泊るところもない。やむなくエスキモーのおばさんに交渉して、小屋を一つ借りた。ベッドが一つ、重油のストーブ、それにトイレ用のバケツがあるだけの殺風景な小屋だ。  たまたま鯨が来ていて、村の男たちは海で大格闘しているという。植村がいつ来るかもわからないし、特別することがない安藤は、村中に連絡を頼んで、鯨とりを見に行った。海は離れていてスノーモービルでないと行けない。頼んで乗せてもらう。海は氷がとけている。汽笛《きてき》のような凄まじい音がする。鯨が浮上して呼吸する音だった。エスキモーの男たちは、ヒゲアザラシの皮で作った八人乗りのカヌーに乗って鯨を撃ちに行く。海辺は戦場のような大騒ぎだった。  三日目の朝の五時頃、小屋に戻ると、床にエスキモーが勝手に入りこみ、グウグウと鼾《いびき》をかいて眠りこけていた。 「この野郎、人の部屋に入りやがって、この酔っ払いめ、と怒ってよく見たら、なんとなくエスキモーじゃない、植村さんでした。顔や手は汚れ、エスキモーのほうがきれいだった」  安藤の気配に、ようやく植村が目をさました。 「ああ、安藤さん」 「一万二〇〇〇キロやったね、おめでとう」  二人は固い握手を交わした。それから二人は朝の五時頃から昼の十二時頃までなにも食べずに夢中で話しこんだ。植村がポイントホープに着いたのは四月三十日。ちょうど安藤が鯨とりを見に出かけた日の夕方で、村のはずれにテントを張ったら、村人から安藤が来ていることを教えられ、ここで待っていたという。安藤は、植村が留守にしていた間に起こった一年半の日本のニュースを夢中で話し、植村は、白熊をやっと撃退したことなど、犬のエサがなくて困ったこと、旅のことなどをしゃべった。 「犬のエサ用にターナ(雷鳥)を撃ってね、しのいだこともある。これは簡単だね、百発百中、なぜって逃げないから」  植村はそういって大笑いした。いつもの植村と変わりはなかった。次の日、二人でまた鯨とりを見に行った。頭が三分の一くらいの巨大な鯨、ボーヘッドクジラが次々にとれる。 「植村は、エスキモーたちと話しているとね、実に生き生きとして、彼らを笑わせたり、どんどん自分からしゃべる。日本での植村からは考えられない。鯨は全部で十三頭とれた。昨年は三頭か四頭だったというから、『ラッキーボーイが来た』といって喜ばれた」  安藤は一足先に飛行機でコツビューに戻った。植村はポイントホープに三日間滞在したあと、キバリナを経て、五月七日、コツビューまであと一五キロという地点でテントを張った。太陽が沈み、白夜の薄明りの中にコツビューの灯がほんのりと幻想的に美しい。今日のうちにコツビューに入る気なら入れたが、一晩じっくりと旅の終わりをかみしめたかった。グリーンランド、カナダ、アラスカをたった一人犬橇で一万二〇〇〇キロ駆け抜けて来たのだ。単独の犬橇の旅としては世界最長の距離であり記録であった。  犬は最後は九頭しか残っていなかった。植村はテントを出て、グリーンランドからここまで完走したただ一頭の犬、リーダー犬のアンナの頭をなでた。ありがとうよ。アンナ、長い間ご苦労さん、おまえは日本に連れて帰ろう。おれの命の恩人だ。さあ、エサを食べてくれ。もう鞭で叩いたりしないからな。ゆっくり休んでくれよ。植村は語りかけながら、いつまでも抱きしめていたい愛《いと》しさを感じた。他の犬たちもそれぞれねぎらった。次々に死んでいった犬たちの姿が浮かぶ。自分が今こうしてコツビューの灯を生きて眺められるのは犬たちの犠牲のお蔭だ。植村は犬にはいくら感謝してもしたりなかった。  植村が一万二〇〇〇キロを踏破して、コツビューに到着したのは五月八日の午後零時四十分。報道陣たちが駆け寄る。握手攻めに植村は淡々としていた。 「いや、どうもどうも」  エスキモーたちもなにごとかと集まってきた。 「グリーンランドから来た? まさか……」  最初は誰も信じなかったが、それが事実だとわかると、エスキモーたちが信じられないというふうに「そりゃ、大変なことだ」と、握手を求めてきた。公子はそんな人垣の後ろにひっそりと立っていた。植村は妻の姿をちらりと目にとめると、言葉もかけずに犬たちをねぎらっていた。安藤のほうが歯がゆかった。 「ホントは公ちゃん、よく来たね、といいたいのに、なにしに来たんだ、という感じでそばへも寄らない。外国人が見たら、なんと変な夫婦だろう、と思うだろうね。植村は人の前では絶対に奥さんに対するやさしさ、いとおしさを見せない」  公子が今こう話す。 「みんなにバカみたいと笑われるかもしれないけど、顔を忘れるんですよ、長く離れていると。写真があってもね。あの人、どういう顔していたっけなと思うことあるんです。動く顔見て、ああ、こういう顔してたんだっけな、そういう感じでしたね」  公子は、マラソン選手のように全力を使い果たし、息も絶え絶えに到着する夫の姿を想像していた。しかし植村は、足かけ三年、一年半にわたる長大な旅から帰ったばかりだというのに、疲れた様子もなく、また明日から一年も二年も旅を続けられるような、そんな感じに公子の目には映っていた。 [#改ページ]   第四章 「現代の叙事詩」北極点大遠征   1 北極点レース 「岩下さん、そっちはほんとに資金的にできるんですか」  植村が、岩下莞爾に探りを入れた。 「そりゃあ、うちの場合はスポンサーもはっきりしているからね。今回は単なる同行取材じゃないよ。テレビ班を独立させ、別に犬橇を組織して、指揮系統を別にしてやることに決まった」  スポンサーと資金集めで苦労しているのか、憔悴《しようすい》しきった顔の植村が心細げに見えた。日大隊と日本テレビが本腰を入れて取り組んでいることを知り、さらに焦りを感じたようでもあった。  岩下莞爾は早大政経学部を卒業した一九五八年に日本テレビに入社。ここ十年間、北極の魅力にとりつかれ、前述したように一九七四年には自ら犬橇に乗って、大島育雄らとスミス海峡を踏破する一二〇〇キロの旅を成功させ、その記録『エスキモーの道』は芸術祭優秀賞をとった。  一九六八年に中村進をシオラパルクに一年間滞在させ、エスキモーの四季を撮らせたのも、大島育雄がシオラパルクでアンナと結婚し、「ジャパニ・エスキモー」となるきっかけを作ったのも岩下だった。その延長線上に、今回、日大隊と組んで日本人として初めて北極点を目指すという大プロジェクトがあった。  植村は、一万二〇〇〇キロの世界最長の距離を単独犬橇で成功させたが、最大の目的である南極への道は遠い。一万二〇〇〇キロの旅が終わったあと、植村は、 「さあ、次の南極をやろうという気持ちよりも、ベーリング海峡を渡ってシベリアの北極海沿岸をヨーロッパまで抜けて北極海一周を完成させたいという気持ちが強くなりましてね」  と、次の目標を明かしているが、これはソ連の許可をとるのが難しくて、結局、中止になった。  植村はコツビューから戻るとすぐソ連に行って、その可能性を打診したが、いい返事が得られず、七月にコーカサス地方の最高峰エリブルース(五六三三メートル)を登って帰ってきた。世界五大陸の最高峰という場合、ヨーロッパ最高峰のモンブラン(四八〇七メートル)より、このエリブルースをあげる人もいるので、植村はこれで誰からも文句のつけられない正真正銘の五大陸最高峰登頂を完成させた。  北極海一周がダメになったから、じゃ今度こそ南極というわけにはいかない。植村自身はそう望んだが、西堀栄三郎に会ったとき、甘い夢はたちまち打ち砕かれた。西堀はいうまでもなく、一九五六年(昭和三十一年)、日本学術会議が国家的な支援のもとに初めて送りこんだ南極観測隊の第一次越冬隊長である。教えを乞う植村に西堀がいった。 「きみは一万二〇〇〇キロ行ったかしらんけど、それは陸の見えるところばっかりやろ。南極は途中に村があるわけやない。山が見えるわけやない。ブリザードが吹き荒れて、なにも見えん世界に取り残されてみい。今、自分がどこにいるのか、南極ではそれがわからんかったら死ぬだけや。その経験もつまんで南極へ行けるか」  ここから西堀独得の海軍論が展開されるが、その前に、植村が師と仰ぐことになる西堀について少し詳しく説明する必要があろう。  西堀栄三郎は一九〇三年(明治三十六年)一月二十八日生まれ。京都府出身。京大卒。西堀と南極のかかわりは古く、小学生の頃、白瀬中尉による南極探検の報告会を聞きに行き、そこで見た南極の記録映画に映し出された真っ白なロス氷床の印象が強く刻みこまれた。府立一中時代に今西錦司らと同期で山歩きの魅力にとりつかれる。京大講師のとき、厳寒の白頭山(旧・鮮満国境)に登り、そこで日本の登山界では初めて極地法を試みている。極地法はもともと南極や北極で使われるもので、大量に人材と物資を投入し、キャンプ地を次々に作って前進していくものだ。のちに登山にも応用され、植村が一九七〇年にエベレスト初登頂できたのも、この極地法のお蔭だった。  科学者、技術者として業績を誇るだけでなく、山岳界でも貢献している西堀が、第一次越冬隊長に任ぜられたのは五十四歳のとき。ブリザードが来襲し、ヒドンクレバスが死を誘いこむ南極では、雪上車よりも犬橇のほうが効果的だと主張し、事実、その成果をあげたのも西堀の長年にわたる南極の研究があったからである。  この第一次越冬隊を迎えると同時に、第二次観測隊を乗せた宗谷が翌年きたが、気象条件が最悪でついに越冬を断念。犬たちが無人の昭和基地に残された。この十五頭のカラフト犬たちのうち、タロとジロが奇跡的に生き延び、一年後、第三次観測隊の前に姿を現わして感動を呼んだのはこのときの話であった(文献14)。  西堀は今西錦司の妹、美保子と結婚している。今西錦司(現・京大名誉教授)は、世界的に有名な�京大モンキー学�の草わけで、生物の「棲みわけ理論」でも知られるが、西堀らと中学時代から始めた山登りは、一九八五年、八十三歳で千五百山登頂を果たすという前人未到の記録となった。これは国内の山だけで外国の山は含まれていない。元日本山岳会会長である。  西堀も日本山岳会会長をつとめたことがあるから、西堀と今西は中学以来の親友、義兄弟というだけでなく、日本の山岳界にも二人で大きく貢献しているが、一つだけ論点が分かれるところがある。それが�西堀=海軍、今西=陸軍�論というものである。西堀が話す。 「昔から�陸軍・海軍論�というのを今西と戦わせていた。今西はものの考え方が陸軍的や。事実、陸軍の将校やったからな。陸軍というのは極端にいうたら直感精神や(笑)。それに対して、海軍は船がなければどこへも行かれんのやから、物質文明、メカニズムと切り離せない。太平洋のど真ん中にいて、いったい今どこにおるのかと確認するためには、航海術というサイエンスが必要や。ところが今西はサイエンスが嫌い。あくまでも陸軍精神というやつやな」  植村は、この二人に教えを受けたことによって、北極点・グリーンランド縦断という二つの冒険を同時にドッキングさせるというヒントが生まれた。  南極を実現させるためには、天測一つとっても西堀のいうように海軍的な訓練を積む必要がある。同時に、グリーンランドは三〇〇〇キロの距離といい、内陸性の氷床といい、南極の縮図みたいなものだ。北極海の海氷と陸の氷とは違う。グリーンランドを縦断したら、南極でやる経験とほとんど同じものが得られるのではないか。そう考えた植村は、北極点もグリーンランドも海軍式でやろうと考えたのである。  ここで重大な問題が生じてきた。植村が今までやってきた登山、冒険は、なんとか自分でまかなえる範囲内でできた。一万二〇〇〇キロにしても七百万円である。しかし人間が誰も住めない北極点を目指し、グリーンランドを単独の犬橇で縦断するとなると、途中何回か飛行機をチャータして飛ばして、食糧などを補給しなければならない。それには莫大な金がかかる。西堀がいう。 「今までの冒険のやり方を百八十度転換させなければならん問題がいっぱい出てきた。正直いって容易なことではない。植村はあえてそれをやろうとした」  まず金の問題をどう解決するか。植村は湯川豊に相談したが、文春としてもそんな大資金は無理だ。スポンサーはこれまでと同じく文春と毎日新聞、毎日放送が決まったが、三社合わせても約二千万円しか出せない。試算によるとかかる費用は約六千万円。ここから電通がからんでくる。当時、電通の開発事業局局長だった入江雄三(現・取締役)が明かす。 「最初は開発事業局のほうに話が持ちこまれたが、リスクの多い話で、積極的に関与できる話ではなかった。途中で死んだとか挫折したら、責任はどこがとるのか、それもはっきりしない。躊躇しているうちに、今度は文春の役員からうちの役員に直接話があって、トップのほうの話になってきた。植村に会ってみたら、これが人柄が実によくてね、みんな惹かれてしまって、それじゃバックアップしようか、ということになったわけだ」  当時、サッカーの王様、ペレのサヨナラゲームを扱って大成功をおさめたことも、その背景にあったようだ。こうして入江局長、西郷隆美部長、高橋治之副部長の三氏が中心になり、政財界、スポーツ芸能界、学者、在日外国人などあらゆる分野の知名人を動員して後援会が発足し、電通に後援会事務局が組織された。電通は、植村直己の冒険を成功させるための募金ということで「一口千円募金」を始めた。そのためには宣伝が必要だ。あらゆるメディアを使って植村の名前が喧伝《けんでん》され、Tシャツやワッペンが街に氾濫した。金を集めるために宣伝する。宣伝するためには金が要る。現代の錬金術師《れんきんじゆつし》たちの手によって、皮肉なことに予算がどんどん膨張拡大していった。  植村はこのことがあとでどうなって自分にはね返ってくるのか、想像もできないままに、ただ夢の実現に賭けて、入江たちに頼むばかりだった。 「ぼくはなんでもしますから、どうか北極点に行かしてください」  一口募金には日本中から驚くほどの反響があった。お年玉を送ってきた子供、オモチャを買わずに送ってきた幼稚園児、老人たちからもわずかな貯金をさいて送ってくれる金がある。いずれも浄財だ。添えてある手紙が世相を反映していた。一九七七年という年は、青酸コーラ殺人事件や毒入りチョコレート事件が起こり、騒然とした。前年にはロッキード問題で田中前首相が逮捕されて、その尾が暗く引いている。植村の冒険が人々の胸に夢を与え、ロマンの灯をともしたともいえよう。この年、王が七五六号の本塁打世界最高記録を樹立。国民栄誉賞第一号に選ばれた。  これまで植村がやってきた徒手空拳の冒険と異なり、今度の北極点・グリーンランド縦断は、全てにわたって大規模で最新科学技術を駆使するものとなった。もう一人、重要な人物が登場する。  吉田宏は一九一三年(大正二年)生まれの七十二歳。慶大経済学部を出て外国系商社に四年勤めたあと、IMC(米国の化学肥料会社)に入社。以来三十年、日本支社代表として活躍、現在は顧問をしているが驚くほど内外に広い交友関係を持つ。百十九ヵ国、千六百万名が加盟しているボーイスカウトの日本連盟理事兼国際委員長で、十二名いる世界委員の一人、むろん日本ではただ一人という肩書も持つ。  吉田は学生時代は剣道をやっていたが、十四年前、IMCの大株主でフランスの企業金融会社パリパ社が日本に進出した際、フランス人と付き合うようになり、その縁で六十歳のときラツールロンド峰、グラン・パラディソ峰、そしてモンブランをイタリア側から、なんと一週間で全て登ってしまった。それを機会に日本山岳会に入会し、そこで植村直己と出会う。 「植村君が一万二〇〇〇キロの旅から帰ってきた年の夏、日本山岳会で報告があったときに挨拶を交わしたのが最初ですが、それから間もなく当時炉辺会の会長をしていた交野武一さんから、植村君が北極点・グリーンランド縦断を計画しているから協力してほしい、といわれて、彼に紹介されたのが深くお付き合いするきっかけでした」  吉田も植村の情熱に魅せられた一人だ。吉田は国際渉外関係の仕事を買って出た。植村の夢が最終的に南極にあることを知った吉田は、北極点・グリーンランド縦断の成功がその糸口となるよう、そのためにはアメリカ国内にパブリシティになるように、全世界に一千万部の部数を誇る『ナショナル・ジオグラフィック』誌に話をつけた。 「一千万部のうちアメリカ国内だけで五百万〜六百万部という影響力がありますからね。知人の編集者に計画書を出したら、即座にオーケーが出た。千五百ドルと写真一枚につき四百ドル払うという条件でした」  のちに植村の酷寒に耐えた凍傷の顔が、日本人では初めて『ナショナル・ジオグラフィック』の表紙を飾り、二十八ページにわたって迫力のある写真と文章が掲載された。  それから吉田は、スミソニアン研究所のリー・ハウチンズ博士を紹介した。このハウチンズ博士の知遇を得たことで、植村はDCPと呼ばれる特別な無線機を提供してもらうことが可能になった。DCPはNASA(米航空宇宙局)が開発したもので、植村はこれを橇に積み、スウィッチを押しておく。  気象衛星ニンバス六号が地球の周囲を一時間五十五分の周期で一周しているが、このニンバス六号がDCPの発している電波をキャッチし、植村の現在地、気温、風力、天候を記録し、これをワシントンの宇宙科学センターに送る。NASAに入ったデータはスミソニアン研究所のハウチンズ博士を通して、アラートに建設する植村のオーロラ・ベースに無線で送ってくれる。オーロラ・ベースと交信すれば、植村は自分の位置を約一日遅れで正確に把握できる。別ないい方をすれば、植村はDCPのスウィッチを押しているかぎり、人工衛星によって見守られているわけである。  この他にも、ロケーターという非常用携帯無線機を積む。これは突然海にはまりこんだような緊急時に使うもので、国際航空無線規則によって「|MAY《メイ》・|DAY《デイ》」を三回繰り返す。すると北極圏上空を飛んでいる飛行機がこれをキャッチし、最良迅速な救助態勢をとってくれる仕組みになっている。莫大な費用をかけ、こうした最新科学装置を装備したことから植村の冒険は一部から「タライの中にボートを浮かべているようなもの」と非難される。しかし、それが妥当な批判か、中傷ぎみの非難であるか、植村の行動そのものが答を出すことになるのである。  植村はやることが山ほどあった。いくらDCPが作動しても、磁気嵐でオーロラ・ベースと交信不能になれば、たちまち危険な乱氷群の中に孤立し、自分の位置を見失う。あくまでも頼るのは自分だけだ。そのためには天測を正確にできなければならない。植村は西堀に六分儀《ろくぶんぎ》の使い方を習うが、のみこみが悪い。ついには公子も一緒に習うことになった。公子のほうが覚えが早い、とほめられるしまつだ。しかし、西堀は植村の努力を認めている。 「サイン、コサインの大嫌いな男がよう勉強しとった。それはよくわかる。今までは地球が平面であるような感じでいたのが、今度は地球は丸いという感じでいかんわけやから、天測をしっかり覚えないと大変なことになるわな。地球のテッペンへ向かうのやから、緯度と経度の関係をよう覚えんと、アラスカへ行くか欧州へ行くか、わからへんことになっちゃう(笑)」  植村の六分儀の技術は、「まだいささか頼りない」ところがあったが、ここに強烈な助っ人が現われた。冒険の成否を決めるのは、ベース(基地)を預かる人が経験が深いかどうか、それに大きく左右される。ことに植村のように単独行では、最悪の場合、ベースからの交信、指示、アドバイスが生死を分けることが十分ありうる。  多田雄幸。一九三〇年、新潟県|長岡《ながおか》市生まれ。旧制新潟高校では作家の野坂昭如と同期だったが、今ではヨット歴二十年を越す海の男で、一九七五年に沖縄海洋博記念太平洋横断単独ヨットレースに出場して、四位に輝いた。  多田は、ヨットとアルトサックスをこよなく愛し、自由を求めるがゆえに独身。抽象画も描くかと思うと座禅も組む。どこか飄々《ひようひよう》として人生を楽しんでいるところがあった。個人タクシーをやって生活をたてているが、自由への希求が優先する。西堀は一九七三年、世界第五位の高峰ヤルン・カン(八五〇五メートル)に初登頂の隊長をつとめたことから、『ヤルンカン号』というヨットを当時油壺のヨットハーバーに繋留《けいりゆう》していたが、その隣りが多田のオケラ号で、海に行きたくなると、多田は西堀を助手席に乗せ、個人タクシーからたちまち�|タダ《ヽヽ》�タクシーに早変わりした。そんなことが二、三度あった。この多田が別の用事でひょっこり西堀のところを訪ねてきた。西堀がベースを守る適切な人がいないことを嘆くと、多田が応じた。 「先生、私、行きます」 「行きますって、向こうへ行ったら一年間も無収入かもしれんで」 「いや、実は先生、追突されて背骨を圧迫骨折してギブスをはめているんですけど、金は加害者のほうから入りますから」 「そんな骨の折れた奴に、マイナス五〇度にもなるところへ行かせられるか、それはできん」  西堀があきれると、多田が人なつこく笑った。 「ギブスをつけていても、サポートはできますから」 「そりゃ、ユーコーが行ってくれるとうってつけやけどな」  西堀からすれば、多田ほど「うってつけの男」はいなかった。ヨットマンだから天測はできるし、長距離の無線技術を持っている。サンフランシスコで英会話も覚えてきた。なににもまして、長い孤独の航海に耐えた経験から、乱氷群と一人で戦う植村の気持ちがわかり、適切な助言と激励をすることができる男だ。こうして多田がベースを守ることが決まった。 「植村さんが一万二〇〇〇キロやったときは、すごい男がいるもんだ、と尊敬しましたよ。だから、めし炊きでもいいから行きたいな、と思っていたんだ。おれは一人で身が軽いからね。ヨットの世界では船長がめしを作って食わせる、おれはめし炊きになれているんだ。そして実際に必要なのは、カッコいいことばかりいっている人間じゃなくて、めし炊くような男なんだよ」  多田が十一歳上だが、極地の男と海の男は、深い男の友情で結ばれていく。  態勢は次第に整っていくが、植村は一種の狂乱状態にあった。これまでの登山と冒険は、自分が考え、自分で準備し、自分で行動するという、いわば�手づくりの満足感�があったが、今回は自分の知らないところで人の手が動き、国民が注目しているという状態の中でどんどん勝手にことが運ばれていく。植村はいい知れぬ焦りを感じた。  結局、行動するのはこのおれなのだ。おれが全ての状況を的確に把握しないで、冒険に出たらどうなるか。植村は隔靴掻痒《かつかそうよう》のいらいらを感じた。天測も十分には自信がない。現地の状況もよくつかめていない。植村は七七年の四月にリゾリュートに偵察に行った。一万二〇〇〇キロの旅のとき、グレイスフィヨルドで親切にしてもらったベーゼルことベゾがリゾリュートに移ってきていた。ベゾが話す。 「ナオミは二十日くらい家に居候《いそうろう》していたが、六分儀を持ってきて盛んに練習していた。このとき初めて北極点のことを聞いた」  北極点を成功させるためには補給フライトの問題を解決しなければならない。その年の九月、植村は再びリゾリュートに飛び、ベゾの家に七日間滞在、ベゾの協力のもとに北極点、グリーンランド遠征に必要な政府機関への諸手続をすませた。そして補給フライトのチャーター便の打ち合わせ、ベースを置くアラートへドラム缶入りの燃料を百本も運びこむなど準備に忙殺された。  帰国すれば、また細かい仕事が待っている。それを一つずつ確実にチェックしなければ、遠征には飛び出せない。いい加減な準備で出発すれば、死は確実に自分をのみこむ。その間にも間断なく打ち合わせが入る。準備と打ち合わせの対人関係で、植村はくたくたに疲れ、気が狂いそうだった。そこにまた一大変事が持ち上がった。  吉田はプレスクラブのメンバーでもある。植村の今回の遠征を世界的にアピールするため、植村は外人記者たちの会見に応じた。植村はそこでハスキー犬のことにふれた。 「命とも頼むのは犬たちですけれども、犬にもいろいろタイプがございまして、よく働く犬もいれば、怠けてメス犬の尻ばっかり追っている犬もいる。乱氷群に立ち往生して遅々として進まず、苛々《いらいら》しているときなど、怠けている犬を見るとカーッと頭にきて、こらッ、働かないと食べちゃうぞ、とドナってしまうんですよね」  植村は半ば冗談のつもりでいったのだが、ニューアンスがうまく伝わらず、外国記者はそのまま打電した。その発言が問題になって、デンマーク大使館から速達便がきた。 「動物愛護の精神にもとづき、グリーンランド遠征は許可しかねる」  びっくり仰天した植村は、西麻布《にしあざぶ》にある吉田の家に駆けこんだ。吉田が話す。 「私はまだ帰ってなかったんですがね、夜になって帰ると、植村君が応接間の隅で青くなって待っていた。翌日、私がデンマーク大使館のほうに詳しい事情を説明して誤解をとき、この問題は解決しました」  植村はこの頃しきりに、「おれ、苦しいよ。頭が痛いことばっかりで」と、悲鳴をあげている。その悲鳴の中から、植村のホンネがもれる。同期の中出水につい口にした。 「おれ子供がほしいよ。正直いって、今度は生きて帰れるかどうか五分五分。万一、不幸な事態になってもおれの血を受け継いでくれる子孫を残して置きたいんだ。ちょっとキザないい方かもしれないが、今度ばかりはそんな心境なんだ(文献9)」  結婚前に修がいったことの意味が、今になって植村の心をとらえていたのかもしれない。病弱な公子は子宝に恵まれなかった。いちばんつらい気持ちでいたのは当の公子だったろう。植村は、そんな妻の奥底の気持ちまで斟酌《しんしやく》する余裕がなかった。植村には愛する妻は妻、冒険は冒険とはっきりと割り切れるところがあった。植村にはこれまでの冒険にない重圧感がのしかかっていた。  出発前の一月二十五日、芝の東京プリンスホテルで、三木武夫前首相はじめ政財界のお歴々、各界の知名士を集めて植村直己の壮行パーティが開かれた。資金作りを兼ねた二万円パーティで、植村はただ深々と頭を下げ通しだった。 「私の気ままな計画に、こんなにたくさんの資金をいただくとは、私は泥棒のような人間です。申しわけありません」  北極点を史上初めて単独犬橇で目指す旅と前人未到のグリーンランド縦断という二つの旅を一挙にドッキングさせた壮大な大冒険が、今始まろうとしている。  だが、北極点を目指すのは植村だけではなかった。植村よりすでに何年も前から計画していた日大隊も同じ時期に北極点を目指す。日大山岳部は、他の大学が高い山を目的としてきたのに対し、ひたすらグリーンランドの極地にこだわってきた。  早くも一九六五年に、東グリーンランドの未踏のフォーレル峰(三三六〇メートル)に調査隊を派遣した。隊長は宮原巍で、のちにヒマラヤにエベレスト・ビュー・ホテルを建てた男である。隊長以下七名のメンバーの中に、まだ学生の池田錦重と多和田忠がいた。翌六六年に池田たちがフォーレル峰の登頂成功、六八年は池田を隊長とする横断隊が史上初めてグリーンランド横断に成功した。その後も極地とかかわりを持ち、一九七八年、いよいよ北極点を目指すというときに、植村もかち合うことになった。  池田錦重は日大工学部建築科卒で、一級建築士の資格を持つ。植村より三つ年上で、小柄な植村に対し、九〇キロの巨体を誇る。豪放磊落《ごうほうらいらく》。池田と植村は�因縁�が深い。エベレストのとき、池田も要員に選ばれたが、第一次偵察のときは仕事中にグラインダーで手を切り、第二次のときはオートバイで転倒して足を骨折、本隊結成以前に再度骨折し、三回とも隊員から外れた。池田が笑う。 「エベレストは運がなかった。植村君は登ったけど、ぼくは三回ともコケちゃった。でも負け惜しみじゃないけど、オートバイで骨折したとき、ああ、これで助かった、と思った。エベレストで成田が死んだでしょ。おれ、山で死にたくなかったもの」  池田が率いる隊員の中には、エスキモーを連れて参加するシオラパルクの大島育雄がいる。支援する日本テレビは岩下莞爾のもとに、やはりシオラパルクで一年越冬した中村進がカメラマンとして入り、北極点まで走る決意でいる。日大隊と日本テレビをつなぐ役目は、五月女次男が総合マネージャーという形で果たす。五月女はのちに一九八五年に和泉雅子の北極点挑戦のサポートもすることになる。  単独犬橇とチーム編成という違いはあるが、北極点を目指す点では同じ。植村にとっては容易ならざる相手である。両方とも、表向きは「相手を意識しない」と発言しているが、意識しないほうがおかしい。そのうえ、植村隊には毎日新聞、毎日放送、文春がつき、日大隊には日本テレビ、読売新聞がついている。「北極点にどちらが先に駆けつくか」、マスコミはそれをあおり、世間の注目もその一点に集中していた。  しかも、ヨットの堀江謙一も『マーメイド五世』で、氷海から極点を帆走しようという計画を発表した。『マーメイド号』で一九六二年、�太平洋ひとりぽっち�の横断をやってのけ、その後も無寄港単独世界一周など数々の記録を作っている堀江は、今度は全長九・五メートル、最大幅員五メートル、マスト高一二メートルのアルミ合金製三胴体型氷上ヨットで、極点を目指すという。少し遅れてプロスキーヤーの三浦雄一郎も北極の�山�を滑るという計画を発表して割りこんでくる。  日本の冒険野郎たちが、こうして一度に北極圏に集結、一九七八年は一大�北極ブーム�の年となった。過熱化するマスコミの煽動《せんどう》の中で、植村はいつもその中心に立たされた。一口募金で協力した無垢《むく》の幼稚園児や子供たち、あるいは老人たちの夢がかかっている。二万円パーティに集まった人たちの思惑がからまっている。植村は否応《いやおう》なしにそれらの期待感と重圧を体中に意識しないわけにはいかない。国民注視の中で、いよいよ激烈な北極点一番乗り争いが展開していくのである。   2 「公ちゃん、助けてくれ!」 「植村君、私からのプレゼントだ。お守り代わりに肌身離さず持っていなさい。万一の場合、ナビゲーションに必要なものと、生き抜くために必要なものは全部ここに入っているからね」  西堀栄三郎が、出発でごった返す羽田空港のロビーで、ビニールに包んだ小さな品物を植村に渡した。植村はそれを押し戴くようにして受け取る。天測表、定規、地図、少々濡れても使えるマッチなど、万一、橇や犬を失った場合でも酷寒の大氷原から生還するためのサバイバル・キットだった。天測表の余白には「平常心、ほほえみを忘れないで」と書いてあった。  西堀はこのとき日本山岳会会長で七十五歳。植村は三十六歳。師弟の心の交流がジーンと伝わってくるような一瞬だった。  一九七八年(昭和五十三年)一月三十日午後六時すぎ。国際線出発ロビーの特別待合室では、彼を支援してきた政治家の石田博英らの後援者、山岳関係者、土肥ら明大OBなど約三百名が、最後の激励をした。妻の公子はその後ろにひっそりとたたずんでいる。植村と公子は一瞬、目と目でとらえ合ったが、特別の言葉は交わさなかった。いつでもそうなのだ。 「じゃ、行ってきます」  植村は深々と一礼すると、「ガンバレよ」という声と拍手を背にして、搭乗口のほうに向かって行った。公子は、必ず帰ってきてね、と心でつぶやいた。夫が壮大な冒険に旅立つ日に涙は禁物だろう。公子はじっと耐えていた。植村はコール天のジャンパーの中に、真新しいセーターを着ていた。常陸宮妃殿下からの心尽しだった。  一万二〇〇〇キロの旅から帰国したとき、植村はただ一頭完走したアンナと、養父から譲られたイヌートソア兄弟とイグルーの四頭を日本に持ち帰った。東京の狭い家には置けないので、アンナとイヌートソア二号を旭川《あさひかわ》の旭山動物園に、イグルーとイヌートソア一号を帯広《おびひろ》動物園に預けた。アンナは帰国した年の八月に三頭、翌年に一頭の仔犬を生む。  そのうちの一頭のオスが、一度植村に連れ戻されてから、常陸宮妃殿下に贈られた。犬は金太郎と名づけられて可愛がられたが、大きくなりすぎて今は帯広に戻っている。セーターはそのときの妃殿下からの御礼だった。  佐藤孝子は金太郎を旭川に連れ戻しに行った日のことをよく覚えている。植村夫妻と佐藤夫妻の四人で旭川に向かったが、気流が悪く、飛行機が大揺れに揺れた。乗客の中には気分が悪くなって嘔吐する人もいた。植村はしきりに「寒い寒い」を連発した。それを見て孝子が笑った。 「あら、北極でも平気な人が、意外と寒がり屋さんなのね」  公子によると、このとき植村は風邪をひいたという。「風邪はよくひきました」という公子の言葉は、植村が体力的に決してスーパーマンではなかったことを物語っている。  植村が出発して四日後、池田錦重の率いる日大北極点遠征隊の本隊六名が出発、そのさらに十日後の二月十三日、堀江謙一と支援隊が、バンクーバー、イエローナイフを経由、リゾリュートを目指して飛んでいった。  リゾリュートは北緯七四度四三分、西経九四度五九分、カナダ、北西諸島のコーンウォーリス島南端にある最果ての町だ。人口約三百名のうち、白人とエスキモー人が半々を占め、白人はほとんどが空港関係者が多い。この小さな町に、数十名の日本人が一挙に集結したのだから、現地の住民たちがなにごとかと目をむいた。  折も折、少し前にソ連の宇宙衛星がカナダのツンドラ地帯に墜落するというセンセーショナルな事件が勃発、アメリカ、カナダをはじめ世界中から報道陣が殺到して、リゾリュートのホテルもイエローナイフのホテルも満員だった。植村はその報道陣につかまり、時ならぬインタビューとなった。�米ソ対立�が軍拡競争を生み、宇宙衛星が墜落して放射能汚染の危険性が北半球全域をパニックに陥れようとしている。そこにまたまた単独で北極点を目指すという植村が現われた。  アムンゼンやスコットのように国益を争う探検家の時代はとうに過ぎ、日本から三隊も同時に北極点を目指すのは�平和�な時代の産物である。報道陣にとって、植村によって象徴される冒険家は、宇宙衛星墜落と好対照で、いわば�戦争と平和�の好一対をなし、両方を取材することは、一種のスクープとなった。  植村はリゾリュートから、グリーンランドのエスキモー村カナックへ入った。ここはシオラパルクの隣りの村で、エスキモーの知人友人たちが多い。植村はここで犬を調達し、橇を入手した。養父のイヌートソアがわざわざミキショという名前の犬を一頭届けてくれた。これでようやくなんとか犬のメドがついた。 「息子ナオミよ、わしは北極点へ行くということがどういう価値があるのかわからない。ナオミがやるのだから、おまえにとってはきっと大変なことなのだろう。このミキショをリーダー犬とするとよいだろう。息子よ、おまえは男の中の男だ。父さんも母さんも成功を祈っている」  植村は、いつもと変わらぬ養父母の深い愛に、目頭が熱くなった。  この直後、植村のもとへ驚くべき電報が入ってきた。 「日大隊の犬百十四頭が、空輸中に事故で死んだ。日大隊はすぐに補充の買いつけにそちらに向かうから、ただちに犬を確保せよ」  正確には百十六頭だが、どうして頑強なはずのハスキー犬がこのように一度に死んだのか。日大隊は、チューレから百八十六頭の犬をハーキュリーズに乗せて、アラートまで運ぶことになった。大島育雄と中村進、それにエスキモーが一人付き添った。犬は三段にした小屋に入れられ、念のため鎮静剤のトランキライザーを、一頭に一錠ずつ肉にまぜて与えた。隊長の池田は、ハーキュリーズが無事に離陸するのを見て、これで前半のヤマは越えたと一安心し、DC3に乗り換えて後を追った。  ところが、ハーキュリーズの操縦士が犬の扱い方を知らず、寒さのために暖房を入れてしまった。大島が気がついたときは遅い。機内の温度がどんどん上昇した。ハスキー犬は酷寒には強いが、暑さには弱い。断末魔の悲鳴をあげてもがき苦しむ。大島が猛り狂ってヒーターを止めさせたときは遅かった。小屋には各段に穴があいていたが、気が狂ったように苦しむ犬がそこから首を出す。そのため穴がふさがって内部の犬がほとんど全滅したのである。暖房と酸欠が大量死の原因だった。生き残った犬は七十頭、それも使いものにならなくなったのが多い。アラートに着いて事故を知った池田は愕然とした。 「集めた犬たちは優秀な犬ばかりで、これで植村さんなんか問題じゃない、と自信を持っていた。一時は大幅に計画を変更しなければならないと深刻になったけど、もう一度エスキモーたちを説得した。一頭ずつ集めるのではなく、エスキモーが持っているチームごと借りる形をとった。だから終わったときはみな返しました。一チームで十頭前後ですね。そのほうが走りがいいんです。大島でも一チーム作るのに二、三年かけたといってますから、植村さんのようにバラバラに買い集めたのではダメですね。これでようやくまた態勢を立て直すことができた」  植村や日大隊と相前後して、英国の探検家ウォーリー・ハーバートとアラン・ギルの二人も、グリーンランド一周を目指すため、犬を買い集めていた。  ウォーリー・ハーバートは一九三四年十月生まれ。自ら隊長として三名の英国北極横断探検隊を率い、一九六九年、犬橇で北極点に立ち、さらにスピッツベルゲン近くに上陸して、北極海表面横断に成功した最初の男となった。ウォーリーは、北極点に着いたとき、エリザベス女王にこう電報を打った。 〈英国北極横断探検隊はアラスカのバロー岬を出発して四〇七日ののち、グリニッジ標準時の本日四月五日〇七〇〇時、推測航法により北極点に到達したむね、謹んで陛下にご報告いたします。横断隊のわが同僚たち、すなわちアラン・ギル、英陸軍軍医部所属ケネス・ヘッジス少佐、ロイ・カーナー博士は、バロー岬駐在のわれらの無線連絡将校であるチャーチ英空軍少佐ともども、心身ともに元気であり、探検隊が強行軍と天佑により本年夏至までにスピッツベルゲンに到達し、わが国の名において初の北極地表横断を完了しうるものと期待しております。(署名探検隊長W・W・ハーバート)(文献15)〉  この電報を打ったあと、位置の計算を終わったアランが、北極点からまだ七マイルも離れている、という。あわててまた前進するが、四時間たっても距離が少しも進まない。ハーバートたちが走っている氷盤が北極点と反対の方向に漂流していたからである。そのうち今度はまた逆の方向、北極点のほうに流されている。ハーバートたちは、一晩中漂流を続けている間に二度目の北極点横断をするのに違いない、とあきらめて寝袋にもぐってしまった。  ここできわめて重要なポイントがある。つまり、北極点というのは確実に存在するが、それはある意味で「幻の極点」でもあるということだ。南極のような大陸であれば、極点は確実に踏むことができる。しかし北極点の場合は、一面が氷盤におおわれているが、その巨大な氷床でさえ実は北極海を一日二、三キロ、早ければ一〇キロのスピードで漂流している。したがって自分では計測した北極点の上にいるつもりでも、氷床は動いており、いつか北極点からズレてしまう。ハーバートは、北極点の上に足を踏まえるのは「頭上を旋回する小鳥の影を足で踏もうとするようなものだ」といっている。  植村がその「幻の極点」に挑もうとしている。  植村がベースをおいたアラートは、北緯八二度三〇分、西経六二度三〇分、カナダ最北の基地から約二キロ離れたところにある。カナダ鉱山省が建てた小屋の一つを借りたもので、そこをオーロラ・ベースと命名、多田雄幸と鈴木喜久治(学習院大応援団長)が連絡員として滞在し、通信と補給にあたることになった。補給フライトは、リゾリュートにあるケンボレック航空とすでに話がついている。オーロラ・ベースには文春の安藤幹久らの報道陣も滞在、あとで文春の設楽敦生も合流した。日大隊も最初この小屋を使っていたが、あとでヘクラ岬にベースを建設した。  二キロ離れたカナダ軍の基地は、対ソ戦略の重要な最北の基地で、約二百名の軍隊が六ヵ月の任期で勤務する。植村たちは一度ここに招待された。極北の地に文明社会が再現されていた。いないのは女だけである。  多田が兵隊たちの部屋をのぞくと、どの兵隊たちも部屋の壁に女性のヌード絵を張ってある。ヌードはパズルのように百八十に分かれ、それぞれ番号がついている。兵隊たちは一日過ぎるたびに、180、179、178……と番号の部分を塗りつぶしていく。辛い極北での勤務日数をそうやって消していくのだ。そして最後の1は、女性のソノ部分になっているという仕組みだった。多田が感心したように話す。 「それから将校クラブには、ここを訪れた女性は必ずはいていたパンティを記念においていくことになっていて、それがズラッと本人の写真に飾られているんですよ。一番人気があるのはトルドー首相夫人のものだったね」  報道関係者たちは、文明が恋しくて、たびたびその基地を訪ねてご馳走にあずかったが、文明に背を向けた植村は、二度と基地に足を向けなかった。  出発前、植村隊と日大隊は、お互いの健闘を祈って合同夕食会を開いた。日大隊はビフテキとナメコ入りのうどんを提供し、植村隊は多田が寝ないで二十数人分の餃子《ぎようざ》を焼き、ヒジキの煮物を出した。寒さのために醤油が凍ってひどく苦労した。ウイスキーさえ凍る寒さなのだ。合同夕食会はなんとなく気まずい雰囲気のまま終わった。植村は最後まで黙々と後片づけをしていた。  三月五日、植村は、北緯八三度〇六分、西経七一度〇二分のコロンビア岬から、北極点を目指して、いよいよ自然との戦いを開始した。氷点下五一度。頼るのは自分と十七頭の犬だけだ。全身が緊張して、心が昂ぶっているのが自分でもわかる。北極圏の太陽はまだ完全には戻ってこず、日の出前のような薄明りの世界である。  ルート偵察に時間がかかり、結局、犬橇を走らせ始めたのは七日だった。その二日後には早くも生命の危機にさらされた。テントの中で眠りについたのが昨夜十二時すぎ。犬たちがメス犬をめぐって喧嘩している声をうつらうつら聞きながら、そのまま眠った。明け方、異様な予感がしてふっと目がさめた。犬たちが異常なくらいうなり声をあげている。ノッシノッシと響く音がする。巨体を揺がすような音だ。 「白熊の来襲だ!」  いっぺんに血の気がひいた。恐怖で心臓が一瞬とまった。ライフルには弾がこめてなかった。もう弾をこめる余裕がないほど、白熊はすぐそばに近づいている。一万二〇〇〇キロの旅でも白熊は何度も見たが、これほど間近に襲われたのは初めてだった。油断が招いた恐怖に、植村は後悔したがもう遅い。どうしよう、どうしよう。生きのびる可能性があるとすれば、そうだ息をしないことだ。頼む、おれを見逃してくれ。食糧を全部やるから食って早く退散してくれ。 〈枕元のすぐテントの外で、ブフーッ、ブフーッ、と臭いをかぐ鼻息がすると思ったとたん、巨大な足がテントの上から横向きの私の頭を一瞬押さえつけた。 「ああ、俺はもうだめだ」  もうだめだ。この世の終りだ。白熊に食べられてしまう。バリバリとテントが引き裂かれた。女房の顔が脳裡をかすめた。 「公ちゃん、俺は死ぬよ」  身体が外からぐいぐい押され、シュラフごと一回転して下向きになった(文献16)〉  植村は心の中で、「公ちゃん、なんとかして俺を助けてくれ」と祈った。白熊は外にある食糧を手あたり次第に食うと、向きを変えて遠ざかっていく。助かった。植村はそれでも注意して物音一つたてなかった。殺されないですんだのは奇蹟的だった。植村は今こうして息をしていることが不思議な気がした。外をそっとうかがうと、食糧という食糧は全部食い散らかされ、テントのポールがひん曲がっている。鯨の脂肪の入ったポリバケツは、白熊の歯でさながら紙屑のようにボロボロに切り裂かれていた。足で頭を押さえられたとき、少しでも動けば一撃をくらっていただろう。  恐怖からさめて、植村はあわててライフルに弾をこめ、白熊の消えた足跡を追った。五〇メートル先の乱氷の中に白熊がいた。 「チキショウ、この野郎、撃ち殺してやる!」  植村は憎しみをこめて引き金を引いた。白熊は乱氷の中へ悠然と逃げていった。  幸い、犬たちは遠くに逃げずにいた。なんて奴らだ、白熊が襲ってきたのに鳴いて教えもしないで。植村はブツブツ怒りながら、犬たちを集め、テントを修理した。やっと生きた気持ちがもどってきたところで、オーロラ・ベースを呼び出し、ことの顛末《てんまつ》を伝えた。多田たちが息をのむのがわかった。  翌十日の朝七時すぎ、多田や設楽らは、植村からの緊急無線で叩き起こされた。 「エー、臨時ニュースを申し上げます。エー、臨時ニュースを申し上げます。ただ今、昨日の白熊が再び襲ってまいりまして、エー、襲ってきましたが、撃ちました。ついに仕留めました」  植村の興奮した声が伝わってきた。多田も緊張して聞き直す。 「どんな状況ですか、教えてください、どうぞ」 「エー、白熊が五〇メートルほど近づいてきたときに、心臓を狙って撃ちましたが、命中したのは心臓ではなくて、テキが逃げようとしたもんですから、エー、追撃しまして、四発目で撃ち殺しました。やった、やりました」  それから自慢話になり、長々と交信していると、多田たちの小屋にアラート基地のドクターが入ってきた。それを聞いてドクターも植村と話を交わす。後日、アラート基地で出している『ポーラー・トーク』という新聞に、オーバーな記事が出た。曰く。 「当ベースのドクターは、直後にその無線を聞いた。ナオミは左手に無線機を握りつつ、右手にライフルを構え、襲いくる白熊の大群を狙い撃ちしながら、私と話した」  植村は撃ち殺した巨体を解体し、犬たちに新鮮な生肉をいやというほど食べさせてやった。午後四時半すぎ、アラート・ベースから補給物資を積んだ飛行機が、昨日の交信で頼んだ白熊によって損傷されたテントや食糧などを投下していった。これでまた旅が続けられる。  日大隊は、ベースキャンプを当初植村と同じコロンビア岬に予定していたが、犬の事故で計画を縮小したため、八〇キロ前のヘクラ岬に移した。日大隊は池田以下十名の隊員が、十一名のエスキモーを使って、極地法で北極点へトライする予定だったが、これも崩れた。  三月十二日、池田、多和田、大島以下五隊員とエスキモー十一名、報道陣六名の総勢二十二名が、十二台の橇に分乗して、いよいよ北極点へ向けて出発した。百六十五頭の犬が引っ張る。極点まで直線距離にして七八二キロである。  エスキモーは岩下の人柄を慕い、大島の誘いに応じた者たちで、最年長は五十二歳のカウンナ。彼は昔気質のエスキモーで、アメリカやカナダの雑誌に「グレート・ハンター」と紹介されたこともある狩猟の名手だ。イヌートソアが植村の養父なら、カウンナは大島の親代わりだった。  エスキモーの中にピーター・ペアリーとタリリャンゴアの兄弟が参加していた。この兄弟は、人類史上初めて北極点に到達したアメリカ人、ロバート・ペアリーがエスキモー女性との間にもうけたカーリー・ペアリーの子供で、つまりペアリーの孫にあたる。  ロバート・ペアリーは一九〇九年(明治四十二年)四月六日、黒人従者のマシュー・ヘンソンと四名のエスキモーとともに五台の犬橇を走らせ、世界で初めて北極点に到達した。ペアリーは、この偉業を達成するまでに二十五年間も極地に住み、十数度もトライ、極地に人生のすべてを賭けた男だ。ペアリーはこのとき、エスキモーの各村ごとをそっくり極地法の中に取り入れて次々と北進し、五十数名のエスキモーと百二十頭の犬と二十台以上の橇を駆使した。そしてついに北極点を踏むことに成功したのである。植村は、一万二〇〇〇キロのとき、ヨーク岬の四五〇メートルの岩峰に立つロバート・ペアリーの銅像を発見して、北極点の大先達の偉大な業績に感動した。  このペアリーの孫ピーター・ペアリーはこのとき三十九歳。背は一六七〜一六八センチ、黒い髪、黒い目、黒い口髭《くちひげ》が精悍な感じで、「シオラパルクの狼」と呼ばれていた。中村進が話す。 「男前でキップがよく、頭もいい。グリーンランドのエスキモーでもナンバー・ワンじゃないですか。女という女がみんなホレる感じで、このときはシオラパルクの村長をしていました」  ピーターも一九六九年、イタリアのモンジーノ隊に参加して、コロンビア岬から北極点まで踏破している。これは史上四番目の偉業で祖父のあとを継いだことになる。タリリャンゴアのほうはひとくせあって、あとでストライキの首謀者の一人となる。さらに、黒人従者マシュー・ヘンソンの孫、アバタ・ヘンソンも日大隊に参加しており、そういう意味でも日大隊はエスキモーの精鋭を揃えていた。  植村は乱氷の中で悪戦苦闘していた。大小さまざまの氷塊が無秩序に重なり合い、五キロ、一〇キロと続いている。犬たちを叱咤激励しても動かない。登り切れないのだ。そのたびに植村は氷塊を砕いてルートを作るしかない。一日のうち半分以上は氷を砕き、犬橇の後押しをし、全精力を使い切る感じだった。  三月二十二日、アラート・ベースと交信したところ、グリーンランドを一周する予定で西海岸チューレを出発したウォーリー・ハーバートとアラン・ギルの二人は、凄まじい乱氷群に立往生し、飛行機でピックアップされるというニュースだった。  東京の西堀栄三郎からオーロラ・ベースにメッセージが届いていた。 「大変苦しいだろうが、最後の最後まで頑張れ。闇夜のあとには朝がくる。幸運は必ずやってくる。冬来たりなば、春遠からじ」  植村は励まされて、苦闘を乗り切る。苦しい旅を続けていると楽しみは食い物だ。植村は頭にきていることがあった。出発前に養父のイヌートソアが、大好物のキビアックとイカルテという干魚を届けてくれた。旅で大事に食べようとビニールに包んで燃料用のドラム缶の上においたところ、いざ出発というときに誰かが持っていってしまったからだ。  旅が順調なときは、アラートを呼び出して、植村がボヤいた。 「あのキビアックはどこへいってしまったのでしょう。エー、もし、エスキモーの誰かが持っていったとしたら、ぼくは断じて許しません」  旅の途中、何度もこの交信が入るので、多田や設楽らは植村の執念深さにあきれた。そのうち日大隊のエスキモーたちがストライキによる分裂と極地法によって引き揚げ始め、アラートの小屋に寄った。植村は、シオラパルクに帰るエスキモーの一人を無線に呼び出し、「イヌートソアによろしく伝えてくれ」といったあと、二ヵ月前のキビアックの話をまたくり返した。 「おれのキビアックをドラム缶の上から持っていった奴は誰だ?」  さすがにあきれた設楽が、植村に頼まれていた橇をカナックに取りに行った際、キビアックを十羽なんとか入手して補給食糧の中に差し入れた。そのときの植村の喜びようといったらなかった。  もう一つ植村が驚くことがあった。犬の中に妊娠していた犬が混じっていたのだ。四月十日、メスのシロが仔犬を産んだ。迷惑な話だったが、大乱氷群をただ一人孤独に乗り切っている植村の慰めともなった。次の補給フライトで戻してやった。どうも犬の調子が良くない。そんなとき、日大隊の長老、カウンナが引き揚げるという話を聞いた。早速オーロラに交信して、カウンナにかけあってもらい、スノーモービルと交換で犬九頭を譲り受けた。カウンナが鍛えたチームだけに、今度はよく走った。最後の追いこみだ。植村はどうやら日大隊よりも先行しているようだ。  リゾリュートでは、堀江の『マーメイド五世』はまだ出発できずにいた。堀江はホテルのバーで酒を飲むしかなかった。結局、堀江の北極大帆走は一歩も走らないまま夢に終わった。  植村や池田は最初から「無理じゃないかな」と見ていたが、北極圏の研究不足と準備の甘さがたたったようだ。しかしその後一九八五年に、堀江は世界初のソーラーボートで太平洋を再び横断し、ヨットマンの栄光を取り戻した。  植村に遅れをとった日大隊は、なんとしてもたった一人の相手に負けるわけにはいかなかった。池田は最後の切り札として、ピーター・ペアリーを投入した。 「タリリャンゴアらのストライキで行動がストップし、ピンチに陥ったが、最大のピンチのときこそピーターを投入しようと決め、彼だけ帰さずに温存しておいた」  中村進はピーターの凄さを知っている。 「アザラシやセイウチの狩猟に行くときの目は凄いですよ。燃えているようで、しかも澄んでいる。自分の能力のすべてがその一点に集中している感じで圧倒されます」  他のエスキモーたちにとって、北極点に行くことはなんの意味もない。ピーターは違う。祖父の血を引いている。北極点をきわめることがどれほどの意味を持つか、自分の経験も含めて理解できる男だ。ピーターの出した条件は一つだった。 「北極点に行ったらスノーモービルを一台くれるか。約束するなら、ナオミには絶対負けない」  池田にとっては簡単な条件だ。それを約束して投入した。目的を持ったエスキモーの力は凄い。まして「シオラパルクの狼」といわれるピーターだ。大島でさえ慎重になる薄い海氷の上をピーターは突っ走った。犬たちが魔法の鞭に操られたように疾走する。たちまちのうちに日大隊は植村に差をつめていった。  最終的に北極点に向かうのは四名にしぼられた。副隊長の多和田忠、隊員の大島育雄、日本テレビカメラマンの中村進、それにピーター・ペアリーだ。中村は二年後の一九八〇年、加藤保男がチョモランマから登頂し、エベレストを南北から初制覇した最初の男となったとき、頂上直下まで追随し、凄絶な映像とレポートを送ることになるが、北極点を目指すこのときも想像を絶する仕事をやってのけた。中村がピーターに聞いた。 「ピーター、一日何キロ走れるか」 「一〇〇キロは走れるさ。おれはエスキモーだ。ナオミは違う」  ピーターが執念を見せた。大島育雄にもプライドがあった。 「植村さんは偉大な人です、尊敬しています。でも私はシオラパルクに住みついたエスキモーです。極北には自信がある。いわばプロです。植村さんに負けたくはない」  多和田は天測の責任者だ。一時は誤差がひどくて自信を失いかけたが、今では計測にほとんど狂いがなかった。一台の橇はピーターが先導し、もう一台は大島が鞭をふるった。ピーターは乱氷が行く手をさえぎっていても、どこかに必ず細い迷路のような通れるコースを経験と本能的なカンでかぎ出してきて前進する。  テントを張る場合でも、新しい氷の上には絶対張らない。寝るときも銃をおき、靴をはいている。なにが起きるかわからないからだ。ピーターはテントにいても、少しでも風向きが変わるとさっと外へ出る。そして風の動きを見ると、さっさと自分の荷物をまとめる。一時間もしないうちに必ず吹雪が襲ってきて視界がゼロとなった。他の隊員たちは荷物を失くして右往左往していた。今では中村たちはみなピーターの動きを注目している。  大島たちは突っ走った。ピーターは凍ったばかりの海でも本能的にこれは大丈夫とわかるのか、そこを疾走していく。乱氷の間にはさまれた海の道を見つけて犬橇を走らせた。  中村進がデッドヒートの苦しさを語る。 「北緯八〇度を越したあたりから、お互いの位置がわかっていた。植村さんも順調だ。あの人は精神力が人並み以上ですからね。同じに走っていたのでは勝てない。植村さんに勝つためには睡眠時間を減らすことしかなかった。大島やピーターをけしかけて、最後の一週間は一日三時間しか寝なかった。二十四時間寝ないで走ったこともある。もう白夜ですからね。それで差をつけた。植村さんも我々がそこまでやるとは思わなかったのではないか」  大島たちは午前零時、真北の太陽を目指して進む。北緯八九度五六分。もう北極点圏内といってもいい。極点まであと七キロ。突然目の前に、白い乱氷群を真二つに割って、青い海が毒蛇のようにうねっていた。さしものピーターも絶句する。これを突破しなければ極点には着かない。ピーターはオープン・リードに沿って橇を走らせ、必死に渡れる場所を探す。不気味なリードを思い切って突破する。一晩走り回ってとうとう渡れる場所を発見した。そこからまた少し走ったところでピーターが橇を止めた。 「ナマクト・ノーポール!(ここが極点だ!)」  標識も目印もなにもない乱氷の世界でも、本能的に緯度が察知できるのだろうか。なにもない大氷原だった。多和田が天測する。北緯八九度五九分一八秒、西経一二五度。もう一度計算し直す。同じだった。人間の技術では北緯九〇度をぴったりと出すことは不可能だ。通常一マイル以内であれば北極点に着いたと認められている。六分儀を使った場合は三・六キロ(二分)以内であれば、極点とみなされている。多和田は無線でベースキャンプ(BC)の池田を呼び出し、こう報告した。 「BC、BC、こちら行動隊、感度ありますか。エー、四月二十八日、アラート時間で午前三時すぎ、現在地に到達しました。同三時三十分、天測を完了。エー、北緯八九度五九分一八秒、西経一二五度。この時間を正式に極点到達時にしたいと思いますが、いかがでしょうか」 「おめでとう、ご苦労さまでした。それで結構です。今夜はゆっくり休んでください、どうぞ」  池田の感激した声が伝わってきた。その夜中村たちはぶっ倒れたようにテントの中で眠りこけた。中村がいま語る。 「ああ、植村さんに勝ったな、これでやっと仕事が終わったな、という感じはあったけど。単独の植村さんと違って、我々はチームですからね、むしろホッとしたというのが実感でしたね。北極点を踏んだという感激はあまりなかった」  翌日、岩下莞爾はチャーター機で北極点に向かった。北極点到達を映像的にどうやって表現するかに苦慮したが、答を発見した。飛行機の計測器はまさに今、八九度五九分から九〇度〇〇分を指した。それをおさめたカメラがそのままワン・ショットで大氷原を俯瞰《ふかん》する。真下にまぎれもなく日大隊の赤いテントが鮮やかに映っていた。岩下はこの『北極点に立つ』というドキュメンタリーで、国際山岳映画祭(カナダ)のグランプリなどに輝き、彼もまた栄光を手にした。  植村は、カウンナのドッグ・チームを譲り受けてからは順調に走っていた。一転したのは四月十九日だった。一晩中氷の砕ける不気味な音を聞きながら仮眠した植村は、朝テントの外で驚愕した。テントのすぐわきに氷の亀裂が走っていた。氷が割れて動き出している。しまった、流れる氷の上に孤立する。一刻も早く脱出しないと、砕け散る氷とともに海の藻屑となってしまう。直径三〇〇メートルはあった氷が、たちまち削られて小さくなっていく。進退きわまった。  オーロラ・ベースに緊急交信しようとしたが、そんなことは無駄だと気がついた。救援の飛行機がきた頃には、とっくに冷凍人間になって北極海の海の下に沈んでいるだろう。それより一秒でも早く動いてなんとか死地から脱出することだ。  ここでは犬と犬橇がむしろ邪魔になる。犬たちは怖《おび》えて動かない。ここが生死の分かれ道だ。「アチョ! アチョ!(行け! 行け!)」植村は、鉄棒で犬の曳綱《ひきづな》を叩いて絶叫した。ようやく犬たちが動きだす。植村は狂ったように、犬を背後から追った。それッ、ブロックの橋を渡るんだ。不安定な氷に一気に突っこませた。氷はグラリと揺れたが、かろうじて犬たちが渡った。橇が渡る。植村が飛び越す。まさに危機一髪だった。植村たちがたった今まで乗っていた氷は轟然と海に砕け散っていた。  こんな危険な氷の上をよく確かめもしないで走ったのは、日大隊をあまりにも意識したからだ。無線交信で、日大隊がほぼ自分と同緯度を進んでいると聞いてから、植村は無意識に気持ちがはやっていた。危機をやっと脱した植村はそのことを反省した。しかし北極点は急がなければならないのに変わりはなかった。  植村はだんだん自分が日大隊に遅れをとっていることがわかっていた。薄氷の難関を突破したあと、植村は挑むような気持ちで、毎日四〇キロ、六〇キロと乱氷を越えて突っ走ったが、日大隊には及ばない。犬たちが臭いをかすかにかぎながら走った。先行する日大隊の犬たちの臭いをかぎとったのだ。植村はこれまで西側を走っていた。それが極点が近くなるにつれてだんだんと狭まっていく。犬たちは日大隊のトレースの中に入っていった。植村は決定的に遅れたことを知った。 〈心の中の空白が消えない。私の意識とは別なところから、「口惜しいな、口惜しいな」という言葉が、しつこく聞えてくる。もういい。もういいじゃないか。眠ろう。二日後、遅くとも三日後には、私が北極点に立つんだ。たった一人で氷を砕き、自分の手で何とか犬橇を走らせて進んできたこの私が、北極点に立つのだ(文献16)〉  植村直己が北極点に立ったのは、アラート時間で、四月二十九日、午後六時三十分だった。日大隊に約一日半遅れたことになる。池田たち日大隊は植村の快挙に対して、オーロラ・ベース宛にこう祝電を打った。 「白い大氷海をただ一人乗り越え、北極点に立たれたことを、深い敬意をこめてお祝い申し上げます。日本大学北極点遠征隊」  男たちの熱い戦いのドラマは終わった。単独犬橇で史上初めて北極点に到達した植村の冒険を、『ナショナル・ジオグラフィック』誌は「人間の極限に挑んだ男」「歴史は作られた」と称えた。   3 「世界で最も勇気ある男」  ヘクラ岬のベース・キャンプを引き払ってアラートに戻った池田は、グリーンランド縦断に転進するため北極点から帰ってきた植村と二ヵ月半ぶりに再会した。池田の顔を見るなり、いきなり植村がいった。 「池田さん、日大隊の到達点は一〇キロ北極点からズレていますよ。日大隊は北極点を踏んでいないんじゃないですか」  半ば冗談だったが、そこに日大隊に先を越された植村の口惜しさがにじんでいた。池田はあえて反論しなかった。多和田の天測は北緯八九度五九分一八秒で、確かに九〇度ジャストではないが、飛行機のコンピュータが示す緯度とは距離にして三〇〇メートルの誤差もない。それに植村自身が日大隊のキャンプ地の跡を見ているはずだった。現に植村もピックアップされるとき、日大隊が使った氷盤の同じ滑走路を使っているのである。  植村が口惜しさをぶちまけたあとは、白熊に襲われたときの恐怖、乱氷群に閉じこめられた話、氷が割れて危機一髪で助かった話、エスキモー犬の話などを、植村はつかれたように一人でしゃべりまくった。 「犬には参りましたよ。あれは寄せ集めをしたからだ、自分の失敗だ。でもカウンナの犬をチームごと譲ってもらってからはスピードもグンとあがった。やっぱり犬はチームで揃えないと駄目ですね。いい教訓になりました」  植村と池田は、熾烈《しれつ》なライバル心もいま氷解して延々七時間近くも話し合った。植村にはこのあとさらにグリーンランド大縦走という史上初の挑戦が待っていた。  植村の北極点到達のニュースは、報道機関を通して東京の公子にもすぐ伝えられた。最後の頃はほとんど一睡もしないで、夫の無事を祈っていた公子は、成功のニュースにホッと安堵し、その頃の気持ちを日記にこう書いた。 「五月一日 月  ざわざわしたものに巻き込まれて、どうにも落ちつかない一週間だったけれど、植村もどうにか到達できてよかった。援助いただいた方々に少しは迷惑をかけずにすんだかしら。  もし途中で止めて帰ってきたら、押入れにでも隠しておくか、誰も知らない所に夜逃げするかな、とか、この三ヵ月気の休まる時はなかった。が、それ以上苦しい思いをしたのは、あいつ自身だったろう。  過ぎた厳しさを語られても、それは言葉の厳しさだけ。真の苦しさは、あいつだけのもの。植村さん、生きていてよかったですね。地球のテッペンで何を思ったことでしょうか。  五月十八日 木  五月という月はあいつにとっていい月なのかな。エベレスト登頂。一万二〇〇〇キロ、ゴール。極点到達。そして幸か不幸か、今日は結婚記念日。一万二〇〇〇キロの旅から帰国した翌日が五月十八日。その時居ただけ、後は留守。何処で何をしていてもいいけど、世間や人様にあまり迷惑をかけないようにして!  六月十日 土 『文藝春秋』に極点到達までの植村の手記。 『女房よ、俺のわがままを許せ』とは、泣かせてくれます。冗談じゃありません。あなたのワガママを許していたら、堪忍袋が幾つあっても足りません。一緒になるときめた時から、あきらめているだけです。  それでも好きだから、ジッと待っているのです。留守の間はのんびりしていると思うでしょうが、食べて生活していかなければならないのです。生きてゆかなければならないのは、極点も東京も同じです。なんだかひとりでカリカリして、いつもひとり相撲で馬鹿みたい。  花に嵐のたとえもあるさ、あきらめだけが人生さ、ですか」  その頃、植村はすでにグリーンランド縦断に挑戦中で、またまた白熊に襲われていた。相手は牛ほどもある飢えた白熊で、テントのほうにのっしのっしと近づいてくる。吠えかかる犬など眼中にないという感じで、距離は五〇メートルもない。植村は天に祈る気持ちで、ライフルを構え、心臓を狙った。失敗したらズタズタに引き裂かれるだけだ。引き金を引く。相手は声もたてずにその場に崩れ落ちた。止めを刺すように二発、三発と撃ちこむ。体重二五〇キロ、体長二・二メートルの大物で、解体すると、胃袋の中にはなにも入っていなかった。  助かった、と思うと同時に、なぜか白熊に対する憐れみの情がわいてきた。自分にもいつか、この白熊のように飢えて、不測の死が訪れてくるのだろうか。一瞬先のことはわからない。自分の人生ってなんだろう、植村はまたも自問自答する。暗い気持ちにかられると、この頃では決まって、一人で自問自答しているのだ。 「おれはなんのためにこんな冒険をしているのだろう。他人のやらない厳しい冒険に命を賭けて、それでしか満足を得られないなんて、おれの人生っていったいなんだろう」  植村の問いに、もう一人の内なる植村が答える。 「おまえは冒険でしか自分を表現できない男だ。人並みに普通の社会で生きられないことがよくわかっているから、この道を選んだのじゃないか。おまえは劣等感の塊だ。それをバネにしてここまで生きてきたのじゃないか。なんだ今さら弱音を吐いて。おまえから冒険をとったら、おまえという存在は無に等しいんだぞ。失敗したら逃げ道はない。迷うな。自分の信じた道を突き進むんだ。自分が弱い人間だと知っているからこそ、ここまで慎重にやってきたんじゃないか。弱音を吐くな。自分の弱さに打ち克って生きるんだ」  こうした自問自答を繰り返しては、決まって自分を叱咤激励するのだった。 「とにかく進むんだ。どんなに苦しくても前進するんだ。考えるのは目的地に着いてからでも遅くはない」  植村はこうしてまた前へ五メートルでも一〇メートルでも前進を始めるのだ。生き延びるために。自分の存在を証明するために。  植村がアラートを再び離れ、モーリス・ジェサップ岬からグリーンランド縦断の旅に出発したのは五月十日だった。モーリス・ジェサップとはロバート・ペアリーが北極点遠征をバックアップしてくれた後援会の会長の名前を感謝してつけた名前である。  グリーンランドを最初に横断したのは、十九世紀の偉大な探検家ナンセンで、以後、一九六八年の日大隊も含め、横断は何度か成功しているが、北端から南端まで縦断しようという試みは、植村が史上初めてである。予想される危険があまりにも大きいことから、植村の単独犬橇の旅を知ったウォーリー・ハーバートは「クレージーすぎる、ナオミ、やめるべきだ」とあきれた。  しかし、植村は、熟練した犬橇操作と周到な準備、それに極地での十分な体験があれば、必ず成算がある、と信じて挑戦した。植村の単独犬橇縦断の許可は、橘正忠デンマーク駐在日本大使の奔走によってデンマーク政府からようやく得られたが、その陰には吉田宏の尽力があった。  植村が選んだルートは、内陸氷床を全長三〇〇〇キロ踏破するというもので、この距離は南極大陸の横断距離にほぼ匹敵する。そこは白熊などわずかの生物しか棲むことができない死と氷の領域だ。オーロラ・ベースは引き続き多田雄幸と鈴木喜久治が残り、さらに新たにグリーンランドのダンダスにもう一つ設けた基地には湯川豊の義弟、桝田睦彦が加わって、無線連絡や補給物資の手配などに当たってくれることになった。  内陸氷床の危険さはヒドンクレバスにある。十五頭で出発した植村は、何度も犬たちがクレバスに宙吊りになる恐怖にさらされ、とうとう一匹の犬が救助も間に合わず、奈落の底へ落ちて助からなかった。養父イヌートソアが贈ってくれた犬ミキショもクレバスに転落、やっとの思いで植村が救出した。飛行機の補給がうまくいかず、四日間も絶食するなど、飢えにも悩まされ、植村の悪戦苦闘は二ヵ月近くも続いた。  今回の北極点とグリーンランド縦断は、莫大な費用と最新科学技術の支援を受けた点で、これまでの植村の冒険と異なっていることは前に記したが、植村の考え方はこうだった。 〈私の場合、飛行機による補給は、ペアリーらがとった極地法に比べればたしかに手間ははぶけた。DCPによる位置の確認は、乱氷の迷路の中にあって心強いものだった。だが、それによってただ一人で北極点に到る危険と苦心が大いに減ったかと考えると、私としては首をかしげざるをえない。飛行機や無線が私の安全を保証していたと思うことが、実感としてないのだ。たとえ保証していたのだとしても、危機は、その安全の中から一瞬にして生まれ、私を襲った。対処の失敗は、死を意味した。そう考えると、科学技術の利用や豊富なデータの活用が、ただちに「タライの中にボートを浮べたような」探検になるとは思えないのだ。  ……また、北極点は、ペアリーの初踏破によって、たしかに未知の領域ではなくなった。しかし、単独でそこに到達したという体験を人間がまだ持っていないかぎり、その未体験の中に、大きな未知の領域があるとは言えないだろうか。そうした意味で、私の単独行は、少なくとも私自身にとっては、未知への旅なのだ(文献16)〉  グリーンランド縦断も、植村のあくなき「未知への旅」に賭ける執念が生んだものではあったが、そのはるか彼方には見果てぬ南極への夢がある。植村は苦闘しながらも、南極横断実現の可能性を少しずつ手応えのある実感としてつかんでいく。輸送と補給のサポートさえ受けられるなら、三〇〇〇キロの単独犬橇による踏破は体験的にも十分可能だ。孤独な大氷原をひたすら走り続ける植村の話し相手は犬たちだった。 「おい、ミキショよ、犬たちよ、次は南極だぞ、おれと一緒にまた走ってくれよな。そのためにはこの旅を是が非でも成功させなくちゃ、頼むぞ、あと少しだ、ガンバってくれよな」  後半は、橇に帆をかけて走った。氷床が比較的平らになったので、そのほうがスピードアップできる。これはあらかじめ研究した結果で、そのため植村は、『リブ号』で女性で初めて太平洋を横断した小林則子や多田雄幸に、ヨットの扱い方を習っていた。今つけて走っている真紅の三角帆は、多田がアドバイスして作ってくれたものだ。天候にも恵まれ、セーリング走法は快調で、連日五〇キロ以上走った。  そして八月二十一日、午後一時二十分(標準時間)、植村は三〇〇〇キロを駆け抜け、百三日目についに最終目的地のヌナタック、標高二八四〇メートルの双耳峰の岩峰に到着した。前人未踏史上初のグリーンランド単独犬橇の旅はこうして達成された。  ここから先もう一波瀾があった。ヌナタックからグリーンランド最南端に位置するナルサスワックの町までは約九〇キロある。その途中はコルプックセルミア氷河で、無数のヒドンクレバスが不気味な奈落の底を隠している。夏の雪どけの時期にここを犬橇で通過するのは、冒険を通り越して命知らずの暴挙である。  それでも最初は、植村はここをなんとか踏破してナルサスワックまで下る予定だったが、ナルサスワックまで迎えにきた西堀栄三郎が、無線で説得した。 「君の旅はもう終わっているんだ、この時期の氷河は危険すぎる、それを敢えて下る無謀な行為をすることはない、といったが、彼はなかなか承知をしない。それを説得するのに時間がかかった。結局、最後は彼が承知して、飛行機で迎えに行かせることになったわけです」  苦難に満ちた孤独な旅が終わったあとには、喜びが待っていた。ナルサスワックのホテルには、西堀栄三郎、吉田宏の他、多田、鈴木らもアラートから集結、さらに報道陣も詰めかけていた。その中に妻の公子の姿もあった。西堀の発案で、多田が布にペンキで「ウェル カムバック ナオミ」と英語で書いた祝福の横断幕を作った。  ツインオッター機から下りてきた植村は、祝福の拍手に迎えられた。公子は、ああ、また無事に帰ってきた夫を出迎えられた、と胸が一杯になった。植村はそんな妻を目の隅でとらえても見向きもしなかった。その夜、世話になったグリーンランド領事や気象長官らを招いて、成功お祝いのパーティが開かれた。ドイツ人の観光客たちも一緒に交じって、賑やかに祝福される植村は幸福そうだった。公子がそのときの気持ちを話す。 「植村は二人きりになっても、終わったよ、という感じでなにもいいませんね。いつもそうです。複雑なんですよ、あの人は。でも、北極点が二番という感じになっちゃったから、グリーンランド縦断の成功のほうが嬉しかったという感じはありましたね」  北極点・グリーンランド縦断という前人未到の快挙をやってのけた植村直己の凱旋記者会見は、八月三十日午前十時(現地時間)、ワシントンのスミソニアン博物館のカーマイケル講堂で行なわれた。スミソニアンが選ばれたのは、旅行中の位置確認にDCPの使用などスミソニアン研究所の援助を得たためということももちろんあるが、電通の入江雄三たちが、「世界のウエムラ」をアピールするため、凱旋第一声は、日本ではなく、世界中の記者が集まるワシントンでする戦略をたてたのである。  内外記者団の前でコチコチになった植村は、愛用の六分儀を手に、苦しかった自分を支えてきたのは「未知への挑戦」であると語った。 「私は、この旅にあたって天皇のためとか国民のためなどと思ったことはありません。あくまでも自分自身の未知、あるいは可能性の挑戦でした。計画の段階で『やります』といい切った以上、引き返すことはできない。周囲からのプレッシャーということではなく、やらねばならない、という気持ちです。最後の到達点に達したとき、我ながら、よくぞやった、と思いました。私を支えてくれたのは犬たちです。犬は純粋でウラ、オモテがない。犬たちは私の家族です」  植村は「次の夢」を聞かれ、ここでも、 「南極探検は私の年来の夢です。そのためには多くの方々の協力が必要です。実現の可能性を探って、アメリカ政府をはじめ必要な関係機関の方々に改めて依頼、要請をするつもりでおります」  この記者会見は大成功をおさめ、翌年のバーラー賞につながる。またスミソニアン側は、「植村直己」のサインを求めた。これは飛行家リンドバーグら世界的に高名な探検家、冒険家たちのサインと並んで保存される光栄に浴した。  この年の十月、植村は、第二十六回菊池寛賞(日本文学振興会設定)を受賞することになった。木村毅(明治文化研究者)、『人間の条件』などの作家・五味川純平らと一緒に受賞するもので、その理由は、北極点とグリーンランド縦断によって、「日本青年の声価を内外に高めた二大冒険」というものだった。  植村はすでに一九七五年、一万二〇〇〇キロの旅の最中に、第十三回歴程賞を受賞、公子が代わってもらっている。草野心平の主宰する詩誌『歴程』は、詩および評論を対象に歴程賞を授与しており、これまで金子光晴、安西冬衛、宗左近、大岡信といった錚々たる詩人たち十四名が受賞している。植村は初めて詩人以外から選考されたが、その理由にはこうあった。 「植村氏は未知の世界の追求、探検において、ポエジーの本質に通じる絶対的精神を示している」  一九七九年、植村は「世界で最も勇敢なスポーツマン」に贈られるバーラー賞に選ばれた。これは英国のビクトリア・スポーツ・クラブが七六年二月に設立したもので、植村は四人目だが、日本人ではむろん初の受賞。百二十一ヵ国から選ばれた候補者の中には、十二歳のときに右脚をガンで切断したにもめげず、各種のスポーツで活躍しているテディ・ケネディ・ジュニア(エドワード・ケネディ米上院議員の息子)、三度《みたび》ボクシングの世界チャンピオンになったムハマド・アリ(米国)、F1ドライバーのジェームス・ハント(英国)ら十二名があげられていたが、植村はその超人的な業績が認められた。  授賞式は、二月二十二日、ロンドンで最も歴史的な建物の一つといわれるゴシック調のギルドホールで行なわれた。十五世紀に建てられたグレートホールは、国際オリンピック委員会(IOC)加盟各国代表、英国の政財界、スポーツ、探検家の代表ら約五百名が出席した豪華な昼食会で大盛況だった。植村は和服姿の公子を同行して出席したが、緊張で顔が青ざめている。受賞のスピーチのことを考えると気が落ち着かないのだ。  万雷の拍手の中で植村の名前が呼び上げられた。植村は、前年の受賞者キャシー・ミラーから、五万五千ポンド(二千二百万円)相当の黄金の月桂冠を頭にかぶせられ、胸に同じ月桂冠を形どったレプリカをかけられた。栄光の一瞬である。満場総立ちで、この�小柄な英雄�の偉業を称えた。BBCテレビも、昼のニュースで植村の北極圏冒険の模様を流し、彼の業績を紹介した。  やがて植村は再び拍手にせき立てられて演壇に立った。スピーチは死ぬほど苦手だ。植村は冒険の経過を報告する九百語の英語のスピーチを用意していた。しかし植村は最初のわずか二行を英語でしゃべっただけで、あとは日本語でやります、と切り換えた。これは数日前からスピーチのことで悩み、青くなっている植村を見かねて、同行した電通の入江がアドバイスしたからである。 「伝統のある英国で、こんなに名誉ある賞を私が受賞したことがいまだに信じがたい。これも多くの人々、米国、デンマーク、カナダなど各国の人たちの支持の賜ものです。私はそれらの人々に感謝しなければならない」  と述べ、最後に再び「サンキュー・ベリー・マッチ」と頭を下げると、前にも増して万雷の拍手で満場がどよめいた。植村の顔にやっと微笑がこぼれた。公子は感慨無量でその拍手の嵐を聞いていた。  植村直己は放浪青年から「日本の植村」へ、そして今や「世界のウエムラ」となった。栄光と名声の頂点に三十八歳の植村は立っていた。 [#改ページ]    第五章 修羅と敗北   1 借金地獄と金婚式  栄光と名声につつまれ、「世界のウエムラ」となって帰国した植村を待っていたのは、母親・梅の死と借金地獄の責苦だった。  北極点とグリーンランド縦断の二大快挙を成功させて、植村が帰国したのは一九七八年九月一日。たちまちマスコミにもみくちゃにされるが、植村は大阪のテレビ局に出演したチャンスを機に、兵庫県日高町の実家に隠密作戦で里帰りした。母親・梅が危篤状態にあったからだ。 「植村直己後援会」を組織していた正木徹たちは、歓迎の準備をなすすべもなく、植村の自宅の前で胴上げだけをして、�地元が生んだ英雄�を祝福するのにとどまった。  自宅の奥座敷では、母親の梅が老衰で危篤状態にあった。植村は「一目だけでも会わせてほしい」と関係者たちに頼みこんで、その枕元に駆けつけてきた。これまでどんなに苦労と心痛をかけてきたことか。そんな危いこといつまでもしてんで、はよええ嫁さんもろうて孫の顔を見せてくれ、という母親の願いを振り切って、これまで数々の親不孝を重ねてきた。病床の梅は痩せ細り、幽明《ゆうめい》の境をさまよっている。直己は枕元ににじり寄り、か細い母親の手を握った。 「……お母ちゃん、いま帰ってきたよ」  我しらず涙声になった。家族たちもただ見守っている。梅は少しは意識があるのか、末っ子の帰宅を知って、体を動かそうとした。それを制止して、直己が語りかけた。 「お母ちゃん、はよ元気にならんと……おれ、心配で心配で……」  梅がかすかに笑ったようだった。どんな夢を見ているのか。梅は直己の帰宅に安心したように、一週間後の九月十日に亡くなった。享年七十八歳だった。  父親・藤治郎が老いの目をしばたたかせる。 「家内は、直己が末っ子ということもあって、いつも心配しとった。直己もそんな母親の気持ちがようけわかっとるきに、親思いの子だった。親からすれば、直己がどんなに世間様から認められようと、子供は子供じゃきにな、危険な冒険をしてれば夜も眠れなんですぅ。親子の情愛っちゅうもんは、そういう絆の深いものと思っちょります」  母親の死という悲しい別れのあと、植村は今度は莫大な借金に追われる身となった。後援会事務局の実質的な責任者だった電通の高橋治之が収支決算を明かす。 「最初持ちこまれた話は、六千万円の予算でやりたいということだったが、計算してみるととてもそんな金ではできない。植村さんが日本を出発する前にすでに一億二、三千万円と倍以上にふくれあがっていた。北極点だけなら一億数千万円ですんだでしょうが、植村さんは私たちがいくらいっても馬に念仏で、どうしてもグリーンランドも一緒にやる、といってきかない。補給フライトを一回飛ばすだけでも三百万円かかりますから、結局、総支出が約二億円になった。もともとあった金が二千万円だけですから、その処理は大変でした」  スポンサーや植村の展示会などで入ってくる金だけでは足りず、ざっと「七千万円」の赤字となった。電通が立てたスケジュールに従って、植村は全国を講演で駆けずり回ることになる。植村は、外国では比較的ものおじせず話せるが、日本人相手だと極度に緊張してあがる性格だった。  植村が初めて講演をやったのは、一万二〇〇〇キロの旅から帰ったあと、連れてきた四頭のエスキモー犬を北海道に持って行ったときである。札幌の大ホールで、植村は大聴衆を前に話すことになった。同行したカメラマンの安藤幹久は、ホールの後ろの席で聴くことになったが、植村はもう出番前から緊張しっぱなしだった。  出番がきて、お辞儀をし、壇上に立った。講演が始まった。聴衆が耳を傾ける。だが、植村の口から言葉が出てこない。もう目も虚ろで、足がカタカタ震えていることが客席からもわかる。場内は空虚な静寂となって、早くしゃべらないか、と待ち受ける。植村は依然として茫然自失といった感じだ。そのまま三分、五分と過ぎ、聴衆がとうとうしびれを切らしたとき、やっと言葉が出た。 「ウ、ウ、ウエムラです。本日は、ど、どうも……私は、ナ、ナニも人さまにお、お話しするようなことは……しておりませんです」  なにをいっているのか、支離滅裂《しりめつれつ》で、話の体をなしていない。植村は自分の醜態にさらにしどろもどろとなり、言葉がまたつかえた。顔面がひきつっている。しきりに顔の汗をふく。それでもトツトツと話す植村の誠意が、やがて聴衆の心をとらえた。立て板に水の講演よりも、不思議な魅力に惹きこまれるように、場内がシーンとなった。話し方は下手でも、内容は抜群に面白い。講演が終わったとき、感激した聴衆から嵐のような拍手がわき上がった。 「植村さんの人生の中で、講演は最も苦手なものの一つでした」と安藤はいうが、植村は、一九七八年の十月から翌七九年の三月まで半年間、電通に拘束されて、講演の数をこなさなければならなくなった。仲間たちは「電通に搾取されている」と、植村に同情し、植村もつい愚痴をこぼすことがあった。公子のほうがその点ははっきりしていて、夫を何度もたしなめた。 「なにいってるのよ。あなたがどうしても北極点とグリーンランドをやりたいというから、電通も協力してくれたんでしょう。なんでもやりますから、と頼んだのはあなたじゃないの。それを今さらグズグズいうのは男らしくないわよ。外でもコボすんじゃないわよ」  しかし、一面では、一回五十万円という講演料が確立したことによって、半年間という拘束期間が過ぎたあと、植村家の経済が前よりも少し安定したのは事実だろう。  公子は、結婚した当初は、夫が経済的な義務を果たしていない分、書道を教えて、自分の生活は自分でまかなっていた。一万二〇〇〇キロの旅が終わったあと、公子は、これから先なにをやって食べていけるのかな、一生暮らせるのかな、と正直いってそう思った。北極点、グリーンランドの冒険のあとも、その不安は消えなかった。公子が話す。 「口に出していったことはないけど、いつもそう思っていましたね。植村も、一万二〇〇〇キロすんだら仕事をする、北極点すんだら仕事をする、といっていたんです。それにズルズル引きずられちゃった(笑)。でも彼も確固とした自信はなかったと思う。結果的にそうなったけど、冒険で食べていけるとは思いませんでしたね」  植村が�女房孝行�を形で示したといえば、この時期、「なんとかやりくりして」今の板橋の家を買い、住む家だけでも心配ないようにしたことかもしれない。  借金地獄からなんとか解放されると、植村はすぐアメリカへ向かった。その目的は、シアトルから出した佐藤久一朗宛の手紙にこう書いてある。 「時間の過ぎるのも早いものです。早や四月半ば過ぎ、昨年の今頃は北極海の中で犬と共に苦闘しているときでした。お体の方は如何ですか。三月に家内と練馬にお伺いさせて頂いたとき、まだ風邪が完全に治っていないように見受けられました。あまり無理をなさらないで下さい。  私の方は、三月末よりワシントン、ニューヨーク、そして昨日四月十八日、シアトルにやってきました。途中ホンコンにも用事で足をのばしました。  今日十九日、既に三月末より始まっている学校でしたが、入学試験を受け、六月上旬まで入学を許可されました。少しでも英語を上達させたいと思い決めました。学校といいましても、英語の語学学校です。二百人ばかりの生徒です。学校はシアトルの町から一五キロばかり離れた静かな郊外です。早速二十日、明日、学校の中にある宿舎に入り、授業を受けます。  小さな学校ですが、中国人、ベトナム人、アフリカ、中近東といろいろな国の生徒が見受けられました。パンフレットによると、主にアメリカの大学をめざす生徒のようです。私のような高齢者はあまり見られませんでした。山、極地のことから離れ、童心にかえり、他の国の人達と一緒に懸命にやりたいと思っています。授業は一日五時間、それぞれ先生が異なり、クラス単位が十五人以下ということです。学校に入ってから、暇を見て、気分やすめにお便りを書かして頂きます。  七月末から八月にかけてのヨーロッパ行き、楽しみにしています。是非お体を大切に。  常陸宮殿下の犬の件で御迷惑をかけ、申し訳ございませんでした。植村直己 一九七九・四・十九、シアトルにて」(原文のまま)  植村はなんとしても南極への突破口を開きたかった。南極そのものは一九七二年一月にすでにアルゼンチンのベルグラーノ基地を偵察している。植村が考えているコースは、ロス海に面したアメリカのマクマード基地を出発し、一九一二年に極点に立った英国のスコット隊と同じルートを犬橇で走って極点に達し、そこをさらに通過して、ロス海と正反対のウェッデル海のベルグラーノ基地にゴールインするというものである。アルゼンチンのほうはめどがついたが、アメリカ側のほうが「南極条約で個人的探検は認められない」と拒絶していた。  しかし、北極点とグリーンランド縦断をやってから、ワシントンでの記者会見やレセプションの雰囲気を見ても、明らかに事態が有利に展開しているのを感じた。DCPなどで協力してくれたスミソニアン研究所、NASA(米国航空宇宙局)の関係者らが「南極でも協力しよう」と約束してくれた。あとは南極の基地を管轄しているナショナル・サイエンス・ファンデーション(国立科学財団)の許可が得られさえすればいい。植村はその打診に渡米したのである。  そしてタダでは転ばないところがいかにも植村流のやり方で、ついでに英会話の勉強をしようと決心して、シアトルの語学学校に入ったのだ。このシアトル滞在中に、中国政府からチベットへの招待状が届けられた。訪中した植村は六月六日、海抜三七六〇メートルのラサ空港に到着。中国第二次エベレスト登頂隊長のソナ・ノルム、隊員のバンド女史らの歓迎を受け、エベレストへの想いが熱く甦ってくるのを覚えた。なんといってもエベレストは植村を世に送り出してくれた山だった。  中国から帰国すると、大きな楽しみが待っていた。佐藤久一朗・孝子夫妻が結婚したのは一九二九年(昭和四年)十二月一日。この年、金婚式を迎える。そのお祝いにみんなでヨーロッパ・アルプスに行くことになっていた。佐藤に可愛がられた若手の双璧のうち、小西政継は佐藤の創設した会社キャラバンに入っており、毎年ヨーロッパ・アルプスを登るツアーを組んでいる。小西の率いるツアーに、佐藤夫妻と植村夫妻が参加し、現地ではこの四名だけが別行動をとって、植村がガイドするという計画だった。 「私にとっては初めての山でしたけど、小西さん、植村さんという最高の方がガイドについてくださったうえ、アルプスの生き字引のような近藤等さん(元早大山岳部部長)まで同行してくださいましてね、素晴らしい金婚式の思い出でした」  孝子の回想によると、一行が成田を出発したのは七月二十八日。飛行機の調子が思わしくなく、ドバイ空港に緊急着陸する一幕もあったが、アムステルダム、ジュネーブを経由してシャモニに入ったのが七月三十日。そこに三日間滞在し、グリンデルワルト、ツェルマットと旅を続けていく。孝子と公子は�親子�のように連れ立って、二人とも初めてのアルプスの牧歌的な美しさを満喫し、ショッピングを楽しんだ。  折悪しく、佐藤久一朗はジュネーブで歯が痛くなり、軽い眩暈《めまい》を訴えた。出発前からあまり体調がすぐれなかった佐藤は、背中に背負うのもザックではなく、軽い籠《かご》を自分で作り、それを持って行ったが、このとき七十八歳の佐藤は、とうとうアルプスの山を登ることはできなかった。小西はツアーの面倒を見なければならない。 「それで植村さんが実に細かいことにまで気をつかってくれましてね。佐藤が歯が痛いもんですから、わざわざおカユを作ってご馳走《ちそう》してくれたり、付近の山からフキをたくさん取ってきて、フキの佃煮《つくだに》を作って食欲が出るよう心配りしてくれたり、ちょっと真似のできないことです。お蔭で無事に楽しい旅を続けることができました。マッターホーンが朝日に輝いて金色に光る美しさは、今でも目に浮かんでまいります」  公子にも、このヨーロッパ・アルプスの旅は忘れられないものとなった。ある意味では、この時期がいちばん幸せだったかもしれない。間もなく佐藤久一朗は病床に倒れ、植村自身も急速に悲劇的な運命に次々と直面することになるのである。   2 エベレスト国際隊の修羅  植村直己は一九八〇年(昭和五十五年)の厳冬期に、登山隊員と学術班員各五名から成る「日本冬期エベレスト登山隊」を組織し、自ら隊長として真冬のエベレストに挑戦することになった。エベレストの厳冬登山は危険なことから禁止されていたが、前年ネパール政府が解禁、ポーランド隊が事実上の第一登を記録しているが、植村隊は最も寒さの厳しい明年一月上旬に頂上をアタックするというもので、今回は登頂を目的とするだけでなく、氷雪・氷河地形と高所医学の研究をする学術班も同行するところに隊の特徴があった。  良きアドバイザーだった湯川豊は、植村の冒険がこれまでと一変した北極点とグリーンランド縦断のときに、一歩退いた形になった。湯川が話す。 「正直いって、植村の冒険には、人生の意義とか学術的意義などなにもない。北極点に単独の犬橇で到達したからといって、人類史になにも貢献したわけではない。国益などというものに合致するわけではない。いってみれば遊びです。無償の行為そのもので、遊びの人生に自分の全エネルギーを噴出できるという、その無償性の輝きこそが植村の最大の魅力でした。人間の営み、生命の証し、それに感動したんです」  湯川にすれば、それがいつか無関係の人間たちまで思惑をもって植村の冒険にからんできたことが、植村の「無償性の輝き」が損われるようで寂しい気持ちがしたのかもしれない。  その植村が再びエベレストに戻ってきた。南極の壁は依然として厚かった。植村は、吉田宏を介して、マンスフィールド駐日アメリカ大使から、ナショナル・サイエンス・ファンデーションに対して働きかけてもらったが、「個人的探検は認められない」という返事に変わりはなかった。  植村は、五大陸最高峰を登頂したあと山から離れ、極地に移った。つまり「垂直から水平へ」冒険の基軸を変えた。しかし、北極にほぼ八年氷漬けになったあとに、再び戻ってきたのはやっぱりエベレストだった。最高峰から極地へ、極地からまた最高峰へ、植村の「夢の振子は地球の極点をぎりぎりからぎりぎりに揺れる(文献1)」。植村はやはり地球上を駆けめぐる�永遠の漂流者�だったのだろうか。エベレストには初登頂の感激と同時に苦い体験があった。  植村は一九七〇年に、松浦輝夫とともに日本人最初のサミッターになったあと、実は翌年の七一年にもう一度エベレストにアタックしている。  日本山岳会隊が一般ルートの東南稜からは登頂に成功したものの、主目的だった前人未到の南壁が失敗すると、アメリカ人のノーマン・ディレンフォースが隊長として組織した国際エベレスト登山隊がすぐさま南壁攻略の名乗りをあげた。隊員は世界十二ヵ国から選ばれた精鋭ばかりで、英国人九名、米国人六名、ノルウェーが三名、オーストリア、スイス、ネパールが二名ずつ、仏、西独、伊、インド、ポーランドが各一名、それに日本から植村直己と伊藤礼造の二名が参加を要請されたのである。当初は小西政継と植村が選ばれたが、小西は直前にグランド・ジョラス北壁に植村らと挑んで凍傷にかかり断念、代わりに伊藤を推薦した。  伊藤は日本山岳会隊にも参加しているので、植村ももちろん知っている。このとき最年少の二十四歳。二十七歳の植村は身長一六二センチ、体重六〇キロと隊で最小。彼らにいわせれば、「東洋人独得のアーモンド状の目をして、にこにこ笑っていた小男の東洋人たちのペアー(文献17)」が、打算とエゴと野望の渦巻く国際隊で、�滅私奉公《めつしほうこう》�ともいえる献身的なサポートをすることになるのだ。  日本人の植村と伊藤には、信じられないことが次々と隊に起こった。  四月十五日、猛烈な吹雪が襲った。西稜隊のリーダー、オーストリア人のウォルフガングとインド人隊員のハッシュ・バフグナ(32歳)は、第三キャンプ(C3)を建設し、C2へ下りようとしていた。考えられないことだが二人はザイルを結び合っていなかった。固定ザイルにカラビナを通して別々に下りてきた。小柄なバフグナは次第に遅れ始めた。ウォルフガングは自分の手足の凍傷が心配で、さっさとC2へ下山した。 「ヘルプ・ミー、ヘルプ・ミー」  必死で助けを求める声が風にのってキャンプにかすかに聞こえたが、それも間もなく消えた。疲労のあまり固定ザイルにぶら下がったまま、バフグナは動けなかったのだろう。ウォルフガングの話を聞き、救助隊が一時間半後に現場に急行したとき、バフグナは固定ザイルに無惨にもぶら下がったまま凍死していた。  二日後に悲報を知らされた南壁隊の植村と伊藤は驚愕した。仲間を見捨てて、さっさと自分だけ下山するなど考えられないことだった。彼らヨーロッパ人の東洋人蔑視は明らかだった。 〈隊にはバフグナや私、伊藤君と、エベレスト体験者がいるにもかかわらず、すべてヨーロッパ人が主導権をにぎり、われわれ東洋人に対する扱いはどうも登攀のための基礎工事人扱いなのが気になっていた。バフグナの運命がわが身に重ねられて可哀想でたまらなかった(文献1)〉  植村は十年後にウォルフガングと同じ立場に立たされることになる。そのとき彼はどうしたか。  隊はやがて真っ二つに分裂した。西稜隊はゆきづまり、イタリア人のカルロ・マリー、スイス人のボーシュ夫妻。フランス人のマゾーらが西稜を中止して「東南稜に変更すべきだ」と主張し始めた。これに対し、隊長のディレンフォースは逆に、バフグナの死のショックや隊員たちの病気などによる遅れから、二隊に分けることは戦力的に無理であるという判断、「最終的には南壁一本にしぼって全力を尽くしたい」と指示した。東南稜変更派の怒りが爆発した。  これまで上品で美しかったボーシュ夫人が形相を変えて、ディレンフォース隊長に雪の球をぶっつけながら叫んだ。 「このインチキ野郎!」  それだけではあきたらず、隊長のテントに石をぶっつけ、アンテナの柱にわたしてある電線に下げていたスイス、フランス、イタリアの国旗を切り取った。ボーシュ夫人が、女性初のエベレスト登頂者の栄光を狙っていたのは明らかだったが、南壁一本槍になればチャンスは消えたも同然だ。  フランス人初のサミッターを狙っていたマゾーは、隊長はじめ英米人隊員を前にして、狂ったようにわめき散らした。アングロ・サクソンのラテン追放の陰謀から始まり、イギリス人を登頂させようとしているBBC放送とのなれ合いを糾弾し、こう決めつけた。 「ノーマン、おまえは知恵はあるが腰抜けだ! それにイギリスの酔っ払いどもめ。貴様《きさま》たちは、みんな酔っ払いのバカ野郎だ!」  イギリス人隊員が血相を変えて立ち上がり、マゾーの胸倉《むなぐら》をつかんだ。 「これ以上へらず口を叩くと、貴様の首をへし折るぞ!」  隊はめちゃめちゃに分裂した。マゾーらはさっさと山を下り、カトマンズへ引き揚げてしまった。南壁のほうは、イギリスのドン・ウィランスとドゥガール・ハストンのコンビ。それに植村と伊藤の日本人コンビが頑張っていた。植村は自分は無酸素で、イギリス隊コンビのため二回もC6まで酸素ボンベを荷上げした。伊藤はC5からの支援を続けていた。  ドンとドゥガールは絶対にトップを譲ろうとしない。さすがに忍耐強い植村もついに堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切らした。酸素ボンベを二回荷上げして、最後の義務を果たすと、そのまま黙って下へ下った。それが植村流の抗議の仕方だった。伊藤はまだ残っていた。  国際隊が空中分解したあと、植村と伊藤のとった行動に賛否両論の賞讃と批判が出た。「最後まで隊員として全うしたのは立派だ」という声と、「なぜ外国人に伍してもっと堂々と行動しなかったのか」という声である。批判に対して伊藤礼造は今こう話す。 「出発前に三田幸夫さん(日本山岳会会長)から『日の丸根性を捨ててやりなさい』といわれたこともあるが、サポート役に甘んじていたわけではない。イギリス人コンビのドンとドゥガールはトップを譲らなかったが、そのうち必ずへばると思っていた。そのときがチャンスだ。トップに立てると考えていた。むろん頂上も狙っていました」  五月二十一日、ドンとドゥガールがウイスキーをラッパ飲みして、口惜しそうに告げた。 「登攀は終わった。おれたちは下山する」  あっけない終了宣言だった。伊藤が登ろうにも、酸素も食糧も底をつき、下からサポート隊が上がってくる見込みはなかった。氷点下三〇度の寒気の中で、伊藤は夜を耐え、翌日下山した。伊藤礼造はそれ以後、山から離れて今は登っていない。  植村は国際隊の解散後、ただ一人インドに向かい、ハッシュ・バフグナの遺族を訪ねた。インドの陸軍少佐だったバフグナには、彫りの深い美人の奥さんと三歳と一歳の娘の遺族がいた。植村はことのいきさつを話した。それが植村にできる唯一の鎮魂と同じ隊員としてのお詫《わ》びだった。アングロ・サクソンとラテン民族の�人種戦争�に終わった国際隊に幻滅して、植村はあれほど執念を燃やし、これまで四回もトライしてきたエベレストから、まるで憑きものが落ちたように、山への魅力が遠のいていくのを感じた。それ以後、植村は八年間、エベレストと訣別した。  だが、植村はやっぱりエベレストに戻ってきた。それが地球上のどこよりも高い、�第三の極地�といわれる最高峰エベレストの持つ魔性であろうか。  植村より一回り若い世代の加藤保男は、一九七三年の秋にネパール側から登頂、一九八〇年春にはチベット側から登り、一九八二年に再びネパール側から厳冬期に単独登頂に成功。世界最初の「三冠王」となったあとに、悲劇に遭遇することになる。  一九四四年に北イタリアの南チロルにあるフィルネスで、植村より三年後に生まれたラインホルト・メスナーは�鉄人�と称えられる現代最高の登山家だ。一九七八年、ピーター・ハーベラーとともにネパール側から史上初めて無酸素で登頂するという快挙をやってのけた。メスナーはカトマンズで、植村が厳冬期のエベレストに挑戦することを知り、驚愕した。彼も同じ野望を抱いていたからだ。 〈この世の最高峰を、冬単独でやるということは、アルピニストにとって純粋この上ないクライマックスなのである。だが、どうやってあの強靭な植村直己の先を越すことができるだろうか。彼はたったひとりで犬橇を使い、北極に突撃して行ったし、あらゆる大陸の、七つの最高峰のうち五つの峰に立っている男である。  植村直己はただ単に世界中で最も成功したアルピニストの一人であるばかりでなく、彼は冒険者であり、大胆不敵で勇猛果敢な男なのである。しかも彼は、まるでシェルパのポーターのように頑丈な男である。東京でぼく達は、一九七六年だったか、二、三時間話し合ったことがある。このとき以来、ぼくには霜と氷で頬の焼けこげた、この小柄でずんぐりした男がいったん心にきめた以上、なんでもやれる男であるということがわかっていた。ぼく達二人の登山に対する考え方、いや生きてゆくための姿勢が同じだったのである。そしてこの古狸ともいえる植村が、今回はぼくより早かった。ぼくはとても彼のことがうらやましかったが、それにもまして、このようなことを考え出した彼を心から尊敬したのである。でもなにか手を打たなければならない。どんなことがあっても、この実験を敢行しなければならない。しかも、ぼくが最初の男として(文献18)〉  結局、メスナーは一九八〇年八月二十日、チベット側から無酸素単独登頂という画期的な偉業を達成した。メスナーの野望は、地球上に十四座ある八〇〇〇メートル以上のジャイアンツ峰を全部無酸素できわめることであり、一九八五年秋までに十二座に登頂した。彼は間違いなく空前絶後の大記録を遠からず樹立するだろう。もしも不測の死に見舞われなければ。  植村とともに日本人最初のサミッターとなった松浦輝夫は、一九八一年に、世界第二の高峰K2(八六一一メートル)を目指す早大隊の隊長として指揮をとる。苦闘の末、八月七日、大谷映芳とパキスタン人のナジール両隊員が未到の西稜から登頂することに成功した。大谷ら早大隊は一九八七年にエベレストを目標としているが、松浦も再び隊長格で参加するはずである。  植村直己は一九七九年十二月、国際隊以来八年ぶりにヒマラヤに入り、エベレストのよく見えるカリパタールの丘の上に二ヵ月滞在して、冬の気象状況を調査した。冬のエベレストは寒さが最大の敵だ。成否を分けるのはそのときの気象状況ひとつにかかっている。頂上付近は氷点下四〇度まで下がる。頂上には雪煙が凄まじい勢いでいつもたなびいていた。  八年近く本格的な山から離れていた植村は、次の準備に着手する。翌八〇年七月、植村隊は南米の最高峰アコンカグア(六九六〇メートル)に遠征した。南半球はちょうど真冬にあたる。冬のエベレストの気象状況に近い厳冬のアコンカグアに挑戦し、高度順化と高所低温のトレーニングをすることと、頂上付近にテントを設営して、装備などの耐寒テストをすることが主な目的だった。  アコンカグアは放浪時代の一九六八年に登ったことのある懐しい山だが、さすがに厳冬のアコンカグアは、想像していたよりもはるかに厳しかった。  四二三〇メートルのプラサデ・ムーラにベースキャンプを設営し、第一回のアタックをかけたのが八月六日。しかし猛吹雪で、たちまちC1(五五〇〇メートル)まで撤退を余儀なくされた。高度順化が十分にできていないため、植村は高山病気味で顔がむくんでいた。九日の再度の挑戦も失敗。植村にかつての超人的な体力は甦ってこない。ようやく頂上に立ったのは八月十三日午後四時(現地時間)だった。植村と松田研一隊員、それにカメラマンの阿久津悦夫も登頂に成功した。  阿久津悦夫が話す。 「頂上付近に三〇度から四〇度という急傾斜のガレ場があって、そこが最大の難関。強風のため雪は吹き飛ばされて、固い氷のような雪以外はないが、その代わり小石が風で叩きつけてきます。ようやく三度目のアタックで成功したほどです」  阿久津は一九三八年、東京生まれ。蔵前工業高卒後カメラの世界に入り、抜群の体力で登山家たちに伍して、自分も登頂を果たしていく。一九七〇年マッキンリー、七二年エリブルース(ソ連)、八〇年このアコンカグア、そしてこのあと八二年モンブラン、八四年キリマンジャロ、八五年エベレストと立て続けに登り、植村に次いで日本で二人目、世界で五人目の五大陸最高峰のサミッターの名誉を掌中にすることになる。なお世界では、アメリカの石油会社のオーナー、ディック・バスが「セブン・サミット(七つの頂上)計画」を立て、最も困難だった南極のビンソン・マシフにも日本のプロスキーヤー、三浦雄一郎らとアタック、彼はここも征服した。そして最後のエベレストを一九八五年五月二日に五十五歳で達成。植村の記録を上回るものとなった。  しかし今の植村にとって、執念を燃やしているのは厳冬期のエベレスト登頂である。その前哨戦として冬のアコンカグアに登ったのだ。植村は長い間のブランクのあとに、ともかく頂上を登ったことで面目を保った。佐藤久一朗宛のハガキにはこうある。 「8月13日、冬のアコンの頂上に無事に立ちました。風が強く、寒く、とても厳しいものでした。幸にアルゼンチン軍隊が全面的に我々の登山隊を支援、ヘリコプターの出動ばかりか、ファントムが偵察飛行してくれたり大変、日本人感情のよいア国はとても気持がよいです。9月上旬帰国予定。お体の具合は如何ですか。帰りましたら練馬へお話しに伺います。植村直己 8/23」   3 「竹中ッ、死ぬな!」  植村はどうしても「日本冬期エベレスト登山隊」を成功させなければならなかった。世界中の登山家や冒険家たちの目が自分に注がれていることを感じる。「世界のウエムラ」と呼ばれる今、秘かな自負心もあった。  登攀隊員は隊長の植村を含めて六名。ベースキャンプを預かる総参謀格の土肥正毅(42歳)、隊員の菅沢豊蔵(37歳)、松田研一(26歳)、三谷統一郎(24歳)の五名は明大OBだが、その中にただ一名、早大学生の竹中昇(28歳)が参加していた。  竹中昇は兵庫県豊岡市の生まれ。国税局に勤務していた父親・裕の仕事の関係で、小学校は京都市立|深草《ふかくさ》小学校を卒業。深草中学校二年のとき初めて白馬岳に登り、雷鳥と対面した感激が忘れられず、山登りの魅力にとりつかれる。のち裕が奈良市五条町に居を構えたため、奈良市立|伏見《ふしみ》中学校に転校してそこを卒業し、市立一条高校に進学。三年生のときは山岳部のリーダーをつとめた。高校の二年後輩に、同じ隊の松田研一がいた。  早大教育学部に入ってからも山登り専門で、早大山岳部に八年間在籍、全国大学山岳部会の学生部委員長をしたこともある。ヒマラヤのドゥナギリなどを登頂。早大の伏見寮に寝泊まりし、�早稲田の仙人�といわれて、奈良の自宅にはほとんど帰ったことがなかった。 「もう何年間も会っていないというのに今度も電話一本よこしただけで、隊の渉外係ということであわただしく先発していきました。大学ももうぎりぎりで卒論を書かなければならない。山で書きあげるんだといって資料やらタイプライターを持って行きましたが、ずいぶん無理をしたんでしょうな」  旧制豊岡中学を出て、植村の先輩にあたる父親・裕の声は低かった。明大の菅沢豊蔵らに誘われたこの遠征で竹中昇は悲劇に見舞われるのである。  当初、隊は順調に進んでいた。隊長としての植村の気配りは大変なものだった。植村は土肥が知らない間に、土肥の妻・晶子にこんなハガキを出している。 「留守中、御苦労さまです。私達厳冬期エベレスト登山隊は高所順化も順調に、ベースキャンプ手前4200のペリチェ、シェルパの村、最後の集落で休養をとっております。毎日放送、毎日新聞、学術のメンバー、皆んな異った人達ですが、我々明治のメンバーを中心にして、けっこう楽しくキャラバンを進めています。  数日前には、学術のメンバーが氷河の調査に入って、雪男の足跡を発見。こちらでも11/19夜には地震があり、シェルパもびっくり。トランク2個分のネパール金をもって、銭かんじょう。登攀前のキャラバン30人以上収容できる大テント、大名的気分、土肥さんの指揮によるところが大。皆んな頑張ってやっています。11/22 植村 ペリチェにて」(原文のまま)  キャラバンの途中、植村は、エベレストの初登頂者、ヒラリーとエベレスト街道ですれ違い、「成功を祈っている」と激励されて感激した。ヒラリーは最初のサミッターの栄光をになったあと、ルクラ飛行場や集落に小学校を次々と建設し、ネパールの発展に貢献していた。サミッターになったことが、ヒラリーの人生も大きく変えたのである。  十一月二十六日にベースキャンプ(BC)入りした植村たちは、BCを「太陽村」と名づけ、土肥が村長に選ばれた。フランスから届く酸素ボンベが遅延したため、本隊から遅れていた竹中もBC入りして、登攀態勢が整った。  竹中はエベレストに賭けていた。一九八〇年の日本山岳会のチベット側からのエベレスト隊にも選ばれていた。副隊長の浜野吉生が、報道の指揮をとる岩下莞爾に「竹中はうちの隊のエースだ」と語って期待していたほどだったが、出発直前になって肝炎であることがわかり、隊からはずされた。その無念さがあるから、竹中は必要以上に無理するところがあったのかもしれない。BC入りが遅れて高度順化が他の隊員よりも万全でないうえ、キャンプでは暇があると山岳雑誌の原稿を書いていた。卒論はようやくカトマンズで書き上げた。テーマは「マハトマ・ガンディーの教育思想」というものだった。  順調にルートはのびたが、十二月二十日から突然天気が崩れて難航し始め、年内のアタックが不可能となった。植村は一月九日と十日の二回に分けて、頂上を狙うことを決定したが、九日の第一次に自分が入ることにためらいを示した。国際隊の先陣争いの醜さを知っている植村ならではの気配りだったが、土肥にすれば、植村の遠慮がここではマイナスになる。温厚な土肥でさえつい声を荒げた。 「いいか植村、この隊のそもそもの発想、成りたちからして、どうしてもおまえが最初に立たないといけない。わかったな」 「いや先輩、これはおれ一人の隊じゃない。隊長のおれが真っ先に飛び出してはまずいです」 「いつまでそんなこといってるんだ。もういうな」  土肥が口を封じなければ、植村はいつまでもそのことにこだわっていただろう。結局、植村が折れた形になり、第一次は植村と松田、第二次は竹中と三谷と最終決定した。悲劇はそのあとに襲ってきた。  ローツェ・フェースの氷壁に沿って、第三キャンプ(C3)を設営したあと、植村たちは荒れ狂うジェット・ストリームの中に閉じこめられた。氷点下三〇度。立っていられないくらい風が強暴だ。このままテントにいては体力が消耗するだけだ。カメラマンの阿久津やシェルパたちも一緒に閉じこめられてしまった。ここはいったん風が弱まった一瞬の隙をついて脱出し、出直そう。  一月十二日の朝、植村の指示に従って、各隊員がBCへ下りることになった。竹中は羽毛服と防寒帽に身をつつみ、安全ベルトを確認して、固定ザイルを伝って下りていく。阿久津、三谷、松田が続き、植村は最後に凍傷にかかった二名のシェルパをサポートしながら下山することになった。それが十二時少し前。  植村は一〇〇メートルも下りきらない標高七〇〇〇メートルのところで、右のアイゼンを締め直している竹中に追いついた。他の隊員たちの姿はもう見えない。 「どうしたの? 具合が悪いのか」 「アイゼンの調子が悪くて……」 「まだお昼前だ、急ぐことはないさ」  植村はさして気にもとめず、短い会話を交わして、シェルパをサポートしながら先に下りた。その十数秒後だった。後方で竹中の異様な叫び声がした。振り返ると、竹中が固定ザイルにだらんとぶら下がっている。植村はすぐに駆け寄り、「おい、大丈夫か」と声をかけた。竹中がかすかに反応を示す。植村は竹中をかばいながら一歩ずつゆっくりと下りた。竹中が転んで植村のところにのしかかってきた。  竹中の様子の異常に気がついた植村は、あわてて彼の目を見た。反応がない。まさか、いったいどうしたんだ、竹中。植村は半開きになった口に顔を寄せた。息をしていない。呼吸が止まっている。今の今まで生きていた竹中が死んだ? そんなバカな。植村は狼狽《ろうばい》し、なにがなんだかわからない。 「おい、竹中、しっかりしろ、どうしたんだ、いったい」  植村は竹中を腕の中に抱きかかえ、必死で体を揺する。次にはあわてて人工呼吸をした。両頬をピタピタと叩いた。竹中の顔に生気は再び戻らない。植村は茫然自失《ぼうぜんじしつ》したまま、それでも必死で人工呼吸する。 「竹中ッ、竹中ッ、返事してくれ、頼むから声を出してくれ!」  植村は絶叫した。涙が滂沱とあふれてきた。夢であってくれ。目の前が真っ暗になりながら、植村は両手を動かし続けた。午後二時すぎ、時が静止した。二人の上を吹雪が舞い、天と地が裂けるような凄まじい風のうねりが轟々と揺がしていた。植村の慟哭《どうこく》はその風にもまして激しかった。  艱難辛苦《かんなんしんく》を求める俳人芭蕉の姿を畏敬し、いつも仲間たちに「芭蕉が俳諧の心を旅に求めて彷徨《さまよ》ったように、おれも人生のなにかを求めて山に登るのだ」といっていた竹中は、ヒマラヤの氷雪の中で一瞬にして二十八歳の命を凍らせた。  竹中の遺体はBCに下ろされ、さらにトウクラの丘で荼毘《だび》にふされた。全隊員がショックで口もきけなかった。遺骨は、凍傷で戦線を離れていた菅沢が抱いてカトマンズまで下り、一人息子を迎えにきた父親・裕と妹の和子に引き取られて無言の下山をした。妹の和子が泣き叫んだ。「これが兄ちゃんか」。父親・裕が息子の痛恨の死を悲しむ。 「カトマンズへ飛行機で運ばれてきた遺骨は、白いボックスをビニールで包んで、普通の荷物のように扱われていて、あまりにも可哀相《かわいそう》でした。すぐきれいに包み直して、二月二十六日にカトマンズのアナンダ・クライ寺院で、正式に供養をしてもらったんです」  遺骨には、植村がBCでしたためた長文の詫状《わびじよう》が添えられていた。 「隊長として厳冬期エベレスト登山を御子息と共に励んでいて、突然の事故に御子息の死を御両親に御報告しなければならない心の痛みにたえません。何といって、お詫びとお悔やみ申し上げてよいかわかりません。防ぐことのできなかった私として、本当に申し訳なく御遺族の方々が何と申されても、ただ一途にお許し下さいと申すより他にありません。(以下略)」  植村はBCでショックに打ちのめされ、虚脱状態になっていた。隊長として、隊員を自分の腕の中で死なせたことに責任を感じ、いたたまれない思いだった。 「今日だけは酒を飲ませてください」  植村は飲めない酒を無理にあおるようにして口に流しこんでいた。酔いながらポロポロ涙を頬に伝わらせて、植村はつぶやいていた。 「竹中ッ、なぜおまえは死んでしまったんだ……すまない……許してくれ……」  植村のそんな姿を、土肥は声をかけることもできずに唇をぎゅっと噛みしめて見つめていた。土肥も心の中で男泣きに泣いていた。  登攀の続行か中止か、早急に結論を出さなければならなかった。中止の声は出ず、若い隊員たちは、 「竹中君の遺志を継ぐためにも、再度のアタックに向かうべきです」  と主張した。山で遭難はある意味では避けがたい。屍を乗り越えて頂上をきわめるのがなによりの供養になる。それが山男たちの掟みたいなものだ。一九七〇年のときもそうだった。成田潔思の死を乗り越えて、植村と松浦は頂上に立ったのだ。  植村も再度のアタックを決意したが、一隊員だったあのときと、隊長という重責を担っている今回の竹中の死の意味は違う。慚愧《ざんき》の念に打ちのめされた植村にすでに闘志はなく、さらに天候が悪化した。一月二十七日、植村と松田、三谷の三名は一気に八〇〇〇メートルのサウス・コルまで登ったが、とうとう第四キャンプを建設することはできなかった。夢は砕けた。  植村は決断をくだした。BCで土肥はトランシーバーから雑音まじりに伝わってくる植村の声を聞いていた。 「エー、結局、アタックはなりませんでした。エー、我々の体の状態からしまして、サウス・コルに出るのが精一杯の現状であったような気がいたします。エー、明日は撤収作業に入りたいと思います」  植村の声は震えていた。 「エー、結局、我々の力いたらず、ついにこの遠征で登頂を断念せざるを得ない状況に追いこまれてしまいました。エー、大変申しわけございません。申しわけございません」  植村は二度詫びた。植村の心中を察し、黙って聞く鬚だらけの土肥の目にかすかに光るものがあった。これまで夢を必ず実現させてきた植村は、ここで初めて大きく挫折した。エベレストは、植村を栄光に押し上げ、そして今度は叩き潰した。不運がさらに植村を絶望のどん底に突き落とす。   3 南極の夢破れ 「南極については全く知りませんです。北極につきましては七年いて、北極点への遠征も実現し、犬橇などについては幾分知っているつもりですけど、南極はほんとに私の第一歩であります。海である北極と違って、大陸である南極はブリザード(地吹雪)など想像を絶する難しいところだと思っています。今までの経験を全て生かし、自分でも精一杯やってみたいと、ただそれだけです」  植村直己は固い決意を披瀝して、一九八二年(昭和五十七年)一月二十四日、アルゼンチン経由で南極へ旅立って行った。  南極への夢を追い続けて十二年、長い長い道程だった。一九七〇年、日本人として初めてエベレストの頂上をきわめたあとに、ふと閃《ひらめ》いた南極への夢。それを実現するために極北のシオラパルクに入り、犬橇技術の習得や極地生活に耐えうる精神的、肉体的な厳しい訓練を自分に課してきた。その延長線に、一万二〇〇〇キロの旅、北極点・グリーンランド縦断などの快挙が達成されたが、植村はそうした冒険の向こうに、いつも南極大陸の単独横断、最高峰ビンソン・マシフの登頂という夢を虹のように描いてきた。  その夢が今、初めて現実のものとなるのだ。期待していたアメリカのナショナル・サイエンス・ファンデーション(国立科学財団)の許可を得ることはとうとうできなかったが、南極への道はひょんなことから開けてきた。  二年前のこと、厳冬期のアコンカグアを制した植村隊の人気は大変なもので、地元の新聞は一面にその快挙を書きたてた。下山してメンドウサに戻るとマスコミの取材攻勢にあい、果てはたまたまぶつかったサン・マルティン祭の軍隊のパレードにまで引っ張り出される始末だった。  ブエノスアイレスに、上智大山岳部OBで、植村とは山仲間だった高山良比古がコンデンサーの製造販売事業に成功して、一九六六年から住んでいる。高山の妻・由利子はテキスタイル・デザイナーで、セリーナ家の知遇を得ていた。  セリーナ家というのはアルゼンチンきっての由緒ある家柄で、長女の名前は、セリーナ・アラウス・ペラルタ・ラモス・デ・ピロバーノという。アルゼンチンでは長い名前ほど由緒ある家系と家門の誉れを現わす。セリーナが自分の名前、アラウスは父方の姓、ピロバーノは結婚した相手の姓である。  首都ブエノスアイレスから約四〇〇キロ離れたところにマルデルプラタ(銀の海)というアルゼンチン最大のリゾート都市があるが、ここを創始したのが母方のペラルタ・ラモス家の曾祖父で、広大な牧場を所有する大地主であった。  植村をセリーナに紹介したのは高山夫妻だが、それは一九七一年のことで、それ以来植村は六回アルゼンチンに行っているが、必ず高山の家に世話になり、セリーナ家に招待された。セリーナは子供がなく、二十五年前に夫を交通事故で亡くしている。それだけになお、朴訥《ぼくとつ》で人柄を飾らない植村の大ファンになっていた。  植村に次いで五大陸最高峰をきわめた阿久津悦夫を祝うパーティが、一九八六年の一月十日、銀座で開かれた。安藤幹久と五月女次男が幹事をつとめたパーティは盛会で、植村の妻・公子、多田雄幸、岩下莞爾らも出席したが、めずらしい遠来の客があった。アルゼンチンから来日中の高山由利子に伴われてきた背の高い銀髪の貴婦人こそ、そのセリーナだった。  パーティの会場で、セリーナは公子を抱きしめて植村の妻に敬意を払った。公子に紹介され、由利子の通訳で、私が南米での植村のことを尋ねた瞬間だった。セリーナの濃いサングラスの奥からたちまち涙がこぼれた。 「ナオミというだけで、悲しみがあふれ胸がいっぱいになる。ナオミのような素晴らしい男は、後にも先にももういない。ナオミのためなら、私にできることはなんでもしてあげた。だから私の悲しみ、わかるでしょ」  七十歳になる貴婦人は、白いほっそりした指で涙をそっとはらい、私の手を握りしめた。  厳冬期のアコンカグアに成功したあと、ブエノスアイレスのセリーナの自邸に招待された植村たちは、いつものようにセリーナ家の人たちに歓待された。セリーナが尋ねた。 「ナオミ、次はどんな冒険を考えているの?」  植村が率直に答える。 「いやあ、南極に行って犬橇で横断をやりたいんですけど、アメリカのファンデーションが許可をくれず、協力してもらえないんです。ニッチもサッチもいかなくて、駄目です」 「それはアメリカの協力でなければできないことなの?」 「南極に入る手だてがありませんから」 「ちょっと待ちなさい。南極にはアルゼンチンも基地を持っている。それを守っているのは軍隊です。弟のアドルホが、軍の南極本部の本部長バッカ大佐をよく知っているから、なにかナオミのために協力できないかしら」  想像もしていなかったセリーナの申し出に、植村は歓喜した。セリーナは軍部に連絡をとって、植村のために便宜をはかってくれるよう働きかけてくれた。滞在中、植村たちにはセリーナの案内で、いとこが社長をしている有力新聞社ラ・ラソン社を訪問した。同行した阿久津悦夫が話す。 「ここでインタビューを受けたとき、植村さんは戦略的に南極のことを話題にして、新聞に書いてもらった。この作戦は成功し、南極へ賭けてきた植村さんの夢が、アルゼンチンの人たちの知るところとなったんです」  そして、セレーナの尽力もあり、植村はアルゼンチンの軍部の協力を得ることが可能になったのである。  ブエノスアイレス入りした植村は、陸軍南極本部と最終的な打ち合わせをし、二月三日早朝(現地時間)にブエノスアイレスからアルゼンチン軍用機で同国最南端の港ウシュアイアに向かった。そして、二月十日、植村たちを乗せた同国の砕氷船『イリサール号』はウシュアイア港を出航した。船には、グリーンランドで買い付けた犬九頭と帯広から連れてきた四頭の計十三頭と橇などの装備も積まれている。船は三日後の午後、植村の夢を乗せて、南極半島のサンマルティン基地の五キロほど沖に到着した。  ここから基地まではヘリコプターで飛ぶ。砕氷船には、エレーラ越冬隊長以下二十名の交代要員が乗りこんでいた。エレーラ隊長は植村に敬意を払い、ブエノスアイレスに到着したときはわざわざ空港まで出迎えたほどだが、ここでも植村と同行取材班を第一便のヘリに乗せてくれた。植村には単独冒険旅行の際、無線連絡を受け持つ毎日放送の竹村勝彦ディレクターと大谷丕昭カメラマンが随行していた。  アルゼンチンのサンマルティン基地は、周囲を五分ほどで歩ける小さな岩石の島の上にあり、隊員宿舎と食堂、集会場などの赤いペンキのプレハブ建築が並んでいる。植村たちは集会場の棟を借り、ここで越冬生活をし冒険の準備に備えることになった。  着いたとき、南極はちょうど白夜の季節で、午後十一時頃まで明るく、そのあと夕焼けとなり、午前三時までに朝焼けを迎える。基地周辺の海にはペンギンやアザラシがいる。人間をまるで怖れないペンギンの群と戯れながら、植村は、ここが南極なんだ、とうとう夢が叶った、と感無量だった。これまで二回偵察に南極に入ったことはあるが、今度こそ犬橇を走らせ、ビンソン・マシフに登ることができるのだ。  南極大陸三〇〇〇キロを犬橇で横断するという構想は、アメリカの協力が得られないため不可能になったが、植村が新たに描いた構想は、八月に出発、アルゼンチン軍用機の補給投下を受けながらビンソン・マシフまで一五〇〇キロ犬橇で駆け、登頂を果たしたあと、再び復路一五〇〇キロを戻り、三〇〇〇キロの犬橇の旅を完成するというものであった。  基地では、エレーラ隊長以下二十名のアルゼンチン軍の隊員たちの共同生活で、炊事、掃除当番なども順番で担当した。基地にはシャワーしかないが、極地での生活になれてきた植村にはそれで十分だった。  植村は仕事の合い間を見て、準備にとりかかった。今回使う橇は北極で使ったものと同じタイプで、幅一・一メートル、長さ四・五メートル、重さ八〇キロ。実はこの橇は、兵庫県日高町の正木徹を介して、郷里の大工に作ってもらったものである。正木が明かす。 「北極点のときの橇が具合がよかったから、型をとって作ってもらえないか、と植村から連絡があり、知人の八木睦夫という大工に頼んで作ってもらった。材質は強くて軽いものということで檜《ひのき》にした。出発まで一週間もないというあわただしさでした」  正木に依頼したのは、北極点遠征で使った装備一式を後援会が管理していたからだが、植村にとっても郷里で作ってもらった橇で南極大陸を走るのは一種の本懐であったろう。日高の「アダ培」がいま南極で夢を花ひらかせようとしているのだ。もう一つ、カーボンファイバーで作った三〇キロの軽量の橇も用意した。北極点・グリーンランド遠征のとき、オーロラ・ベースを守った多田雄幸らも協力した。あとで植村と多田は劇的な交信を交わすことになる。  三月中旬を過ぎると、南極は冬に向かい、ブリザードが吹き荒れた。最大風速毎秒五〇メートルを越す日が多くなり、外に出ると吹きつけた雪がたちまち顔に凍りついた。小用をたすときなど大変だ。風が足元から猛烈な激しさで吹き上げ、みんな顔と体にかかって凍ってしまう。二名の越冬隊員が犬橇の訓練に出かけたが、犬たちはあまりの風のもの凄さに顔をそむけて真っすぐ進めない。いつか方向がズレている。北極では体験しなかったブリザードの白い恐怖だった。植村はそれでもひるまず犬橇の訓練を続けた。条件が過酷であればあるほど植村の闘志は熾烈に燃えた。  青天の霹靂《へきれき》のような戦争が勃発した。  四月二日、アルゼンチン軍が突如、英領フォークランド諸島を占領したのだ。基地内は騒然となった。エレーラ隊長以下全隊員が、ブエノスアイレスの南極本部から流れてくる無線機の前に緊迫した表情で集まり、情報が入ってくるたびに一喜一憂した。興奮した隊員たちが叫んだ。 「わが祖国、アルゼンチン万歳。おれたちも戦争に従軍すべきだ」 「フォークランドの領土問題は、百五十年も前からイギリスとこじれてきた。この占拠でわが祖国のものとなった」  興奮と怒号が渦巻く基地の中で、植村は予想もしなかったフォークランド紛争の勃発に愕然とし、この紛争が自分の冒険にどういう影響をおよぼすのか、見当もつかなかった。  最初優勢だったアルゼンチン軍は、サッチャー首相の不退転《ふたいてん》の決意によって反撃を開始したイギリス軍の前に、次第に戦局が不利になっていった。軍人のエレーラ中佐は、それでも植村にきっぱりと約束した。 「紛争と南極基地は別だ。我々がウエムラの壮大な計画をバックアップすることに変わりはない」  植村はその言葉に一縷《いちる》の望みをつなぎ、苦悩を隠して犬橇の訓練に励んだ。南極の太陽は東から北の空へ昇る。五月になると、次第に太陽の日照時間が少なくなり、六月に入るとついに姿を消した。暗黒の世界がきた。海の氷は厚く凍り、一面が大氷原となった。ブリザードが一段と厳しくなる。冬の到来だ。隊員たちはすっかり無口になってしまった。  植村は佐藤久一朗にハガキを書いた。 「先生、お体の方はいかがですか。南極でときどき先生の顔が思い浮かびます。ナオミは一生懸命何とかうまく成功させて帰りたいと頑張っています。8月ビンソンへ向けて出発予定でしたが少々遅れ、デポを受けるアルゼンチン軍の支援でビンソンへ1500�犬橇往復しますが、果してどこまでできるか。最後の最後まで努力してみたいと思っています。  この便りが着く頃は出発していることと思います。(中略)体の方も-20℃、-30℃にも慣れました。私も共にする犬達も皆んなとても元気。先生に一刻も早く御話しできるのを楽しみにしていますが、よろしく見守って下さい。サンマルティン基地にて 植村直己」  植村は予定が過ぎても出発できなかった。軍用機が使えないため、植村は基地の陸軍越冬隊員によって食糧などをデポしてもらい、犬橇を走らせる計画を立てたが、陸上支援のデポ活動が期待できなくなり、とうとう犬橇の旅は断念した。そこへ十二月二十二日、アルゼンチン南極本部が正式に伝えてきた。 「飛行機による支援はできなくなった」  表向きの理由は、南極大陸の天候が不安定で、ビンソン・マシフ山麓までの飛行も着陸に非常な危険がともなうため、というものだった。この連絡を受けた瞬間の植村の表情は、これまで見せたことのない凄愴なもので、鬼気迫る顔といってよかった。唇をぎゅうっとへの字に結び、天を仰いだ。口惜しさと無念さに次の瞬間、放心したようになった。  犬橇が駄目なら、せめて新たに飛行機でビンソン・マシフ山麓まで運んでもらい、単独で同峰の登頂だけでもと計画を絞ったが、その登頂計画も潰れた。最後の望みも断たれ、これまで描いてきた全ての夢があっけなく消えさった。夢ははかない幻となった。 「できることなら、自分一人で歩いてでも行ってみたい。それで尽きるなら、それでもいいんじゃないか……いやあ、もうわかんないです、どうしたらいいのか……」  植村の断腸の声が哀れだった。  その頃、多田雄幸は、愛艇『オケラ五世』をただ一人操作して、ケープタウンからシドニーに向けて海を走っていた。このとき五十二歳の多田は、八月二十八日、アメリカのニューポートを出発、ケープタウン→シドニー→リオデジャネイロを経由し、またニューポートに戻ってくる世界一周単独ヨットレースに参加していたのだ。  手作りのヨットは、全長一三・二メートル、幅三・九五メートル、マストの高さ一四メートルの愛艇で、この伝統のあるBOCレースに参加している十七名のヨットマンは世界中から集まってきた海の猛者《もさ》ばかりである。死の無風地帯の大西洋を横断し、南氷洋吠える四〇度線を突破し、全長一〇万キロにおよぶこの過酷で孤独なレースを、ただ一人で乗り切らなければならない。途中で遭難や座礁し、棄権するヨットマンが何人もいた。レースは九ヵ月にもおよぶ長丁場だ。それも波濤《はとう》渦巻く海の上のレースである。植村と多田の心が通い合うのは、陸の冒険と海の航海の違いはあれ、不撓不屈《ふとうふくつ》の精神力と冒険魂がお互いに惹き合うものがあったからだろう。  当然のことながら、多田は無線技術に習熟している。多田のコールサインはJH1FOA。植村もハムの免許を持っている。植村のコールサインはJG1QFW。  十二月二十六日、多田はオーストラリアと南極大陸の中間あたりを航海していた。南緯四六度、東経一二四度。植村のいるサンマルティン基地は、南緯六三度、西経六一度。距離にして七九〇〇キロ離れている。これまで呼び出しても応答がなかったが、この日突然植村の声が鮮明に入ってきた。 「JH1FOA、JH1FOA、エー、こちらはJG1QFW植村です。聞こえますでしょうか」 「JG1QFW植村さん、こちらJH1FOA多田です。お久しぶりでした。皆さん、お元気ですか、どうぞ」  こうして悲痛な会話が交わされる。 「エー、多田さんの元気な声を聞きまして、安心しました。実は、エー、私のほうは大変残念でありますが、アルゼンチン陸軍の支援が完全に打ち切られまして、エー、ビンソンに行くことができません。実は、エー、このクリスマス前に、アルゼンチン側から正式に戦争を理由に通達してまいりまして、残念ながら、私たちは、エー、サンマルティン基地から動くことができなくなりました。了解でしょうか。どうぞ」  多田は思わず息をのんだ。あれほど夢を賭けた南極が駄目になったとは。多田はわざと明るい声を出した。 「植村さん、了解しました。非常に残念ではありますが、そういう事情であれば致し方ないと思います。また次の機会を狙って、計画を立ててください。残念ですが、事情の変化であれば仕方ありません」 「エー、初めて通信できましたのに、このようなことを伝えるのは残念なんですが、エー、こちらでは一生懸命ガンバっていたんですけど、突然に陸軍の最高司令官の命令ということで協力できないといわれまして、エー、本当にこちらとしましては、もうガッカリしているところであります」  植村の声には落胆の色が隠せなかった。その後、植村との交信が孤独な多田の楽しみとなり、かえって植村から激励を受けた。多田がそのときのことを話す。 「もう植村さんの気持ちが痛いほどわかりますからねえ。もう一度ビンソンをやるなら、今度はアルミか鋼鉄で、ナンセンが極地探検用に作ったフラム号みたいに、船底を丸くしたヨットを作れば氷に囲まれると押し上げられてそのまま越冬できますからね、それで日本から直接ビンソンに近い場所に着けてベース兼用にしたらどうか、そうすればアルゼンチン軍の世話にならなくてもすむから、なんて話をしたものです」  東京の留守宅を守る妻の公子も、ハムの免許を二年前の一月に取得していた。コールサインはJM1SGM。公子は夫が長く留守にするときは、ボンヤリ無為に過ごしてはいなかった。ハムは南極にいる夫と話したい一心で取ったものだ。前年からは毎日NHKの講座で高校の通信教育を受け始めた。卒業まで最短期間で四年かかる。月に一度は国立のNHK学園に通って体操などの実技を受けなければならない。  初めて南極の基地にいる植村と交信できたのは三月の始め頃で、「元気か」と夫はソッケなく言っただけだったが、公子が話す。 「無線はみんな聞いているから、ソッケないですけど、感動しましたねえ、南極と話ができたという喜びは想像以上のものでしたね。本当に嬉しかったですよ」  それが今度はつらい交信となった。�パッチ・フォーン�という特殊な、トランシーバーのような無線機で、夫と妻が交信した。 「エー、長い間連絡できなかったけれども、エー、残念だけれども、どうしようもありません、アデランテ・カンビオ(どうぞ)」 「了解しました。元気にやっていますでしょうか。アデランテ・カンビオ」 「エー、元気、元気です、元気です。エー、仕方がないと思っています。どうぞ、あ、カンビオ」 「結局は自分のことなのですから、自分で判断して、自分で道をひらいていったほうがいいと思います。あのう、当分つらい思いをしなければなりませんけども、自分で選んだ道なんですから、自分で解決するしかないと思います。アデランテ・カンビオ」 「ハイ、わかっています、わかっています」  南極の夢は、また先のばしになった。橇は植村の夢を乗せて走ることなく、そのまま植村の手で虚《むな》しく解体された。  翌年二月、植村は果たせぬ夢を残して、南極から砕氷船でブエノスアイレスに向かっていた。二月二十六日、フォークランド諸島の東を通過するとき、多田の『オケラ五世』の姿が目に入った。イギリス領海近くのため、船の無線が使えず交信はできない。多田も砕氷船に植村が乗っていることは知っていた。奇跡的に、植村と多田はフォークランド諸島付近ですれ違った。  多田はシドニーからリオ・デ・ジャネイロに帆走していた。そして最終目的地に帰ってきたのは五月十七日。多田は大いなる快挙をなしとげた。『オケラ五世』は世界一周単独ヨットレースに堂々と優勝したのだ。日本人ヨットマンとしては初めての栄光を多田は掌中にした。怒濤逆巻く南大西洋の海の上で、栄光の多田と失意の植村と、男の明暗が交叉した。 [#改ページ]   第六章 見果てぬ夢を残して   1 公子との最後の生活  植村直己が冒険をするうえで、絶対の信条としていることが一つある。それは「絶対に生きて還ること」という信念だ。むろん、どの登山家にしろ冒険家にしろ、死ぬことを前提とした行動はあり得ないから、当然といえば当然の話だが、自然の苛酷な条件は栄光のあとに死をもたらすことがある。それをまた誰よりも知っているのが植村だった。  植村は南極で、アルゼンチン軍の南極本部から十二月二十二日、「飛行機による支援は不可能」という絶望的な最終通告を受けたあと、二十九日、東京の公子と無線でこんな会話を交わした。 「加藤保男が冬のエベレストに立ったというのは本当ですかア。こちらでちょっとニュースを聞いたけど、カンビオ(どうぞ)」 「そのニュースは本当です、カンビオ」 「すごいねえ、カンビオ」  植村は衝撃を受けて、言葉を失った。  エベレストにだけ登山家としての生命を賭けてきた三十三歳の加藤保男は、この年の十二月二十七日、厳冬期のエベレストに小林利明とともに頂上をアタック、小林は無念の涙をのんだが、加藤だけが単独で登頂に成功、ネパール政府公認の最初の厳冬期登頂者となった。これで加藤は、春、秋、冬と、世界で初めてエベレストに三回登頂した「三冠王」の名誉と栄光に輝いた。しかもネパールとチベットの両側からも登攀している。そのニュースが南極へも伝わり、植村は公子へ確認したのである。  植村と加藤は、ヨーロッパ・アルプスで何度も一緒になった山仲間で親しい。加藤が一九八〇年にチベット側からエベレスト北東稜を登ったときは、こんなハガキをもらった。 「植村さんより一足先にチョモランマに登り、南北から二度目の登頂を果たしてきます」  その加藤が今度は厳冬のエベレストを単独で登った。植村は、「保男君やったな!」と加藤の勇気に感服すると同時に、ある種の妬《ねた》みと羨望を禁じ得なかった。自分は前年に同じく冬のエベレストに挑戦したが、強風に阻まれてサウス・コルで敗退、あまつさえ隊員の竹中昇を失っている。そのうえ、夢を賭けてきた南極も挫折、砕氷船が迎えにくるまで、今は虚脱した日を送っている。二重の意味で敗北感を感じていた。  多田雄幸は世界一周シングルハンド・ヨットレースで快走しているし、エベレストで第二次偵察隊から一緒だった小西政継は、南壁で無念の涙をにじませたあと、一九八二年に中国側からのチョゴリ(K2)の登攀隊長として隊を率い、攻撃隊員十二名のうち六名が頂上に立った。植村は「なぜおれだけが力足らずなのか」と、情けなかった。  そこへ加藤の単独登頂を知り、植村の気持ちは暗く沈んだ。ところが年明けて一九八三年一月二日、ブエノスアイレスと交信していた越冬隊員が、「新聞に、冬のエベレストに登った日本隊が遭難して二名死んだ、一人はカトーというそうだ」というニュースを伝え、植村は愕然とした。保男君が登頂に成功したあと還らない。まさか、あのスーパーマンのような男が。  加藤保男は二十七日に登頂成功、下山途中で小林とビバークを余儀なくされ、再び生きて還らなかった。二人の遺体は今もなお、エベレストの氷雪の中に埋もれたままである。植村は請われて、加藤保男の追悼写真集にこう一文を寄せた。 〈真実は、その場にいた者にしかわからない。しかし、残念である。生きていてほしかった。生きて帰って来てほしかった(文献19)〉  植村が一年後同じ運命をたどり、この一文が�絶筆�になろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。  フォークランド紛争という不運に翻弄《ほんろう》されて挫折した植村は三月十六日に帰国したが、南極で気持ちを整理してきたのか、公子の前にショックの色は見せなかった。 「つらい気持ちだったとは思いますが、残念だったなあ、とかそういうことはいわない人です。どうにもならなかったのは、本人が十分知っていることですからね」  気をつかったのは、むしろ周囲のほうで、佐藤孝子は公子にこう電話している。 「南極のことはなにもいわないようにしましょうね」  植村は帰国するとすぐ、アルゼンチン基地から持ち帰った南極のアンモナイトの化石を土産に、練馬に佐藤久一朗を見舞った。 「先生、ただ今帰って来ました」  植村はいつも大きな声で入ってきた。病床に横たわっていた佐藤が、元気に帰ってきた植村の姿を見て目を細めた。 「おお、帰ってきたか。南極は残念だったが、ま、気を落とさないでやんなさい」 「はい、また必ずチャンスがあると信じています」  植村は屈託なく答え、越冬中の話をあれこれとする。佐藤は「うん、うん」とうなずきながら、嬉しそうに聞いている。  佐藤は一九七九年、ヨーロッパ・アルプスへ金婚式の祝いの旅行で行ったとき、すでに体調を崩していたが、帰国して間もなくその年の十二月、山形の甥が急死、葬式に向かう途中の列車の中で倒れた。軽い脳血栓だった。 「足が鉛のように重い」  といって動けず、葬式に行くこともままならず途中下車をする。孝子がその後を話す。 「私の実家は医者で、甥が順天堂におりましたもんですから、そこに入院しまして、幸い一時よくなったんです。そうすると、すぐ家に帰りたがりまして、入院したり退院したりを繰り返したんですが、その後はずっと自宅で静養しておりました」  左半身不髄の体となり、一時は筆談で話をしたこともあるが、日常的な会話はさして不自由でなく、佐藤は植村の土産話を聞くのを無上の楽しみにしていた。若いときから日本アルプスを駆けめぐり、七十歳すぎてから植村、小西のエスコートでヨーロッパ・アルプスのアイガー、マッターホーン、モンブランの三大峰を登頂、さらにメンヒも登って、老いてますます盛んなその健脚ぶりで驚嘆させた佐藤は、いつも妻の孝子にこう�遺言�していた。 「自分が死んだら、山に骨をまいてくれ」  それほど山を愛していた佐藤にとって、病床に横たわっていることはどんなにつらかったことだろうか。植村のために自らシャブシャブを作ってご馳走してやることはできなくなったが、孝子が植村の好きな野菜サラダや漬物をどっさり作って待っていた。 「北極などでアザラシや鯨などの肉を喜んで食べていたというから、私、最初はお肉がいちばんお好きなのかと思っていたら、漬物がいちばん好き、というの。それならということで一杯お出しするんですが、丼一つペロリと召し上がります。サラダも生に近いほうがいいのね。旅をしていると野菜類に飢えている感じですね」  孝子が、トマトの皮をむこうとしたら、植村が目を丸くして「もったいない」といい、メロンを出すと、最後の一ミリくらいまできれいに平らげた。孝子のほうがむしろ反省させられたくらいである。  漬物といえばこんな話がある。エスキモー犬の金太郎を贈られたあと、常陸宮妃殿下から食事のお招きがあった。妃殿下がじきじき佐藤のところに電話をされて「なにを差し上げたらよろしいのか」と御下問があった。佐藤が「植村はお新香が大好きです」とお答えすると、当日、たくさんの漬物類が用意されていたという。 「御殿であんなにお新香が出たのは初めてじゃないかしら」  と、孝子もそのときの話を微笑ましく思い出す。  家庭でも、公子は漬物を切らしたことがない。旅から帰ってくるタイミングに合わせて、自家製の漬物を作って夫の帰宅を待っていた。植村はショックの色はなにも見せなかったが、公子には夫がなにも話さない分だけ、よけいに苦しんでいる気持ちがよくわかった。  人並みの生活があまりできない夫婦である。南極から帰国した植村は、なにかに耐えているようだった。ふだん、家にいるときの植村は亭主関白で、徹底的にゴロゴロしていた。植村家は一階にテレビや無線機器のある茶の間と台所などがあり、二階は三部屋。公子が二階で仕事をしていると、所在なげにテレビを見ていた植村が上がってきて、 「公ちゃん、どう、元気?」  なんていう。妻の顔を見ると安心するのか、 「じゃあ、またあとで」といって下に下り、何分もしないうちに上がってきて、 「どう、元気?」  と同じことをいう。植村なりの気のつかい方だったのかもしれない。  その反対に、一日中ポケーッと狭い庭を見ていることがあった。会話もない。なにを考えているのか、公子にはわからない。聞いたところで、植村が次の冒険のことを具体的に話をしてくれたことはなかった。些細《ささい》なことから夫婦ゲンカもした。植村に叩かれたこともある。そういうときは無抵抗でいると、激情が去った植村はバツの悪そうな顔をした。公子はいう。 「とにかく、あの人は複雑で不思議な人でしたね」  他人の前では、いつも謙虚でへりくだり、ニコニコ笑って、誰からも愛された植村だが、公子の前ではその素顔をさらした。植村夫妻を見てきた湯川豊が話す。 「植村という人格の秘密を全部知っているのは、おそらく公子さん一人じゃないですか。植村は心身ともに全存在を預けた。公子さんはそのつっかい棒になっていた。植村は劣等感のかたまりで、じめじめ、ぐずぐずと考えるタイプです。その反面、自尊心が強い。その全てをさらけ出したのは公子さんだけだと思いますね」  同じく設楽敦生もいう。 「公子さんは妻であり母であり恋人であり、姉であり妹であり、また友だちでもあった。植村さんにとってああいう理想的な女性はいませんよ。もしかすると、植村さんは、公子さんというお釈迦さまの掌の上で踊っていた孫悟空かもしれない」  公子はいうときはポンポン思ったことをいった。それも夫のことを心配するからだ。植村は四十二歳、厄年である。冒険をするうえで体力の衰えは死につながりかねない。 「ねえ、自分は若い気でいても、自分で思っているより年をとっていることってあると思わない?」 「おれもそう思うよ」 「体力がなくなってきてんじゃないの?」 「それはあるかもしれない」 「じゃ、もう冒険やめたら?」 「そうしようか」  こんな夫婦の会話を交わしたことが何度もある。最後は決まって植村が苦笑する。 「毎日、家にいたらおれはすごく虐待されるんだろうな」  そして結局、植村はまた冒険に出ていく……。  南極から帰って数ヵ月、植村はまた動きだした。冬期エベレスト、南極と不運が続いて、自分に対する世間の目が微妙に変わりつつあるのを敏感に感じたのだろうか。それともあれほど見果てぬ夢として追ってきた南極が、思いがけない形で挫折したことで、なんとかもう一度必ずアタックしたいという願望がまた熾烈《しれつ》に燃え上がってきたのだろうか。これまでの自分の冒険の軌跡を振り返ってみて、いろいろな反省もあったのだろう。  植村は湯川にいった。 「一からやり直しをします。原点に戻ります」  これはなにを意味するのだろうか。湯川は少なくともこう解釈している。 「植村の冒険はもともと一人でやってきた。無手勝流できたわけです。北極点だって、最初は成算もなく、無手勝流で始めたのが、結果的には人を動かして、バックが組織的になった。南極でも、一人でアルゼンチンを動かしたわけですね。つまり原点は自分一人でしかない。地に足をつけた形でもう一度、昔の原点に戻り、目標を南極にだけ向けるということではないでしょうか」  その一方で、湯川は、植村のものの考え方が「重層的」「複眼的」になっていた、と明かす。それは植村が将来「野外学校をやりたい」と、初めて人生の現実設計を考え始めたことを指す。 「植村は、青少年の教育に少なからぬ関心を持ち始めていた。戸塚ヨットスクールのスパルタ教育が問題になり、植村は、戸塚のやり方は問題だが、こういう類《たぐい》の教育は必要だ、といってましたね」  海洋学者で東海大講師のソロモン・ハロルドは、植村からこう相談された。 「アメリカのどこかの大学に冒険とか探検の講座を持っているところはないだろうか」  植村は冒険の経験はあるが、教え方はズブの素人である。それを勉強しようとしていた。ハロルドは、かつて自分も在籍したことのあるミネソタのアウトワード・バウンド・スクールを紹介した。その学校は「屋外活動を通じて人間の教育に貢献する」という方針で知られ、犬橇の教科があるのは、アメリカの野外学校でもここだけである。植村は、犬橇のコースがあるということで気に入ったようだ。ソロモン・ハロルドが話す。 「彼は青少年の非行問題に関心があった。それで南極横断の夢が成功したら、日本でもこういう野外学校をやってみたいという構想を抱いていたようです。しかし私には、それがなぜ南極のあとなのかわからない。植村さんは北極点でもグリーンランド縦断でも、あれだけ業績があるのに、なぜいつまで危険な南極や山に命を賭けるのか、わからない。生活するためには危険な冒険をやり続けなければならない、そういうことを日本の社会やマスコミが彼に要求しすぎていたのではないか」  この年の七月、リゾリュートからベーゼルことベゾが来日した。映画『南極物語』の撮影に協力したベゾは、東京のプレミアに招待されて来日したのだが、このとき植村の自宅に三泊した。このとき植村はベゾと初めて将来のことを語り合った。 「引退は栄光のうちにするべきだ。老残をさらすのはよくない」  ベゾは、グローリアス・リタイア(栄光の引退)を勧めた。 「カシアス・クレイの二の舞をふんではいけない。その後のボクシングが無残になったのは知ってのとおりだ。人は年齢を重ねると、誰でも体力が落ちる」  植村は、グローリアス・リタイアについては、「そうかな」といって、完全に賛成はしなかったが、野外学校の話はしている。 「将来は小学六年から高校生までを対象としたサバイバル・スクールをやりたい。経験はあるけど、どうやって人に教えるか、それを学ぶためにミネソタへ行く」 「サバイバルならミネソタよりリゾリュートへきて、エスキモーに学んだほうがずっといい」  ベゾの勧めに植村は乗り気ではなかった。すでにミネソタへ行く気持ちが固まっていたようだ。植村夫妻は、安藤、設楽、五月女らと一緒にベゾを熱海に招待したり、公子が日帰りで京都を案内したりして、極北からの客をもてなした。ベゾは、植村のマッキンリー登山でも重要なアドバイスをすることになる。  植村は八月にブラジルとアルゼンチンへ行く。例によって高山良比古を訪ね、二人でサンカルロス・デ・バリーチェというアルゼンチン陸軍の山岳部隊の基地に行った。南極で越冬中に親しかったウガルテ少尉がここの指揮官をやっていて招待されたからだが、スキーを楽しみながら、植村は高山にこう打ち明けている。 「近い将来、北海道あたりに青少年の冒険学校を作りたい。アルゼンチンで牧場か、パタゴニアで探検学校をやれたらそれもいいですねえ」  ミネソタへ行くことはすでに決まっていたが、マッキンリーのことはごく少数の人にしか話していない。しかしこのとき、高山にははっきり話している。 「厳冬のマッキンリー単独はまだないから、必ずやってみたい」  湯川も数少ない一人で、植村は軽い気持ちでこう伝えている。 「ミネソタの帰りに、冬期のマッキンリーをやります。帰りがけの駄賃で登ってきます」  湯川は「冬のマッキンリーがどんなものか知らず」に、やはり軽い気持ちで「じゃ、やってきたら」と送り出した。   2 夢の糸口を探して  公子は、今回の渡米は夫が背広姿で行くものとばかり思っていた。植村は、いつもそうであるように、公子に仕事のことはなにも話していなかった。シアトルとミネソタに行くことだけは教えられたが、公子は山に登るとは聞かされていなかった。出発の準備を始めた夫がいった。 「今回は背広はいっさいなしだ」 「あら、そうなの」  と答えたが、どうしてなの、とは聞き返さなかった。実は公子は知っていた。植村は吉田宏と連絡をとりあって、マッキンリーの登山許可の問題でしきりに電話でやりとりをしていたからだ。直接口ではいわないが、妻がそれを聞いていることは知っている。それが植村流のやり方なのかもしれない。北極点遠征で白熊に襲われ、九死に一生を得た話も、公子は、植村が他の人たちに話しているのをそばで聞いて初めて知った。  数日前もこんなことがあった。夜遅く二人で、家の近く常盤《ときわ》通りにある深夜営業の小さな中華ソバ屋に行った。歩いて五分もかからないところだ。植村はラーメンが大好きで、ラーメンと餃子をとった。公子はさしてお腹が空いていなかったので、夫が食事をするのを見ていたが、夫が「公ちゃんも食えよ」というから、餃子に手を出した。最後に一つ残ったのを、夫が「公ちゃん、食べちゃいなよ」と親切にいう。「あなた、どうぞ食べなさいよ」といっても、「いいから食えよ」と勧めるから、公子が素直に「そうお、じゃ」といって食べた。家に戻る道すがら植村が真顔でいい続けた。 「あの餃子、食べたかったなあ」  北極点のときのキビアックのエピソードを思い出させる話だが、公子はおかしさがこみあげるより、ふと自分たち夫婦の関係を思った。 「結婚して十年間になるわけでしょ。それでも妻の私に気をつかう、そういう人なのかなあって……」  公子が二階へ上がると、準備をしていた植村が荷物の中にピッケルを入れようとしているところだった。妻に見つかると、まるで子供がイタズラをしているところを見つかったようにバツの悪い顔をして、一人ごとをつぶやいた。 「これは入れようかな、どうしようかな」  出発前に植村は長兄の修やあちこちに電話をしているが、日高町の隣り町、八鹿《ようか》に嫁いでいる次女の好子が不思議がる。 「いつも電話は、二、三分で切れるのに、あんときは直己が三十分以上も話して、家のことや父のことをよろしく頼む、というようなことをしゃべっとった。今までにないことだったので、気になっておりました」  長女の初恵も長い電話をもらって、いつもの直己とはちょっと違うな、と思った。それが兄や姉たちが弟の声を聞いた最後となった。  十月二十日、植村は公子と成田空港へ向かった。見送るのは公子と土肥の二人だけである。いつもは盛大な見送りで人の渦となる植村の周囲が、今日は妻と土肥の姿しかない。植村が教えなかったからだが、そこにかつて一人で外国へ飛び出して行ったように、自分の原点に戻ろうとする植村の姿勢がうかがえた。  土肥は植村から、「アメリカへ語学研修に行く」という連絡をもらい、妙な気がした。その晩、植村宛に一通の手紙を書く。手紙に気持ちだけの餞別を添えて、空港で渡そうとした。植村は金が入っていることに気がつくと、あわてて固辞し、絶対に受け取らない。 「渡そうとする私と逃げ回る植村と、まるで空港内のロビーを鬼ごっこするみたいになりましてね、このときばかりは植村の潔癖さに腹だたしい思いさえしたものです。でも、そういう頑固なくらいの一途さ、潔癖さ、折り目の正しさが、私はたまらなく好きでした」  その手紙は結局、植村の手に読まれることなく、幻の手紙となったが、それには土肥の気持ちがこうしたためられていた。 「植村、どんな理由で今頃アメリカへ行くのか、私には君の真意が理解できない。誘惑の多い日本から脱出して、無の境地で将来のことを考えるのか。それとも君の念願である南極を実現させるべく、アメリカで再度、君の力を確認させようというのか。  しかし、現在は時機尚早だ。時を稼げ。君の性格としては、ぬるま湯に浸っておれないだろうが、エベレスト、南極とこのところついていない。天にも味方してもらえないで、所詮は駄目だ。あくまで自重されたい。とにかく体だけは大事にしてくれ」  植村の手に渡ることのなかった手紙を握りしめながら、土肥は出発口に向かう植村の後ろ姿に、日本を逃避するかのように去っていく男の孤独の影を見た。 「じゃ、行ってらっしゃい」  公子の声に植村が軽く手をあげる。 「じゃ」  ベージュのコールテンの上着を着て、無造作に濃紺のザックを肩にかけた植村が足早に去っていく。途中で一度振り返った。黒いセーターの襟元から白いブラウスの襟をのぞかせた清楚な妻の姿を見た。手を振り合う夫と妻。公子と土肥に見送られて、植村は再びゲート方向に去り、二人の視界から消えた。それが妻の公子と土肥が植村の姿を見た最後の別れとなった。  植村は、アメリカに入ると行動を開始した。シアトルで開かれたアメリカ山岳会の年次総会に姿を見せ、そこでシアトル在住の弁護士で登山家のジェームズ・ウィックワイアと会った。彼とは一九七七年、北極点遠征の準備のため、シアトルに買物にきたとき知り合って以来の友人で、北極点で使った二重のシュラフ(寝袋)はウィックワイアがアドバイスしたものだった。そのお蔭で白熊に襲われたとき、白熊は植村をかぎつけたが、寝袋が厚かったため姿を見つけることができず、植村は奇跡的に命拾いをした。  植村は、K2の登頂者でもあるウィックワイアに自分の登頂計画を話した。 「来年の二月に冬のマッキンリーを単独でやるつもりだ。その前にミネソタの野外学校でサバイバル学を学んでくる」  ウィックワイアも登山家として、冬のマッキンリーに対しては興味を持っている。できれば植村と一緒に登りたかったが、植村は単独行を決意している。テレビ朝日の大谷映芳が同行取材を申し出てきたのはシアトルにきてからで、大谷もK2の登頂者である。シアトルのレストラン「ラブシゼル」でハンバーガーを食べながら、植村が冗談半分にいった。 「私が単独で登頂したら、そのあと大谷君も加えて三人で第二登をやろう」  植村は厳冬期マッキンリーの単独初登頂者の栄光と記録を狙っていた。植村は「垂直から水平へ」と冒険家の座標軸を変えたが、また山に戻ってきた。そして彼の場合、登る山は必ず夏に一度登った山に限られている。厳冬期のアコンカグア、冬期エベレスト然り、そして今回のマッキンリーもそうである。  しかし今回は「単独行」ということを非常に意識していた。なぜ植村は単独行にこだわっているのだろうか。明大山岳部で登山を始め、チームでやる登山を鍛えられたはずなのに、植村は�はぐれ狼�のように一人で冒険に挑戦するようになった。その理由を彼はさまざまな形で話している。 「自分で最初から計画を練り、自分で行動する。これでうまくいったとき、いちばん感激がある。もし二人でやればその感激も二分の一になり、四人であれば四分の一になる。エベレストのような大部隊なら、自分はその歯車の一つにしかすぎない気がします。これでは社会の縮図と同じです。私は大学に入ったときは、学歴社会というのを意識してなんとか偉くなりたいと思ったのですが(笑)、結局、私はそういう実生活でうまく生きられないということがわかって、この世界に入ったんです。利己的かもしれないけど、私は単独でやるのが自分でいちばん満足できる行動ができるんです」  妻として夫の性格を見てきた公子は、自分なりにこう考えている。 「植村はグズでノロマなところがあるんですね。人と同じことをやるのに一時間ぐらい遅れないとできない。だから、ひどく苦痛なんだと思いますよ。本当に可哀相なくらい。人のことをすごく気にするタチだから、みんなと同じペースで同じことができないのは、よけいつらいと思いますね。その点、一人だと気が楽だから」  もちろんこういった要因もあるだろう。しかし植村の心の奥底でもっと激しく燃えていたのは男の野望、名誉への挑戦ではなかったろうか。これを持たない登山家や冒険家はいない。だからこそ生死を賭けて危険な山を登り、極地に挑む。「世界最初の……」と名誉ある言葉を冠された栄光こそ�冒険家の勲章�である。単独行はその栄光と名誉も自分一人のものである。  植村は、ウィックワイアにマッキンリー登山の準備のことで相談する一方で、もう一つの大きな目的に向かって手を打ち始めていた。植村は、アメリカの巨大企業、多国籍企業のデュポン社に秘かにコンタクトした。そのデュポン社から手紙が届いた。 「親愛なる植村さん、これはあなたが一九八四年一月十八日、水曜日に、イリノイ州シカゴ、北ミシガン540、60611のマリオット・ホテルで、デュポン・ファイブァーフィル・マーケティングチームと会うかどうかを確かめるための手紙です。どうかあなたの旅行計画を調整して、私たちに提出してください。そうすれば私たちはあなたに返事をするつもりです。私たちは十八日の夜マリオットにあなたの部屋を予約いたしました。お着きになりましたら、ボブ・バンダイク氏の部屋をお訪ねください。ボブは私たちのマーケティング・グループの者で、私たちの議論の鍵になるでしょう。私たちは、その夜はご一緒に夕食をとりたいと思っています。どうぞ参加くださるようお願いします。  植村さん、あなたの当社への関心に感激いたします。私は、私たちが一九八四年にともに仕事をすることができることを切望しております。もしご質問がございましたら、十六日に私をどうぞお訪ねください。キャロル・ギー」  手紙を受け取ると、植村はすぐ東京の吉田宏のもとへコピーを送り今後の行動日程を知らせた。デュポン社に出す計画書を作成してもらうためである。デュポン社は、植村が南極への夢をもう一度実現させるための手がかりとして望みを託した巨大企業であった。公子はこう信じている。 「植村は、たとえ針の穴でもいいから南極の糸口を見つけたかったんだと思う。そのためにアメリカに行った。野外学校をやるという話は、南極の夢が実現してから先の話です。あの人は二つのことを一度にできる人じゃない。もう一度、南極の夢は、自分でもできないのではないかという気持ちもあったと思うけど、やっぱり捨て切れなかったんですねえ」  植村は、どうしてもアメリカのナショナル・サイエンス・ファンデーション(国立科学財団)から許可を得られない場合、最後の手段として、民間航空機のハーキュリー(C130)をチャーターし、北極点と同じように補給フライトを確保しながら、最初からの目標、南極大陸の犬橇横断を考えていたようだ。そのためにはまた莫大な金がかかる。そこでデュポン社の協力を期待していた。そのデモンストレーションとして、アメリカ人になじみの深い北米の最高峰マッキンリーの厳冬期に単独でトライする。そういうシナリオではなかったか。  植村は一縷の希望を抱いて、カナダ国境近くにある「ミネソタ・アウトワード・バウンド・スクール」という野外学校へ入った。そこから佐藤久一朗へ出したハガキ——。 「お体の具合は如何ですか。十月二十日よりアメリカ北西部にある野外学校に来て、生徒と丸太小屋を建てたり、薪を割ったりやっています。十二月からは犬橇のコースも始まり楽しみです。来年の一月半ばまで学校にいて、その後二月末までアラスカの山に入る予定です。アメリカ人の中に一人いて、やっぱり何となく淋しく感じることがあります。まわりに全く人家のない人里離れた白樺林の中で、朝六時から夜十時の規則正しい生活。生徒たちはアメリカ一円からやってきていて、皆んな生き生きしています。  私も近い将来、このような自然を対象とした学校を北海道あたりにつくってみたいと夢みています。五月頃に帰国予定ですが、先生にお土産話をしたいと思います。お元気で。植村」  このハガキが植村が佐藤久一朗、孝子夫妻に出した最後のハガキとなった。  植村は、この野外学校で犬橇の扱い方を教えながら、自分もサバイバル術を学んだ。ここに約一ヵ月いた。野外学校を離れる前の晩、植村は初めて生徒たちにこんな話をした。 「君たちに僕の考えを話そう。僕らが子供のときに、目に映る世界は新鮮で、すべてが新しかった。やりたいことはなんでもできた。そうだ。医者になりたいと思えば医者になれたし、登山家になりたければ登山家になれた。船乗りにだってなれた。なんにでもなれることができるんだ。ところが年をとってくると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさを見ようとしなくなってしまう。大部分の人たちが夢を失っていくんだよ。  僕はいつまでも子供の心を失わずに、この世を生きようとしてきた。不思議なもの、すべての美しいものを見るために。子供の純粋な魂を持ち続けることが大切なんだ。いいかい、君たちはやろうと思えばなんでもできるんだ。僕と別れたあとも、そのことを思い出してほしい(文献20)」  植村の野外学校を作るうえでの考え方がよく現われている。そして植村自身、それを実践するためにマッキンリーに向かった。   3 「冒険とは生きて還ること」  植村はマッキンリーに発つ前、ミネソタから、妻の公子のもとへ電話をかけた。 「山に登るから竹竿を送ってほしい」 「どこの山へ登るの?」  公子が尋ねた。公子は、マッキンリーに登るということは薄々わかっていても、いざ本当に登るのだとわかると聞き返さずにはいられなかった。妻の切ない気持ちがにじんでいた。植村は「マッキンリーだ」と告げたあと、こう頼んだ。 「一月中頃までにアンカレジに着くから、その頃まで間に合えばいい。JALのアンカレジ空港止めで送ってほしい」  公子は、近所の竹屋から一本五百円で買った竹竿を二本用意し、それからリュックサックに日の丸や必要な装備などを詰めた。竹竿は五メートル近くあるので普通の車では運べない。友人のガラス屋の車で晴海まで運んでもらい、航空貨物でアンカレジに送った。航空運賃だけで七万円かかった。 「結婚したとき、植村が五大陸最高峰の石で作ったグイ呑みがパーティまで間に合わず、あとで一つずつ梱包して送ったの。自転車の後ろに乗せて郵便局まで運ぶの、とっても恥ずかしかった。そういうときに限って植村はいないんだから(笑)。グイ呑みから始めて竹竿でしょ。そのときは、私、いつまでこんなことをしてるのかしら、と思った」  植村がマッキンリーに登るということでの危機感は特別なかった。 「ただ、この十年間つねに緊張感がどこかにあって暮らしてきましたね。ある日突然、電話がかかってくるのではないかという緊張感はいつもありました」  冒険家の妻として、公子もまた夫が生死と戦っているとき、無事に生還してくることをひたすら祈りながら、緊張に耐えていたのである。  植村はミネソタを発つ前日、リゾリュートのベゾに電話をして、装備のことでいろいろ依頼し、こんな会話を交わしている。 「エスキモーが使うパーカ(フードつきの防寒服)を大至急作ってくれないか。冬のマッキンリーに登るんだ」 「わかった。でもマッキンリーにはすでに登っているではないか。どうしてまた登るのか」 「いやいや、冬は誰も単独で登っていない。新しい記録を作りたいんだ。そのあと三月には必ず行くよ。待っててくれ」 「ところでマッキンリーでは肉はなんの肉を食べるのか。アザラシの肉か」  ベゾが心配して尋ねた。 「いや、カリブー(北米産トナカイ)の肉です。アラスカではたくさん手に入るから」 「それは駄目だ。カリブーの肉は体が温まらない。栄養も違う。極度の寒冷地では体力がもたない。どうしてもというなら、鯨の脂をつけて食べなさい」  ベゾは親身になってそう忠告した。植村の冒険の成功を祈らずにはいられなかった。三月にはまた会えるのだ。  シアトルでテレビ朝日の大谷映芳らと合流した植村は、翌一九八四年(昭和五十九年)一月二十日、シアトルを発ってアンカレジに向かった。二十一日に到着。公子が送った竹竿などを受け取り、タルキートナに入ったのが二十四日。「ラティチュード62」というロッジ風のホテルに落ち着いた。北緯六二度の位置にあるところからつけられた丸太小屋風のロッジで、ウィックワイアが予約しておいてくれたものだ。  テレビ朝日のスタッフは、大谷の他、カメラマンの吉原修、助手の杉山教彦、番組構成者の糸永正之の計四名。糸永は、冬期エベレストで急死した竹中昇がカトマンズで書きあげた卒業論文を日本に持ち帰った友人である。植村はマッキンリーにくる前、竹中昇の鎮魂のために、愛媛県に住む知人の彫塑家・塩崎宇宙に竹中の胸像製作を依頼している。  植村は、ここに数日滞在しながら、ブッシュ・パイロットのダグ・ギーティングと綿密な打ち合わせをし、自らもダグの操縦する飛行機でマッキンリー上空を念入りに偵察した。ダグはアラスカで五本の指に入る優秀なパイロットだが、あとで植村確認の真偽をめぐって困難な立場に立たされることになるのだ。  植村はダグの操縦するセスナ機で、いよいよカヒルトナ氷河に降り立った。標高およそ二二〇〇メートル地点。ここにベースキャンプ(BC)を設営。植村は雪洞を掘り、大谷たち三名はテントを張った。糸永はタルキートナに残る。大谷映芳が話す。 「植村さんはほんとに嬉しそうでしたね。竹竿を腰にさして、がむしゃらに雪の上を歩き回っていました。出発の前の日なんかは、歩いて英語で、マッキンリーBC、と雪文字を書いたほどです」  BCで植村は登頂準備を重ね、体力の耐寒順化をはかった。雪洞を何回も掘る練習をした。冬期エベレスト以来、山は三年ぶりだ。しかも冬のエベレストは寒気と強風に阻まれて失敗している。より慎重にならざるをえない。これが成功すれば再び南極への道は開けるのだ。植村は、山仲間としての大谷にいろいろな話をしているが、大谷が忘れられないのは南極のことを語るときの植村の笑顔だった。 「マッキンリーがうまくいけばね、次は南極にもう一回トライする。今度はアメリカのスポンサーが全面的に協力してくれることになってるんですよ」  植村は、一月十八日にマリオット・ホテルでデュポンの人たちと会っている。そこで南極の計画を話し、デュポンがスポンサーになってくれることが決まったのだろうか。吉田宏は一月二十八日に、タルキートナの植村から電話をもらった。植村は嬉しそうに告げた。 「マッキンリーが終わったあと、イエローナイフに寄って、C130輸送機の打ち合わせをして帰ります。デュポン社も協力してくれるそうです」  デュポン社の協力がどの程度のものか、今となってはわからないが、植村は明らかに南極への糸口をつかんでいたようだ。それだけにこの登頂は絶対に成功させなければならない。  植村が十四年前、マッキンリーの単独登攀を成功させて、アンカレジに戻ってきたとき、地元は植村の単独登頂にわきたち、ジョージ・サリバン市長が、アンカレジ市の楯とバッジを贈って、その偉業を讃えた。 「ナオミ・ウエムラは、マッキンリーの単独登頂に世界で初めて成功をおさめ、このアラスカに新しい歴史を作ってくれた」  植村にとって、このマッキンリーは、五大陸最高峰登頂を完成させた山であり、その栄光がそれからの植村の人生の方向を決定づけたという意味でも、植村には生涯忘れることのできない�原点の山�である。その山に植村は再び自分の人生を賭けてやってきた。大谷がズバリ聞いてみた。 「冬期エベレスト、南極と、ちょっとうまくいかなかったけど、そこらへん、どうですか」 「うーん、やっぱりね、エベレストなんか、大事な隊員を死なせて今まで考えていなかったいろんなことが、反省させられましたね。南極のことも、フォークランド紛争で、目先にビンソンがありながら出られなかった。自分でビンソンが登れなかった。悔しい、チキショーっていう感じが今やっぱり残っていて、極地のこのマッキンリーに冬一発入ってやろう、と。まあ幸いなことにっていうか、前も夏、マッキンリー単独の初登攀させてもらったし、ちょうど今ここには、まあ冬はチームで入ったという経過はあるにしても、また単独でさらに狙えるという、そういう幸運が自分に今あるような感じ、なにかチャンスが自分に与えられているような感じもします。もし頂上に行けなかったら、もう頭抱えてね。日本に帰りますわ」  植村は屈託なく笑った。その笑顔の陰に、植村の激しい執念が燃えているのを大谷は感じた。その一方で、植村は自分の体力が確実に落ちているのを感じていたのかもしれない。橇を引くとき大汗をかく。以前にはなかったことだ。つい大谷の若さが羨しくなるときがあるのか、こういったことがある。 「大谷君はぼくの年齢まであと七年はある。いいなあ」  ヒマラヤのジャイアンツ峰や難しい山を登るとき、体力的にはだいたい三十八歳くらいまでがピークといわれる。あとは経験の深さが体力をカバーしていくが、植村の四十三歳という年齢はもう決して若くはない。一歩間違えばそれはすぐ死に直結する。大谷は聞かずにはいられない。 「奥さんのことを思うことはありませんか」 「ぜーんぜん思わないですよ」  植村が破顔一笑し、少し虚勢を張るようないい方をした。 「全然もう、そんな、思うはずなんかないじゃないですか」 「でも、だいぶ心配されていましたよ」  大谷がさらに心の中をのぞきこむと、今度はふと真顔になった。 「あ、そうですか。まあ、やっぱり、思わないっていえば嘘なんですけどね。おれ一人では行動ができないと思いますからね。帰る場所はやっぱり女房の元しかないしね、最終的には。愛人というんですかねえ、そういった人がいてね、ちゃんとおれを迎えてくれる人がいたら、そこへ行くかもしれないけど(笑)そんなのいないし、もう……」  植村一流のテレがそこにのぞいた。 「奥さんをもらわれてから、前と今とではだいぶ違いますか」 「考え方がやっぱり変わってきましたね、結婚する前と結婚した後とは。結婚する前までは、格好いいことをいって、ホラ吹いてね、なにか行動していて、行くか引っ返すかの瀬戸際に立ったときに女房の顔が浮かぶようじゃ、ものはできない、なんていうようなことを人の前で堂々とね、おれはもうホラ吹いたことがあったんですよね(笑)。でも、なんとなしに、エスキモーと一年間の生活のあとで、フラッと今の女房と一緒になっちゃったんですけどね。一緒になってからというのは、やっぱり一人じゃないっていう……。行動しているのは一人だけれども、そのまわりでは女房も含めて、いろんな人が協力したり援助してくれてるわけですからね。そういうことを考えると、もう遭難なんていうのは……」  植村は強調した。 「山で死んではいけない。絶対に生きて還らなくちゃいけない」   4 マッキンリーに死す  植村はなかなか出発できずにいた。二十七日は天候が悪く、氷点下三〇度を記録。二十八日から三十一日まで悪天候が続き、植村はBCに閉じこめられた。大谷たちは極度の寒さのためテント生活に耐えきれず、大きな雪洞を掘って、植村と一緒に共同生活をした。マッキンリーは、ベゾの住む極北のリゾリュートよりもはるかに凍てついた氷雪の世界だった。植村の出発は一日延ばしに延びた。三十一日には絶対に出るつもりだったが、植村は気が乗らないのか、 「今日はやめよう、明日にしよう」  とまた延ばした。大谷映芳が話す。 「単独で山に入れば自然に出発していくんでしょうけど、楽しく一週間ほどわれわれと過ごしていたので、気が乗らなかったのかもしれない。なにか僕たちが追い立てて出してやったような気がして、ちょっと自責の念にかられたような複雑な気持ちでした」  二月一日、天候 くもり、雪。植村直己は冬期の単独登頂を目指して、いよいよBCを出発した。植村が橇に積んで携帯した主な装備類は、まず食糧がカリブーの肉、鯨の脂、ビスケットなど約二週間分。飲み水を作るための燃料。ウィックワイアから借りた二基の無線機。一基は本人、一基はBC。植村が持つ無線機はBCとヘリコプターの両方に通話可能である。八ミリカメラ一個。これはのちに自分でセットし、雪洞の前で動く姿を映して、最後の記録を残す貴重な役割りを果たすことになる。  植村はこれまでの冒険では、自分の使いならした羽毛服や靴を着用してきた。極北ではエスキモーと同じ白熊のズボンなどをはいて寒気と戦った。しかし、今回のマッキンリーでは二つだけ違っていた。一つはデュポン社のものと思われるケミカル繊維を身につけ、もう一つはエアーブーツを履いていた。あとでこれが問題視された。「経験は最大の武器」を信条としてきた植村が、ここで初めて信条を変えた。すでに悲劇の序曲はここから始まっていた。  午前十時三十分にBCを出発した植村は、途中まで取材でついてきた取材班とも別れ、いよいよ単独になって、カヒルトナ氷河の大氷河をクレバスを避けながらひたすら上へ登って行った。クレバスの落下防止のためにはさんだ二本の竹竿が命の綱だ。  装備類を乗せた橇が深い雪にくいこむように重く、懸命に前かがみになって橇を曳く。雪が深くラッセルを余儀なくされる。登攀は遅々として進まず、八キロ前進しただけで、午後四時近くなった。もう日がくれる。早く雪洞を掘らなければならない。東フォークカヒルトナ氷河合流点に一時間くらいかかって、長さ四メートル、幅一・二メートルの雪洞をなんとか掘ったが、雪洞の中でも氷点下一〇度を越していた。植村はこの登攀中も例によって日記をつけているが、その日記によると、すでに着るものが凍りついていた。 〈雪洞に入り、着ているものを脱いだが凍ってゴアテックスのヤッケ上下の裏側が白く氷がふちゃく、バリバリである。パイルのジャンパーも袖から肩、背中にかけて霜がふき、パイルのズボンの表面も雪をまぶした様に雪氷がくっついて、不快である。雪洞の中でただ手袋をはめた手で雪氷をはらいのけるより方法なし。雪洞はテントと異なり、部屋の中を温めることは不可能。雪洞の中で羽毛のズボンをはき、シンサレートの上下を着る〉  二日目、南壁に入ると、北フォーク氷河の出合いを過ぎてから登りの傾斜がきつくなった。そして南極のブリザードのような雪が吹きあげ、正面からもろに顔にあたる風が、鼻がちぎれるほど痛い。植村は三日目、氷点下二一度、強風の中を決死的に前進し、カヒルトナ氷河最上部のウインディ・コーナー手前まで達し、そこに雪洞を掘ってビバーク。  植村が登ろうとするコースは、一九七〇年夏に登ったコースと同じで、カヒルトナ氷河からウインディ・コーナーを通り、ウエスト・バットレスを登って鞍部にあるデナリ・パスに出て、主峰のサウス・ピークに達する計画である。  あのときは夏でも吹雪がすごく、外へ出たとたん体が硬直するほどの低温だった。なにしろマッキンリーは奥ゆきが深い。エベレストは、ロンブク氷河のゴンパから三九六二メートルの高さだが、この山は山の麓から山頂まで五一八二メートルもあり、地球上のどの山よりも標高差が大きいのである。まして冬の厳しさは格別だ。  二度エベレストを南北から制した尾崎隆は、一九七九年の夏に、カシン・リッジとウエスタン・リブにはさまれた未踏の大岩壁に三名で挑戦したが、そのうち一人が高山病にかかって間一髪のところヘリコプターに救助され敗退。以後彼は「恐怖のマッキンリー」という。その尾崎隆が話す。 「冬のエベレストで推定、氷点下四〇度か四五度、ひどいときで五〇度でしょう。マッキンリーの冬は北極圏の寒気がそのまま下りてくるので、それより寒いかもしれない。風も凄まじい。瞬間風速一〇〇メートルにも達するのではないか。想像を絶する世界です」  その証拠に、冬のマッキンリーの征服者は、植村が挑戦するまで、わずか二パーティ六名しかいない。むろん単独など不可能とされてきた。植村はそれに挑んでいる。二月四日は猛吹雪のため行動できず、一日中雪洞に閉じこめられた。  五日、植村は早くもピンチに見舞われた。アイゼンが歩き始めて五分もしないうちに脱げてしまう。これを締め直すのが大変だ。オーバー手袋ではなかなかできず、かといってカシミヤの五本の手袋でやると、たちまち指の感覚を失う。三十分もかけてやっと締め直して歩くと、今度は別の足のアイゼンがはずれた。  植村が初めてつけたエアーブーツは、北極圏用に開発された軍用ブーツで、全体がゴムの袋状になっていて、中の空気量がバルブで調節できる。軽くて、しかも保温効果がいいのは二重登山靴を上回る。一九八三年の冬期エベレストに成功したカモシカ隊の隊長・高橋和之は最初このエアーブーツを検討したが、結局、これを使わなかった。私も見せてもらったが、二重登山靴よりも大きく、硬度に安定性がなく、通常の登山靴用のアイゼンとはピッタリ合わない。とくに急斜面の下りでは、より滑落の危険が大きい前向き姿勢をとらざるを得なくなるという欠点がある。エアーブーツ用のアイゼンも開発されているというが、植村は通常のアイゼンを使っていたようだ。  アイゼンの不安だけではない。この日、植村は強風と吹雪のため、立って歩くことができず、四つん這いになって歩いた。ところが暗くなり始め、掘った雪洞が発見できない。あるはずの雪洞がない。焦った。このままでは凍死するしかない。 〈四つん這いになって右へ左へ探しまわる。俺はこれで死ぬのかもしれない。掘っていた穴にたどりつかないとあせり気味。更に風の強いウエストバットレス。突き当たりのほうに進んでみると、すぐ目の前に、掘り出したブロックの|凸き《ママ》(突起)があり、やっと辿り着いて、ザックのまま穴の中にとび込む。これで助かった(文献10)〉  植村はやっと死地をのがれ、気持ちを鼓吹するように、※[#歌記号]若く明るい歌声に、雪崩も消える花も咲く……と大声で歌った。『青い山脈』は植村の大好きな愛唱歌だった。日記にはこのあと「クレバスに落ちる」とも書いてある。どれ一つとっても、死に直結するものばかりだった。  日記は六日の分まで記録してある。植村は最後に「何が何でもマッキンレー、登るぞ」と絶叫するように書いて、それ以後の記録はない。植村は、酷寒の大自然にただ一人で勇猛に戦っているのだろう。BCとの連絡もうまく機能していない。七日と八日の行動不明。九日、快晴。ようやくパイロットのダグ・ギーティングが植村の姿を確認したが、十日は再び行動不明。  十一日、パイロットで冒険家でもあるタルキートナ・エア・タクシーのローレル・トーマス・ジュニアとカメラマンの吉原と助手の杉山が五二〇〇メートル付近で植村を確認、初めて交信することができた。杉山が連絡をとる。 「エー、私のいるところは一万七二〇〇フィート(約五二四四メートル)です。そのずっと下です、ずっと下です」  植村の声は意外に元気そうに聞こえた。 「登頂に成功したあとですか、これからですか、どうぞ」 「エー、これからです、これからです。エー、天気が悪くて全然動けません」  十二日、植村はデナリ・パスを過ぎ、頂上までの中間のリッジ上にいるところをトーマス機に再び確認された。 「エー、デナリ・パスから約一〇〇メートル登ったところにいます。エー、標高一〇〇メートル以上、今頂上に向けて稜線上にいます。どうぞ」 「ハイ、了解しました。エー、ただ今、植村さんを発見しました。どうぞ」 「…………」(雑音で意味不明) 「今の植村さんの状態からして、頂上まであと三時間くらいでしょうか。どうぞ」 「…………」(ザーという雑音のみ) 「エー、よく聞きとれません、よく聞きとれません。もう一度お願いします。どうぞ」 「(突然入る)エー、今から二時間くらいはかかると思います。どうぞ」 「ハイ、了解しました」  植村は五六〇〇メートル地点に達している。  翌二月十三日、劇的な交信が交わされた。 「植村さん、感度ありましたら応答願います。どうぞ」 「(突然叫ぶような声で)かすかに感度あります。エー、きのうの午後七時十分前に……」 「まだよくわかりません。ただ今登頂中ですか。今日は強風のため断念したのですか。教えてください。どうぞ」 「エー、七時十分前にサウス・ピークの頂上に立ちました。どうぞ」 「おめでとうございます。おめでとうございます。エー、何時に頂上に着いたんですか。そのときの時間と状況を教えてください。どうぞ」 「エー、きのうの夜の七時十分前にサウス・ピークの頂上に着きまして、エー、きのうの夜十時頃に下り始めましたんですが、エー、ルートがよくわかりませんでビバークいたしました」 「現在位置を教えてください。どうぞ」 「エー、私がいるのは、サウス・ピークからずっとトラバースして、標高……(混信して不明)エー、あとは……(混信)」  交信は雑音と混信でよく聞きとれなかったが、植村が頂上に立ったのは間違いなかった。二月十二日といえば、誕生日だ。植村直己は一九八四年二月十二日、四十三歳の誕生日に、冬期マッキンリーの単独初登頂に劇的に成功したのである。植村は、自分の輝かしい冒険史に、またまた一つの金字塔をうち立てた。  しかし植村は声だけである。パイロットのトーマスは旋回しながら探したが発見できない。トーマスは姿の見えない植村にこう祝福してひとまず引きあげた。 「ナオミ、ナオミ、君を探しているけど異常はないだろうね。君がうまくいってくれて嬉しいよ。昨夜の登頂成功、本当におめでとう。上では大変だったろう。君が無事でいてほしい。あとでまたきて君を探すからな。ベースキャンプでたくさんのご馳走、お茶、ココアを用意して待っている。気をつけろよ。すぐにまた会おう。マッキンリーの冬期単独登頂おめでとう。本当にドデカイことをやったな。世界の山屋が目をむくぜ。じゃあな、バイバイ。ナオミ」  植村の快挙は、電波に乗って世界中に流れ、「世界のウエムラ」の名声をさらに高めた。数日後にはこの朗報が一挙に暗転するのだ。  植村と最初にエベレストに登った松浦輝夫は、大阪の街を車で走っているとき、ラジオで「植村氏、冬期マッキンリーに単独登頂成功」というニュースを聞き、ああ、冬のマッキンリーに行っていたのか、と思った。ミネソタから年賀状をもらったが、マッキンリーのことはなにも書いてなかったからだ。  朝日新聞に後輩がいるので、「下山してきたのか」と確認すると、「どうやら下山してきます」という。初めて安心して、すぐに植村の妻・公子に電話を入れた。 「奥さん、よかったなあ。もう二度と山に行かしたらあかん」 「ありがとうございます」  公子もホッと一安心したようだった。  その頃、マッキンリーでは事情が一変していた。植村の行動を空から追っていたテレビ朝日のスタッフは、十三日午前十一時、登頂に成功して下山途中の植村と交信することに成功したが、植村の姿はどこにも発見することができなかった。パイロットのトーマスは、植村との交信で、カヒルトナ・ベースで十五日にピックアップしてほしい、と植村が希望していることを雑音の激しい交信の中からようやく聞きとった。  十五日、タルキートナ・エア・タクシーの同僚パイロット、ダグ・ギーティングがカヒルトナ氷河に飛んだが、植村は下りてきていなかった。ダグはウエスト・バットレスのルート沿いに飛んで植村の姿を求めたが、一万七〇〇〇フィート(五一八三メートル)付近は秒速二七メートルの強風が吹き荒れていた。この飛行でダグは、八七〇〇フィート(二六五二メートル)地点に、植村がデポしたクレバス転落防止用の竹竿が残されているのを視認している。カヒルトナのBCでは、大谷が植村を迎えるために待機していた。 「BCには、単独登頂に成功した植村をスクープするため、AP通信の記者とカメラマンがきていて、植村さんを待っていたが、戻ってこなくても、さして心配はしていなかった」  と大谷が話すように、これまで幾度も死地をくぐり抜けてきた植村に対する絶大の信頼をみんなが持っていた。それに植村にはあと二日分の食糧と燃料が残されているはずだ。  十六日の朝、ダグがとうとうウエスト・バットレスの一万六四〇〇フィート(五〇〇〇メートル)付近の雪洞から手を振る植村の姿をとらえた。ダグの話では、植村は雪洞から上半身を乗り出して手を振っていた。植村とダグは事前に打ち合わせをしていた。手を振るのは元気な証拠、動かないときは救助を要する、というものだ。ダグは雪洞付近を何回も旋回し、植村を確認した、とあとで証言している。 「植村さん無事! 冒険野郎『絶望』から生還」、「植村さん、さすが! 鉄の体力と精神力」などと、日本の新聞は報じた。連絡を断ってから四日目である。公子はようやく少し愁眉をひらいて、こう心境を吐露している。 「四日間も連絡がとれないなんていうのは初めてのことなので、とても心配していましたが、無事と聞いてホッと一安心しました。あとは無事に下山してくるのを祈るだけです」  国立公園当局のロバート・ゲルハルトは、ダグの報告を聞いて検討した結果、「天候が回復しだい植村が自力でカヒルトナ・ベースまで下山することは可能だ(文献21)」と判断した。天気が悪く、ヘリコプターをホバリングさせたり着陸させたりすることは不可能で、植村は自力で脱出するしかない。  その後、植村は再び消息を絶った。十七日から三日間、天候がさらに悪化し、ヘリによる捜索は困難をきわめた。やっと植村のスノーシューズを一万四三〇〇フィート(四三六〇メートル)の盆地で、竹竿を八七〇〇フィート(二六五〇メートル)地点で発見しただけだ。吹きすさぶ烈風と渦巻く雪のためにヘリはそれ以上高い地点を捜索することができない。いろいろ総合すると、植村は雪洞(五〇〇〇メートル)とスノーシューズのデポ地点(四三六〇メートル)の間と推測された。  二十日、天候がようやく回復した。熊のように穴にじっと身を潜めている植村が下山行動するなら、この好天をおいて他にない。ダグとトーマスは空が明るくなると同時に飛び立ち、午前中だけでも延べ五時間にわたって、カヒルトナBCから山頂までくまなく空から捜索したが、植村の姿は依然として姿もその足跡も発見することができなかった。「不死身のウエムラ」のことだから、きっとどこかで生きているという観測はしだいに憂色が濃くなり、絶望へと変わっていく。  植村の捜索状況は連日、日本でもテレビや新聞で大きく報じられていた。練馬の自宅で佐藤久一朗は病床に伏している。二階の寝室からベッドを一階の応接間に移し、庭を眺めながら療養する日々だったが、植村の遭難が伝わると、テレビが映し出すマッキンリーの厳しい状況をじっと見つめていた。テレビは植村の憂色を伝える。佐藤は黙って見ていたが、ポツンとつぶやいた。 「直己……直己……大丈夫だからね、大丈夫だからね……」  マッキンリーの厳冬の中で死と戦っている�息子�を励ますように、佐藤は何度もつぶやく。 「直己……直己……大丈夫だからね……必ず生きて還ってくるんだよ」  この応接間には植村の思い出がいっぱいつまっている。玄関を入ると、白熊の頭が飾られている。一万二〇〇〇キロの快挙を果たした記念に持ち帰ったものだ。最初の犬橇三〇〇〇キロの旅に使った犬橇用の鞭もある。シオラパルクで越冬したときに持ち帰ったエスキモーのカヌーの模型もある。植村が愛用したピッケルなどの用具もある。植村は公子と結婚したときに、グイ呑みとは別に、五大陸最高峰の頂上の石を砕いて、特製の抹茶茶碗を五個作った。そのうちの一つは佐藤に贈られ、ずっと愛用していたものだった。この部屋には植村のすべての思い出がつまっている。金婚式のお祝いにはわざわざヨーロッパ・アルプスへ連れて行ってくれた。  佐藤の脳裡を植村との思い出が走馬灯のように駆けめぐっているのだろう。佐藤はうわごとのようにつぶやき続けた。孝子が涙ぐむ。 「主人は本当に直己さんが好きでした。ですから遭難したと知ったときの驚きと心配といったら……。このあと絶望が深くなるにつれ、主人はもう一言も植村さんのことを話さず、テレビも見ませんでした」  佐藤久一朗は、植村直己の死のあとを追うように四ヵ月後の六月二十一日、老アルピニストの生涯を閉じた。享年八十三歳だった。  日高町の実家では、やはり八十三歳になる父親の藤治郎がテレビの前から離れなかった。 「直己は必ず戻ってくる。あれは簡単には死なん。そげなこと、子供が親より先に逝くなんてあってたまるか」  藤治郎は、直己の遭難が伝わると、近くの氏神さまにすぐお参りに行った。雪の中を老いた父親が手を合わせて祈る。 「直己がどうか無事でありますように、無事でありますように」  その氏神さまに、兄嫁の寿美恵は心配してくれる婦人会の人たちと、直己の行方不明以来、凍てつく中を毎夜お百度参りを続けて、必死に無事を祈っていた。兄の修も姉たちも弟がマッキンリーに登って遭難したことを知り、愕然としていた。後援会会長の正木徹も言葉がなかった。  マッキンリーでは捜索が続いていたが、植村生還の可能性は消えていくロウソクの火のようにはかないものになってきた。大谷映芳は、十九日救援に駆けつけたウィックワイアとBCで合流。ヘリコプターで四二〇〇メートルの雪洞付近まで飛び、そこから足で捜索を開始した。二人のK2登頂者は、この雪洞で植村の装備類を発見した。カメラ、フィルム、スノーシューズなどの装備類の他に、植村が書いた日記が残されていた。登頂する前に身を軽くするため置いていったもので、ここにはまだ帰着していないことがわかる。 「捜索の参考になるかと思い、日記をパラパラめくっていたら、『何が何でもマッキンレー、登るぞ』と終わっている。自分を鼓吹して頂上を目指したんだな、とその気迫にうたれました」  大谷とウィックワイアは、一週間連続で山頂へ向かう捜索を続けたが、四九三九メートルの地点に、もう一つの雪洞を発見しただけだった。雪洞には燃料用の缶が一つと、食糧が入っている袋が数個、それに食べたカリブーの骨が若干残っていた。二人は悪天候に苦戦しながら、さらに五〇〇〇メートルまで登ったが、植村が生存している可能性はもはやどこにもなかった。  公子は押しかけるマスコミ攻勢から身を避けて、ひたすら夫の無事を祈っていたが、家を出る前に夫の身になにごとか起こったことを直感した。 〈家を出る前の、2月19日と20日の両日の体験を、私は生涯忘れることがないと思います。その日までは、植村はこれまで何度かあったように、遭難と騒がれても必ず出てくる、と多くの人がおっしゃって下さったように、私もそう信じてました。  必ず照れ臭そうな笑顔を見せて現われてくる、と思っていました。  けれど、あれは19日の朝でした。なにか周囲の空気がいつもと違うのです。海の底にでもいるようなシーンと静まりかえって、重く透明な空気が私のまわりに沈んでいるのです。それはいままで経験したことのないものでした。  次の日もそうでした。  それで私は、ああ、これはあの人になにか起ったのだな、と思いました(文献10)〉  常陸宮妃殿下もことのほかご心痛になられた、と聞く。  湯川豊は、植村が成功したというニュースを教えられ、「当然だな」と思ったが、最初に行方不明になったとき、もしかすると駄目かなあ、と妙な胸騒ぎがした。 「ものの考え方が複眼的になり、野外学校など将来のことを考え出したときに、エネルギーが薄れてしまったのか、運命の皮肉を感じましたね。ああ、植村はこういう死に方をするのかなあ、と思った」  安藤幹久は、居ても立ってもいられない気持ちでアラスカに飛び、二月二十三日にタルキートナに入った。明大山岳部OB会の炉辺会では、大塚博美を中心に対応策を協議し、まず、橋本清隊長以下、松田研一ら四名の隊員で構成する第一次捜索隊を派遣、彼らもタルキートナに入った。  しかし状況は完全に絶望的だった。大谷とウィックワイアの捜索報告を検討した国立公園当局は、二月二十六日、「ウエムラの生存の可能性は一〇〇パーセントない」として、ついに捜査の打ち切りを発表した。安藤は叫びたかった。 「まだ、あきらめるのは早い! ミニヤコンガでの松田宏也さんの例もあるんだ。ガンバレ、直己、頼む。もう、かくれんぼは終わりにしようぜ。直己、出てきてくれッ」  土肥正毅は対策本部事務局の責任者の一人として、対策に追われていたが、国立公園当局が捜査打ち切りを発表したのを知ると、しばらく沈黙したあとで、沈痛にいった。 「私たちとしては、現地へ派遣している捜索隊から正式な報告が入るまでは、植村はまだ生きている、と信じたい」  土肥は無念だった。心の中で叫ばずにはいられない。 「植村よ……なぜマッキンリーなんかに登ったんだ。おれがあんなにいったのに。植村よ、……なぜあのとき空港でおれの手紙を素直に受け取ってくれなかったんだ。おれの手紙を読んでいたらと思うと……植村……植村……、生きて還ってくれ!」  橋本らの第一次捜索隊は五二四四メートルまで登り、そこの雪洞から植村の遺品を多数発見した。シュラフ、ヤッケ、ズボン、手袋、靴下などの衣類、カリブーの肉などの食糧、アルミ食器、鍋などの他、コンパス、温度計、カラビナ、アイスハーケンなどの登山用具、それに八ミリと三五ミリのフィルムなど合計三十五点。この雪洞はおそらく、アタックキャンプとして設営されたもので、植村はここから頂上を攻撃したと思われる。そしてこんなに多岐にわたる装備類がここに残っていることは、植村がここまでたどり着いていないからではないか。  すると十六日に、ダグ・ギーティングが五〇〇〇メートルの雪洞で手を振る植村の姿を見たということが真実であれば、ここに残されている尨大な装備類はなにを物語るのか。ここからダグの誤認説が出てくる。しかしウィックワイアはこうダグを弁護している。 「法律家の立場から、私はダグ・ギーティングの証言の信憑《しんぴよう》性を重視する。ダグはあの時点で誰からも干渉されていないからだ。なぜ嘘をつく必要があるだろうか」  国立公園当局のロバート・ゲルハルトは「植村直己捜索報告(文献21)」の中でこう可能性を示唆している。 [#ここから0字下げ、折り返して3字下げ] (1)植村は五二四四メートルに装備を残し、ダグ・ギーティングが二月十六日に目撃したという五〇〇〇メートルの雪洞まで下った。 (2)植村は強風と視界不良の中を下山中に五二四四メートルの雪洞を通りすぎ、五〇〇〇メートルの雪洞まで下りてしまった。これが事実なら彼は五二四四メートルに残した装備類を断念したか、二月十六日以降にそれをとりに登り返したのではないか。 (3)二月十六日の目撃がギーティングの誤認で彼が植村を見なかった場合。当日の天候は非常な強風で気流も悪かったから、ギーティングは稜線に十分近寄ることができなかった。しかし彼は当時もいまも自分の目撃を確信している。誤認だったとすれば、植村の遭難地点は四三六〇メートルから山頂までのどこかにひろがることになる。 [#ここで字下げ終わり] 〈以上をまとめて、植村の死は一万四三〇〇フィート(四三六〇メートル)と一万六二〇〇フィート(四九三九メートル)の間、あるいはデナリ・パスより上のどこかで起こったというのが最も可能性の高い推測となる〉  植村は十三日の交信で、現在地を何回も聞かれている。 「植村さん、植村さん、標高を教えてください。どうぞ」 「エー、私もよくわかりませんが、約……(雑音で聞えず)」 「よく聞きとれません。もう一度お願いします。どうぞ」 「二万、二万、二万フィート……(混信と雑音)」 「植村さん、応答願います、どうぞ」 「……(雑音のみ)」  植村に応答の声なく、これが植村直己の最後の肉声となった。  二万フィートというのはほぼ頂上直下である。ここからどう動いたのか。そして死の原因は植村がアイゼンの不調で滑落したものなのか。それとも突風に瞬間的に吹き飛ばされたのか、いろいろの推測はなされているが、それは永遠の謎となった。  多田雄幸も「奴」のお女将、加藤八重子も、ただひたすら「植村さん、早く元気な顔を見せて!」と祈ってきたが、今はそれも虚しかった。  アルゼンチンに住む高山良比古は、植村の遭難を知り、オランダの有名な透視術者にマッキンリーの地図を送って依頼した。 「この人は、ウルグアイのラグビーチームの乗った飛行機がアンデス山脈に墜落したとき、どこに遺体があるかを透視して当てた人で、外国では非常に有名な透視家です。植村の場合も、尾根の東側の斜面の岩陰にこういう状態でいるから飛行機は右旋回でなければ見つけられない、というように具体的に場所を指示したが、捜索の資料に活用されるには至らなかった」  四月になって、明大は同期だった広江研を隊長とする大規模な第二次捜索隊を派遣した。副隊長の菅沢豊蔵は、マッキンリーに向かって声の限りに叫んだ。 「植村さーん、植村さーん」  氷点下三〇度の世界に、北極圏から吹き下ろす強風がゴーゴーととどろく。菅沢の悲痛な絶叫も凄絶な大自然の中では、ほんのちっぽけな人間の虚しい慟哭にしか過ぎなかった。第二次捜索隊は、マッキンリーの頂上にはためく日の丸の旗を発見した。それこそ厳冬のマッキンリーを単独で初登頂に成功した植村直己が、この世に残した最後の冒険の証しだった。 [#改ページ]   エピローグ 「常々、冒険とは生きて還ること、と偉そうにいっていたのに、ちょっとダラシがないじゃないの、といってやりたいと思います」  公子は、またこうもいった。 「夢を少し残しておけばよかったのに、と思います」  植村直己の捜索が事実上打ち切られたあと、三月九日午後五時から明大構内で、植村の妻・公子の記者会見が行なわれた。大塚博美と土肥正毅らが付き添う。黒いセーター姿で会見に臨んだ公子は傷心の深さをのぞかせながらも、ときには悲しい微笑さえ浮かべて、健気《けなげ》に答えていた。  日本の高度成長期に全速力で時代を駆け抜けた植村。安逸に流れる時代に抗して、生死を賭けた未踏への挑戦は、多くの人たちに生きることの真実と人間の尊厳、勇気、愛とはなにかを教え、壮大な夢とロマンを与えた。  この日の朝、植村が帯広動物園に寄贈したエスキモー犬、イグルーが死亡した。植村が北極圏走破のあと連れ帰った四頭のうちの一頭で、雄の十三歳(推定)。年齢的には老衰による死亡だったが、前日まで元気だっただけに、動物園の人たちの目にはなぜか�殉死�に映った。  公子は記者会見の席で、「一年ぐらいは山は見たくない」と目を伏せたが、一年余り過ぎた一九八五年の七月五日、植村の遭難したマッキンリーにひとり旅立って行った。アンカレジに向かう飛行機の中で、日本人スチュワーデスが植村の妻であることに気がつき、特別にコックピットに案内してくれた。真正面にマッキンリーの白い巨大な山群が見えた。公子は涙があふれそうになった。  タルキートナに着いた日は快晴だったが、翌日から天候が荒れた。公子は、夫が泊ったと同じ「ラティチュード62」に宿をとった。そこの女主人マイエラは、植村の誕生日が二月十二日と知り、マッキンリーを形どったバースデイケーキを作って登頂成功を待ち受けてくれた人である。二人は女の悲しみをわかちあった。ダグ・ギーティングは「惜しい男を失くした」と、植村の死を悼んでくれた。十年間の結婚生活で一緒に暮らしたのは五年間だけだった。  天候が三日後に晴れた。公子はカヒルトナ氷河までヘリコプターで飛んだ。夫はここをBCにして厳冬のマッキンリーに挑み、登頂には成功したものの、ついに還ってこなかった。カヒルトナ氷河は夏でも雪だった。公子はBCの周辺をゆっくり歩いた。植村が最後に立った氷河の感触を確かめるように。そして正面を仰ぎ見た。マッキンリーの頂上をきわめた夫は、この山のどこかに眠っている。きてよかった、と思った。 「別に深いこだわりはなかったんですけど、でも一度行きたかった」  短い言葉の中に公子の感無量さが込められているように思う。 「植村はとてもいい顔してきたな、と思ったら、いなくなっちゃった。でも、植村は悔いはなかったと思う。自分の好きなことをして、人の倍も生きたのだから、いい人生だったと思いますよ。私はそう信じたい」  公子が記者会見した一ヵ月後、私はエベレストに向かった。エベレストの魔力は、実際に自分の目と足と体で確かめたものにしかわからないものかもしれない。山などこれまで登ったことのない私でさえ、まるで憑《つ》かれたようにより高く登ろうと意気ごんでいる。  タンボチェに加藤保男の慰霊碑ができた。私はそこに鎮魂のお参りをしたあと、さらに登り、四二〇〇メートルのペリチェまでたどり着いた。ペリチェは、植物限界を越えて、荒涼とした岩山に囲まれた小さな盆地だった。ここから二つ上がエベレストのベースキャンプである。五月の初めだというのに雪が舞っていた。ペリチェに東京医科大の高所医学診察所ができている。シェルパだけでなく、年々増えている私のようなトレッカーたちの高山病が診察され、中には間一髪《かんいつぱつ》で生命を救われたトレッカーもいた。この診療所にナムカというシェルパが助手として働いている。私はナムカに会った。ナムカは、一九七〇年、植村がエベレストに挑戦したときからシェルパとして働き、植村のことをよく知っていた。 「一九八〇年の冬期エベレストのときは、武井(滋)先生とBCまで行った。残念だけど、このときはウエムラさん、登れなかった。でも、ウエムラさん、いい人ね」  植村はナムカに将棋を教えて、自分が詰ますと、「勝った、勝った」とこ躍りして喜んだ。私はナムカに、「植村さんはマッキンリーで二月に死んだ」と教えた。ナムカは信じられない顔をした。それからポロポロと涙をこぼした。植村はここでも愛されていた。 「ウエムラさん、死んだ? とても信じられない。カトウさんも死んだ。いい人がみな死ぬ。悲しいです」  その夜、テントに入っても寒くて眠れなかった。凄まじい風の音がした。雪も降ってきた。ここは少なくとも神々の座により近い高所なのだ。私は植村たちの人生に思いやった。 「エベレストに登頂したという経験は、その人間を幸福にするか不幸にするか」  加藤保男はエベレストにだけ異様な執念を燃やし、「三冠王」の厳冬期のエベレストに消えた。植村はエベレスト初登頂で、南極への夢をはぐくませ、極北の放浪者となり、最後は南極に見果てぬ夢を残しつつ、厳冬のマッキンリーに消えた。加藤は独身だったが、植村は結婚してからも、さながら�永遠の漂流者�のように冒険を続けていった。  さまよえるオランダ人の船長は、ゼンタという恋人にめぐり逢ったあとも、また港を出て行く。しかし最後は、生涯の愛を誓ったゼンタと至上の愛に結ばれて、天上の愛へと昇華していくのである。植村は、公子という理想的な妻を得ながらも、冒険に出て、そして死んだ。二人の愛もやはり至上の愛へと昂まっていくのであろう。  そのような生きざまで生涯をつらぬいた植村は、公子のいうように幸せな男だったのかもしれない。私はもう一度、公子の言葉を思い返していた。 「植村と一緒に暮らせて幸せだったと思っています。めぐり逢えてよかったと思っています」  岩下莞爾と中村進が極北の村シオラパルクを再訪したとき、岩下は公子から託された植村の写真などを持参していた。養父母のイヌートソアとナトックは、風の噂に植村の死は知っていたようだったが、岩下から詳しい�息子�の死を聞かされて、深い悲しみの底に沈んだ。 「ナオミがもうこの世にいないとは……」  老いたナトックのしわだらけの頬に、涙がポロポロと伝わってこぼれた。イヌートソアの落胆と失意は、老いの深さを感じさせた。 「ナオミはいつまでも生きているさ。わしたちの心の中に」  かつて北極点争いで熾烈な闘争心を見せた「シオラパルクの狼」ピーター・ペアリーも不帰の人となっていた。一説では自殺ともいう。福祉国家に住む西洋人の価値観と異なり、狩猟民族として生きる彼らには、独得の誇り高いプライドがあるのだろう。そのプライドが傷ついたときは潔《いさぎよ》く死を選ぶのか。  八四年の十二月二十二日、公子は、奈良市五条町にある竹中家で、土肥と並んで頭をたれていた。竹中家の両親、裕、俊子の前に胸像が置かれてある。植村はマッキンリーに出発の直前、冬期エベレストで亡くなった竹中昇の胸像を、知り合いの彫塑家・塩崎宇宙に依頼していた。  胸像は縦五〇センチ、横二六センチのブロンズ像で、裏には公子が書いた「隊員一同より贈る」の文字と、隊員十七名の名前が刻みこまれているが、製作費は植村がこっそりと自分一人でもった。本来は植村本人が贈るところであったが、植村もまた二月にマッキンリーで遭難した。 「竹中さんのお宅で、私からもらうのがとてもつらいのではないかと、それがいちばん気になりました」  贈るほうも、贈られるほうも、ともに夫と一人息子を山の遭難で失っている。胸像を前にしてお互いの胸の中に去来していたのはなにであったろうか。竹中家は、唐招提寺《とうしようだいじ》と薬師寺のすぐ近くにある静かな住宅街だ。千年古都の静寂さの中で、その年も間もなく暮れようとしていた。  塩崎宇宙は、植村直己自身のレリーフを造る運命のめぐり合わせになった。吉田宏の尽力で、植村がグリーンランドを縦断したときの最終ゴール地点、ナルサスワック空港近傍の岩壁に、植村のブロンズ製レリーフが設置された。兄の修は吉田宏とともに八五年の九月十二日、グリーンランドを訪ねて、このレリーフの前に立った。「世界に名前をあげてやる」といって外国へ飛び出していった弟が、今や外国の地にこんな立派なレリーフまで飾られている。熱いものが胸にこみあげた。 「デンマークの人たちに聞いたら、日本人で知っているのは、まず植村直己で、その次が中曾根さんというとった。直己も両国の友好のために少しは役に立ったのかと思うと感無量でした」  植村は四十三歳の生涯に約三十ヵ国を旅しているが、登山と冒険を通して、ネパールのシェルパたち、グリーンランドのエスキモーたちとの交友だけでなく、デンマーク、カナダ、アメリカ、イギリス、アルゼンチン、ブラジル、ペルー、アフリカの国々……などと、実に多くの国々との民間外交を果たしたともいえる。これは冒険以上のものだ。  一九八四年六月十六日、「植村直己に別れを告げる会」が、東京の青山斎場で行なわれた。会場には、大きな植村の遺影が飾られ、約三千名が偉大な冒険家の遺影に献花して、その冥福を祈った。明大捜索隊が頂上から持ち帰った日の丸と星条旗、それに植村愛用のピッケルが飾られた。植村が生涯の師と仰いだ西堀栄三郎が、 「君が求めたロマンを、残された友人たちがきっと引き継いでいくであろう」  と別れの言葉を述べ、詩人の草野心平が植村に贈る自作の詩を朗読した。  弔辞を述べたのは他にマンスフィールド米大使、日高町の竹馬の友・正木徹、明大山岳部同期生の広江研。静かな微笑を絶やさない喪服姿の公子の姿が、悲しみをいっそう深くした。  この席で、デンマークのベニー・キムバーク大使が劇的な発表をした。 「デンマーク政府は、一九七八年に植村直己が史上初のグリーンランド縦断をなしとげた業績を後世に残すため、植村がゴールの目標にしたヌナタックを『ヌナタック・ウエムラ峰』と命名した」 『ヌナタック・ウエムラ峰』は標高二五四〇メートルの双耳岩峰で、北緯六一度三九分、西経四四度一五分。  植村は死後、「国民栄誉賞」と「明治大学名誉学位」を贈られた。それにもまして、植村はデンマーク政府の決定を最大の喜びとしたであろう。日本の学歴社会から自らドロップアウトし、この地球上を駆けめぐった漂流者の名前が、世界の地図に記載されて永遠なものとなった。 [#改ページ]  引用・参考文献 1 『エベレストを越えて』(植村直己著、文藝春秋) 2 『ちょっとエベレストまで』(リック・リッジウェイ著、真野明裕訳、講談社) 3 『登頂ゴジュンバ・カン』(高橋進編、茗溪堂) 4 『幻想のヒマラヤ』(村井葵著、中央公論社) 5 『エベレスト』(毎日新聞社) 6 『わがエヴェレスト』(エドマンド・ヒラリー著、松方三郎・島田巽訳、朝日新聞社) 7 『世界登攀史』(エリック・ニュービイ著、近藤信行訳、草思社) 8 『青春を山に賭けて』(植村直己著、毎日新聞社) 9 『植村直己 冒険の軌跡』(山と溪谷社編) 10 『植村直己・夢と冒険』(文藝春秋) 11 『極北に駆ける』(植村直己著、文藝春秋) 12 『アークトス』10号 13 『北極圏一万二千キロ』(植村直己著、文藝春秋) 14 『南極第一次越冬隊とカラフト犬』(北村泰一著、教育社) 15 『北極点を越えて』(ウォリー・ハーバート著、木村忠雄訳、朝日新聞社) 16 『北極点グリーンランド単独行』(植村直己著、文藝春秋) 17 『エベレスト南壁』(P・スチール著、丹部節雄訳、時事通信社) 18 『チョモランマ単独行』(ラインホルト・メスナー著、横川文雄訳、山と溪谷社) 19 『わがエベレスト』(加藤保男写真集、読売新聞社) 20 『忘れ得ぬ人 植村直己』(ジェームズ・ウィックワイア著、『リーダーズ・ダイジェスト』85年8月号所載) 21 『岩と雪』104号  その他、『極北に消ゆ』(明治大学山岳部炉辺会編、山と溪谷社)、『北極点をめざす野郎たち』(読売新聞社会部編、読売新聞社)、『オケラ五世優勝す』(多田雄幸著、文藝春秋)、『風狂を尽して』(竹中昇遺稿追悼集)、『Number』96号(「戻ってこい! 植村直己さん」、文藝春秋)、『植村直己 冒険のすべて』(文藝春秋デラックス、文藝春秋)、『ナショナル・ジオグラフィック』などを参考にした。  またテレビ作品『北極点に立つ』『南からきたエスキモー』(以上日本テレビ)、『夢叶い夢破れ』(毎日放送)、『さようならナオミ』(テレビ朝日)などを参照した。なお、毎日新聞の遠征記録と朝日新聞を資料にしたことを付記する。  文庫版あとがき  植村直己は一九八四年(昭和五十九年)二月十二日、四十三歳の誕生日に、北米の最高峰マッキンリー(六一九一メートル・現地名デナリ=王者という意味)の冬期単独初登頂に成功したあと、永遠に氷雪の中に消えた。栄光と修羅に満ちた劇的な生涯だった。  人にはそれぞれの人生の節目というものがある。私にとっては植村の「存在」を書いたことが大きな転機となった。植村が遭難した直後の四月下旬、私はエベレストに向かった。当初の目的は、エベレストに憑かれて、やはり劇的な最期をとげた登山家、加藤保男を書くための取材であったが、出発間際になって、植村の死に遭遇し、加藤のあとは植村を書くことになるという予感がした。エベレストは植村にとっても登山家、冒険家としての原点になった山である。もとより、私がエベレストに向かったといっても、登山はズブの素人であるから、エベレストの山麓を登る、いわゆるトレッキングというやつである。四五〇〇メートルのペリチェで、植村をよく知っているシェルパに取材できたのは、植村が引き合わせてくれたのか。崇高なエベレストを真近に仰ぎみて、彼らがなぜ生命を賭けて厳しい山に挑むのか、その一端を私なりに実感することができた。  私は『エベレストに死す』のあと、この『マッキンリーに死す』を書き、以前に書いた『サハラに死す』と合わせて、�死すシリーズ�三部作を世に送り出すことになった。世界的なレベルで、「未知の領域」に挑戦した日本人の登山家、冒険家の生きざまを描くのが私の目的だった。  この本の目的は、絶えず未踏の領域に生死を賭けて挑みつづけた不世出の冒険家、「世界のウエムラ」の素顔を、公子夫人や肉親をはじめ、彼とかかわりあってきた師、冒険仲間、友人たちの証言を通して浮き彫りにすることにある。植村の冒険の特徴は「単独行」にある。したがって、冒険の軌跡については、彼の残した記録を参考にしたが、冒険そのものは単独であっても、彼をサポートする人たちがたくさんいた。取材していて、植村がいかに多くの優秀なブレーンに支えられ、素晴らしい仲間たちに囲まれていたかがよくわかった。  公子夫人、兵庫県日高町の父親・藤治郎さん、長兄の修氏はじめ植村家のご遺族には、貴重な資料や秘話も含めて、実にお世話になった。心からの謝意を表したい。また植村の師ともいうべき西堀栄三郎先生はじめ、文中に登場してくる実に多くの人たちにご協力いただいた。単行本に列記したので、ここではお名前を割愛させていただくが、改めてお礼を申し上げる。  なお、文中は敬称を省略し、登場人物たちの年齢、社名、肩書きなどは特別に断らないかぎり、遠征当時のものであることをお断りしておく。  この本が完成を見るにあたっては、講談社学芸局長・鈴木俊男氏の激励と助言によるところが大きい。文庫化にあたっては、文庫出版局の生越孝氏の労をわずらわせた。これも深く感謝しなければならない。  植村が氷雪に消えて五年目の今年(一九八九年)二月、植村、加藤亡きあと、日本を代表する登山家になった山田昇が仲間二人と冬期のマッキンリーに挑み、植村が遭難したと思われる同じ地点でやはり魔の山にのみこまれた。植村は最初の五大陸最高峰登頂者であるが、山田は五大陸最高峰の最初の冬期登頂者の名誉に輝くはずだった。その二人が同じ冬のマッキンリーで悲劇的な死を迎えた。不思議な運命を感じずにはいられない。  植村は、私たちに生きることの真実と人間の尊厳、自己の可能性に挑戦する勇気とは何かを教え、壮大な夢とロマンを与えてくれた。そして、植村は最後まで南極の夢を追って、マッキンリーに消えた。それゆえに彼は今なお「未完の夢追い人」である。    一九八九年四月 [#地付き]長尾三郎 この作品は一九八六年二月、講談社より単行本として刊行され、一九八九年五月、講談社文庫に収録されたものです。